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怪奇作家の書生  作者: よしじまさほ
6/13

本の蟲(ほんのむし)

「本日からお世話になります。よろしくお願いします」

「堅苦しい挨拶はいいよ。自分の家だと思って気楽にしてくれればいいから」

「はい。ありがとうございます。本田先生」


 中臣清史なかどみきよふみ君が本田先生の家にやってきたのは彼と出逢ってから二週間後のことだ。

 そろそろ秋の虫の声がちらほら聞こえるものの、まだまだ暑さの残る午後、小さなトランクだけを手に、彼は先生の家の門を叩いた。


 滞在の名目は「行儀見習」ということになっている。

 伊勢神宮の大宮司まで務めた神職の一家の長男であり、彼自身も神職である清史君が作家である本田先生の元に行儀見習いに来るというのもなんだか妙な話だが、中臣氏によると、清史君はかなり世間知らずのところがあるらしく、この話は中臣氏と先生との間でいろいろ話がまとまった上でのことだから、私としては何も言えない。


「家の中を案内しよう。家内にはさっき逢ったね。部屋は吉岡君の隣だから」

「はい」


 先生はにこにこしながら清史君を連れて家の中うろうろしている。

 来客を口実にまた原稿を書くのをさぼるつもりだろう。


「おや、おたまがいないねえ……どこにいったんだろう。おたま、おたまや!」


 先生はおたまを探している。

 でも、多分先生が一人になるまでヘイマオ嬢は現れないだろう。彼女は清史君が苦手なのだ。


「おお、吉岡君。おたまをみなかったかね?」


 先生が私に訊ねる。


「いえ、今日は見かけていません。来客に驚いてどこかに隠れているのではないでしょうか?」

「そうか。確かに猫というのは人見知りな生き物だしな……残念だな、せっかく清史君に紹介しようと思ったのに」

「可愛い猫だそうですね。僕も逢ってみたいな」


 清史君はそう言って意味ありげに笑った。

 彼は爽やかな見かけと違って意外に人が悪いのかもしれない。


「そのうち帰ってきますよ。それより先生。青嵐せいらんの原稿はもう仕上げられたのでしょうか?」

「うむ……まだ、あと少し残っておる」

「夕方には都築さんが原稿を取りにいらっしゃいますよ」

「ううむ……そうだった。実はな、どうしても思ったように書けなくてね」


 先生は照れくさそうに頭を掻いた。

 どうやら「あと少し」どころか殆ど手がついていないようだ。

 やれやれ。都築さんは今回も御前様かもしれない。


「例の別冊の短編ですね?」

「そうだ。古今東西、妖怪の話は多いが短編としてしっくり収まる題材というとそうそうあるものではないからね」

「そうですね」


 先生は雑誌『青嵐』の別冊でも執筆している。

 青嵐は月刊誌だが、別冊の青嵐は季刊誌で、三ヶ月に一度発行される。

 そこに短編で一話完結の妖怪憚を書いているのだ。


「なにか妙案はないものかね……」


 すると、話を黙って聞いていた清史君が言った。


「本田先生。図書館に行かれては如何でしょう? 何か発見があるかもしれませんよ」


 そう言うと清史君は私を一瞬だけチラと見た。


「図書館か。そうだな……武蔵野図書館はすぐ近所だし」

「私もそれがいいと思います。気を散らすものがありませんから執筆に集中できるかと」


 私も先生に勧めた。清史君の発言には何か意図が含まれているように感じたからだ。


「うむ……ならちょっと行ってみるかな」

「戻ってくる頃にはきっとおたまも帰ってますよ。お土産でも買ってこられたら如何です?」

「そうだな。そうしようか」


 おたまへの土産というだめ押しが効いたようだ。


「では行ってくるよ。もし、私が遅くなって都築さんが先に来てしまったら、待っててもらっておくれ。そう遅くはならないから」

「はい。行ってらっしゃいませ」





 先生が出かけた後、清史君は私に言った。


「さて、先生の書斎に行ってみましょうか。吉岡さん」

「先生の書斎に? どうして?」

「先生が書けない理由を解消しにですよ」

「え? 書けない理由?」


 私は首をかしげる。

 飽きっぽい先生が書けない理由は書く気が持続しないということが理由だ。それ以外にどんな理由があるというのか?


「気付かなかったんですか? 吉岡さん。物の怪の仕業ですよ。この部屋には沢山居る……」


 先生の書斎に入ると、清史君は懐から小さな大麻おおぬさを取り出した。

 大麻というのは、神職が祓詞はらえことばを奏上するときに手に持つ、あの紙垂れが沢山ついた棒だ。


「まさか……先生に物の怪が?」


 物の怪の仕業なら私が気付かぬはずがない。


 すると、清史君はにっこり笑って私に言った。


「遮妖の眼鏡のせいで見えなかったのでしょう。影響力の少ない雑魚ですからね……僕にはすぐにわかりましたけど。先生は仕事柄物の怪を呼びやすい。父がよく祓っていましたが、やはり書斎にもいたのですね」

「知らなかった……」

「吉岡さん。眼鏡を取って回りをよく見てください。見えるはずですよ」


 私は眼鏡を外してみた。


 視界がぼんやりする。

 現実に見えるものはぼやけるが、現実に見えぬものは逆にはっきり見える。


「あ……」


 本棚のところにかさかさ動くものがいる。


むしだ……」

「見えましたか?」


 小さなごきぶりのようにも見えるが、それはごきぶりではない。

 妙な形をしている。


「……と?」


 それは平仮名の「と」の字に似ていた。


「他にもいますよ。こっちは「皮」ですね」


 清史君が指差したほうには漢字の「皮」の字に似た蟲が居た。


「これが、物の怪?」

「ええ。『本の蟲(ほんのむし)』です。書斎や図書館、書店にいますね。とりたてて害はないんですが、本の中の知識を食うので本が傷みやすくなります」

「知識を食う? 物の怪が?」

「はい。本が古びて傷んでくるのはこいつらの仕業です。物語や論文の中には著者の気が詰まっているんですが、本の蟲はそれらを好むんです」


 清史君は本の蟲を一匹指先でつまんで、私の目の前に差し出した。それは平仮名の『ぬ』の字のようだった。


「しかし、この部屋の中の本の蟲の数は異様に多い……これじゃ、先生がやる気を無くすのは仕方がないことですね」

「え?」

「本の蟲はだいたいどんなに多くても一部屋に数匹いるかいないか……しかし、ここには異常な数の本の蟲がいる。本だけでは飽き足らず、先生自身から知識の気を吸っているのかもしれません。よくまあこんなになるまでためたものだ……」


 清史君はそう言って溜息をついた。


「沢山居るって……」

「ああ、その本棚の裏とかにたぶんびっしりと。本を動かせば見られますけど、ちょっと気持ち悪いんでお勧めできませんよ」


 清史君はにやっと笑って厭なことを言う。

 私は少し想像しかけたが、あまりの気持ち悪さにそれ以上想像することはやめた。

 ある意味ごきぶりよりたちが悪い。


「普通は本を虫干ししたりすることで追い出せます。やつらは日の光が苦手ですから。でも、これだけ多いとちゃんと祓ったほうがいいでしょうね」

「できるのかい?」

「たぶん。でも、吉岡さんがいるからどうかな……」


 清史君は意味ありげなことを言う。


「どういうことだい?」


 しかし、清史君は私の質問には答えてくれなかった。


「とにかくやってみましょう。祓詞はらえことばを奏上してみます」


 清史君はそう言うと、先ほどの大麻を構え、厳かな声で奏上を始めた。


『掛けまくもかしこ伊邪那岐大神いざなぎのおおかみ

 筑紫の日向の橘の小戸おど阿波岐原あわぎはらに 御禊みそぎはらへ給ひし時に生りせる祓戸はらへど大神等おおかみたち 

 諸諸もろもろ禍事まがごと罪、穢、有らむをば 祓へ給ひ清め給へともうす事を聞こしせとかしこみ恐み白す』(※1)


 背筋がざわざわとする。


 ざーっと、まるで米粒を箒で掃くような音がして、黒い塊があちらこちらから表れ、清史君が振る大麻の周りへと集まったかと思うと、瞬時に霧散する。


「困りましたね」


 清史君は暫く大麻を振っていたが、それを途中で止めてしまい、困った顔で言った。


「数が多すぎて祓いきれない……。やはり吉岡さんのせいですね」

「え?」


 私はいきなりそう言われて驚く。


「どうして私のせいなんですか?」


「吉岡さんは物の怪の溜まりやすい気を持っているんですよ。つまりここは彼らにとってとても居心地がいい。だから、奴らがなかなか離れたがらない」

「そんな……」

「目には目を。物の怪には物の怪を。蟲を食う動物の力を借りなきゃだめですね」

「動物?」


 清史君はにやっと笑って私に言った。


「そういうわけで、吉岡さんの守護狐を貸してください」

「ええっ!」





「……で、なぜ俺がこの小僧に協力しなきゃならない」


 各務君は不機嫌そうな顔で私を睨みつける。

 各務君を呼び出すのは容易かった。表に出て、わけもなく通りをうろうろとしていれば彼は直ぐに顔を出すのだ。

 雑踏にはいろいろよくないものがいる。各務君はそんな輩を私に寄せ付けないために直ぐに現れるのだ。


「すまない。先生のためだ。頼むよ、各務君の力がいるんだ」

「本の蟲は香ばしいから俺は好物だが……でも、こいつが絡んでいるのが気に食わないなあ」


 各務君と清史君は相性が悪い。


「そういわずに、頼むよ」

「うーむ……こういうのは本来ヘイマオ嬢の仕事だと思うんだが。猫は蟲を捕らえるのが得意だし」

「清史君に脅えて出てこないんだ」


 私は各務君に耳打ちした。


「だろうな。この間酷い目にあっているし。なによりも生粋の物の怪である彼女はこの小僧の清浄な気は苦手だろうし」

「ひそひそ話はいい加減にしたらどうですか? 先生が戻るまでに本の蟲を退治しておかなきゃいけないでしょう?」


 清史君が面白くなさそうな表情で言った。


「各務君、この通り! 今度サイダアを差し入れする。油揚げと卵もつけるから」


 私は必死で頼み込んだ。


「しかたない。今度だけだぞ。次はヘイマオ嬢にやってもらえ」


 各務君はそう言うと人の姿から白狐の姿に変じた。


「吉岡さんは書斎の外に出ていて下さい。じきに終わりますから」

「わかった」





 暫くの間、清史君が祓詞を唱える声や、がたがたと物がぶつかる音が聞こえていたが、半時もしないうちに静かになった。


「終わりました。この部屋の本の蟲は全て退治しましたよ」


 清史君がそう言って出てきた。

 狐の姿のままの各務君も後に続いて出てくる。長い舌で何度も舌なめずりをしていた。


「本の蟲は美味いが、当分食べたくないな……美味いものも量が多すぎては興ざめだ」

「今度からはあまり溜め込まないように、定期的に駆除したほうがいいですね」

「ヘイマオ嬢なら簡単にやってくれるぞ。たぶん……うぐっ……」


 各務君がげっぷをしながら言った。


「でも、いままで彼女はこの書斎に先生と一緒にいたのに、なぜ蟲を取ってくれなかったんだろうね?」


 私は素直な疑問を口にする。


「彼女は皇帝の傍に侍っていた猫だったろ?」

「そうだよ」

「だったら美食の限りをつくしていたはずだ。それに、ここでも本田先生が彼女に美味いものをやっている……そんな彼女にとっては、たいして美味くもない蟲など興味がなかったのだろうさ」


 各務君がそう言った。


「なるほど」

「そういうわけで、あの猫はそう簡単には蟲を食ってはくれないと思うぞ。どうする? 神職の若造」


 各務君は細い目をさらに細め、意地悪そうな声で清史君に言った。


「そういうことなら手はありますよ。神使の狐ごときに心配されなくても」

「本当に嫌なやつだ。俺は帰るぞ。吉岡君、約束は忘れるなよ。サイダアは二本。卵と油揚げはそれぞれ十づつだ」

「はいはい。わかったよ」

「業突張りの狐はいやですねえ……」


 清史君がぼそりと言った。


「何か言ったか?」

「いえ、何も」


 私は少しだけ胃が痛くなった。






 夕方、先生が図書館から戻ってきた。

 その腕にはおたまを抱えている。


「さっき玄関にいたのを見つけたので連れてきたよ。ほら、おたまや。清史くんにご挨拶おし」


 しかし、おたまは必死で暴れてなんとか先生の手から逃れようとする。


「おや、どうしたんだい? おたま。そんなに暴れてはいけないよ」

「どうしたんでしょうね。おたまちゃん。何かご機嫌がわるいのかな?」


 清史君はそう言って先生の腕に抱かれたおたまの顔を覗き込む。


「みゃっ」


 おたまは短い悲鳴を上げた瞬間、ビクリと固まり、急に大人しくなってしまった。

 私はやれやれと思った。どうやら清史君は眼力でヘイマオ嬢を押さえつけたようだ。


「お。おたまが大人しくなった。ご機嫌が治ったのかな?」

「そうみたいですね。ああ、そうだ。お近づきのしるしにこれをおたまちゃんに」


 清史君はそう言って懐から取り出したものを先生に手渡した。


「ほう……これは綺麗な首輪だね。これは組紐かな? 金色の鈴までついている」

「先ほど僕が作ったんです。それをぜひおたまちゃんにつけてあげてください。きっと似合いますよ」

「ありがとう」


 本の蟲の祓いが終わってから清史君は部屋に閉じこもっていたが、これを作っていたのかと私は納得した。


 ヘイマオ嬢は組紐の首輪をつけられるをかなり嫌がっていたが、清史君がもうひと睨みするとすっかり大人しくなった。

 彼の作ったものだ、おおよそ妖力封じが施されたものだろう。


「おお……可愛いねえおたま」

「……にゃああん」


 おたまはこれを外してくれと懇願するように先生を見つめるが、先生は可愛い赤と白の組紐の首輪をつけたおたまにめろめろになっていて、どうやら彼女の望みは叶えられそうになさそうだった。


「ところで先生。原稿のほうは?」

「ああ、先ほど仕上がったよ。あとでこれを都築さんに渡しておいておくれ」

「はい」


 私は先生から原稿を受け取った。


「疲れたから少し書斎で休むことにするよ」


 先生はそのまま書斎に引っ込んでしまい、その場には私と清史君、そして哀れなおたまことヘイマオ嬢だけが残された。


『この不埒者め! 早くこの忌々しい首輪を外すのじゃ』


 ヘイマオ嬢は全身の毛を逆立たせ、清史君を威嚇した。


「黒猫の物の怪よ。僕に逆らおうとでも?」

『祟ってやるぞ。お前を七代祟ってやるからな』

「ちょ……ちょっとヘイマオ嬢、あまり清史君を怒らせないほうが……」

『吉岡! お前、これをとっておくれ』


 ヘイマオ嬢は私の傍に来たが、清史君は笑って言った。


「無理ですよ。それは丹念に清められた紐と鈴を使って僕が手ずから編んだ封印の組紐。僕以外には外せないのだから無駄ですよ。この家でこの猫の物の怪が悪さできないように、あらかじめ用意していたんです」

「清史君。この間も言ったけどヘイマオ嬢は悪さはしないよ。苛めないでやっておくれよ」


 すると清史君はちょっと考え込むような素振りをして見せたが、にっと笑って言った。


「じゃあ僕のお願いを聞いてくれたらその物の怪の首輪は外してあげましょう」


 今考えてもあれは間違いなく最初から清史君が仕組んだ策略にしか私には思えないような事だったのだ。







「先生。今週分の原稿は全部上がったのですね。『怪奇夜話』の分も『青嵐』の分も、『婦人の友』の原稿も全部締め切りより早く間に合うなんて凄いです」

「ああ。なんだか妙にやる気が出てねえ……」

「それはいいことです」

「とくにおたまが側に居ると最近は筆が進むのだよ」

「それはよかったですね」


 当然のことだ。

 組紐の首輪を外す代わりに、先生の側に居る本の蟲を捕らえて食うことを清史君はヘイマオ嬢に条件として出したのだから。

 蟲は好きではないと最初彼女は嫌がったが、首輪を外してもらえなくなるのはどうしても嫌だったらしく、渋々その条件を飲んだ。


「それにしても残念なのはおたまが清史君からもらったあの可愛い首輪を無くしてしまった事だ……可愛かったのにねえ……」


 その言葉を聞いたとき、先生の膝で寝ていたおたまがビクリとした。


「猫ですから、どこかに引っ掛けて切ってしまったんでしょう」

「そうかもしれないね」

 先生はちょっと残念そうだった。


「先生がご希望ならまた新しいものをお作りしましょうか?」


 清史君の提案に私は目を丸くし、おたまは思わず目を見開き、背中の毛を逆立てた。


「いや、遠慮しておくよ。確かにあれは可愛かったけど、おたまにとっては鬱陶しいだけだろう。猫は自由な生き物だ。首輪などしないほうがいいのかもしれない」


 その瞬間、おたまが突然、先生の膝の上から肩に前脚をかけて立ち上がり、まるで口付けでもするように頬をペロっと舐めた。彼女なりの感謝の気持ちかもしれない。


「おやおや、嬉しいねえ」


 先生は大満足だ。


「よかったですね」


 私も思わず微笑んでいた。




 数日後。


「吉岡君、最近なんだか少しつまらない気がするんだよ」


 先生は小さく溜息をついた。


「どうかされたのですか?」

「うん……なんかね、最近仕事は捗るんだが、何かが違う気がしてねえ」

「どういう事でしょうか?」

「うん。なんというかね、ぐうたらと『やる気が出ない気だるさ』の中にこそ新しい物語のきっかけが隠されているんじゃないかって最近私は思うんだ」

「何か気になることでも?」

「いや、最近は筆が進んですこぶる調子はいいんだが、あのやる気がないときの気だるさもあれはあれでなんだか良かったなあと思ってね」

「どうしてそう思われたのですか?」

「うん……なんというか、上手くは言えないんだけどね、一見無意味に見えてもやはり無駄なものはないんじゃないかと思うのだよね。」


 先生は何かを懐かしむような遠い目をする。


「どういう事でしょうか?」


 本の蟲はすっかり駆除した。しかし、先生はそれがなんとなく気に入らないのではないかという気がした。


「本当のことを言うとね、最近は図書館に行ってのんべんだらりとするほうが心地いいのだ……図書館はいいね。原稿を書くだけではなく、純粋に読書も楽しめる」

「そうなんですか?」

「うん。元々私は『本の虫』だから本がないと落ち着かないし、本が沢山ある部屋独特の、あの湿ったような淀んだ感じが結構気に入ってたりするのだが」


 図書館には本の蟲も沢山いるだろう。清浄な場ではなく、わざわざ好んでそういう所に行きたがる先生はいったい何を求めているのだろうか?


「そうですか」

「うん。澄んだ水には魚は住まない。適当に汚れがあるほうが魚も住みやすいもんだ。まあ、あまり汚いのもどうかと思うけど、『綺麗過ぎるのも考えもの』だよ」

「はあ……」


 よかれと思ってやったことは却ってよくなかったのだろうかと私は一瞬考えた。


「吉岡君、なんで本好きの人を「本の虫」と言うか知ってるかね?」

「いえ……」

「本につく「蠹魚しみ」という虫は紙が好物で、本を食べる。それは我々のような活字中毒者にも通じるものがある。だから例えてそう呼ばれる……蟲だから駆除しなければならないというのは頭の堅い話だ。紙であれ、活字であれ、好むものを存分に食べるのは自由。『深刻な害を成さなければ共存できる』ものだと思うのだけどねえ」

「先生? それってもしや……」


 もしかして僕たちが良かれと思いしたことは先生にとっては余計なお世話だったのだろうか?


「あ、すまんすまん。いやね、家内に『書斎が湿っているのは気持ちが悪いからたまには書斎の本の虫干しでもしてください』と叱られたものでね。蟲が居たって死ぬわけじゃないだろうに、あいつの潔癖症にも困ったものだ」


 そう言って先生はハハハと笑った。



 私は少し複雑な気持ちになった。



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(※1)出典:神社本庁作文「祓詞」を引用。

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