祓う者
「吉岡君。今日は外出に付き合っておくれ」
「はい。先生」
「原稿用紙を買いにいこうと思ってね。そのついでにいつもの散歩をしようと思う。つきあってくれたまえ」
「喜んで」
先生は最近散歩をする習慣をつけられた。
以前から奥様に太り気味を指摘されていたが、改める気配をまったく見せなかった先生だが、風邪をひいたのをきっかけに、お医者に行ったところ、主治医の豊田先生に「このままでは長生きできません」と叱られたらしい。
奥様のお小言は聞かなくても、主治医の先生の一言は気になったらしく、先生は近場を毎日散歩する習慣ができた。
時間は短いが、毎日歩いた成果はあったようで、ひと月ほどで先生は少しすっきりした感じになられた。
先生の膝で眠っていたおたまが目をさましたらしく、にゃあんと鳴き声をあげる。
「おお、おたまや。起こしてしまったね。私はいまから散歩にいかなければいけないのだ。今日も留守番をたのむよ」
おたまはまだ目が醒めきらぬのか、きょとんとしている。
「お前を置いてゆくのはとてもつらいのだが、代わりにお土産を買ってきてあげるからね。いい子で大人しく待っているのだよ」
長旅にでるわけでもないのに、いつもながら大げさだ。
先生はおたまの頭をぐりぐりと撫で、抱き上げようとするが、おたまはフイとそれをかわし、私の側へやってくる。
「私が出かけるからご機嫌がわるいのだね? おたま。大丈夫だ、そんなに遅くはならないよ」
『とんでもない。早く行ってしまうがいい……せいせいするわ』
ちいさなおたまの呟きが私の直ぐ側で聞こえた。もちろん、先生には聞こえていない。
先生の過剰な愛情は彼女にとってはいささか迷惑らしかった。
黒猫のおたまは先生のお気に入り。
先生はまるで実の娘のようにこの黒猫を可愛がる。
ご友人の方々から「まるでお猫様に仕える下男のようだ」とからかわれ、先生のご機嫌をとりたい編集者諸氏はおたまが喜ぶ『貢物』を持って現れる。
先生のおたまへの愛情は、奥様にも時折やきもちを焼かれるほどだ。
でも、それもうなづける。
この黒猫は妙な魅力を持っていて、彼女に出会った人間は必ずその可愛らしさの虜になってしまう。
女性よりは男性にその傾向が高いのは、おたまが雌の猫だからかもしれない。
これほどまでに人を魅了する猫は、物の怪の化身ではないかしらと奥様がこぼしたことがあったが、実際はそのとおりだから始末が悪い。
おたまの正体は大陸から来た黒猫の怪、ヘイマオ。
当時の皇帝をも魅了した美猫の女怪が変化した黒猫だ。当然といえば当然である。
私は、ヘイマオ嬢が自分自身のことを私に話してくれたことを思い出していた。
彼女がまだ普通の猫で、香箱に近寄る鼠から箱を守っていた頃、皇帝は彼女を愛猫として常に側に侍らせていたと。
皇帝が彼女によせる愛情は大きく、美しい絹の座布団を敷き詰めた心地よい寝床を与えられ、数人の女官が彼女の毛並みいつも美しく整えていた。
彼女は美しい月という意味を持つ「美月」という名を皇帝から与えられていたそうだが、彼女自身はその名をあまり好まなかった。
自分の黒い毛皮を誇りに思っていた彼女は自らを黒猫と名乗っていたのだ。
「美月なんて綺麗な名前をなぜ気に入らなかったんだい?」
『陛下は妾のこの黄金の目を、美しい満月になぞらえてその名を与えて下さったが、妾はこの自慢の毛皮に誇りをもっておるゆえ』
「よくわからない理由だなあ……」
『お前にわからぬともよい。妾は妾のしたいようにするのじゃ。人の指図などうけはせぬ』
霊峰富士の頂きよりはるかに高い気位を持つヘイマオ嬢は、とりあえず部屋の中で一番高い箪笥の上から私を見下ろしながらそう語るのだが、そんな彼女の孤高の主張などおかまいなしに、先生は彼女を溺愛する。
逃げ出したくても、彼女が守る香箱は先生の書斎の中。
香箱がこの家から移動しない限り、彼女はこの家を去ることはできない。
物に憑いた物の怪の悲しい宿命だ。
『吉岡。そなたは妾の魅了には反応を示さぬのだな。人の……特に男どもは妾が近づくだけで妾の虜になってしまうのに』
「私にはこれがあるからですよ。ヘイマオ嬢」
私は眼鏡を指先でクイと上げて見せた。
『なるほど。遮妖の眼鏡か……お前は大神様によほど愛されておるのだな』
かつて、伏見で大神様に授けられた眼鏡は、魔の気を遮断する遮妖鏡を使って作られたとても特別な眼鏡だと後に各務君が教えてくれた。
なぜ、そんなにも大切に守られているのかは私自身にもよくわからない。
しかし、彼らの守護があるおかげで、どうにか大きな災厄には遭わずにこれまで生きていられたのだ。ありがたいことである。
「吉岡君?」
先生に呼ばれて我に返る。
考え事をして、ぼんやりしていたらしい。
「どうしたんだね? ぼんやりして。おたまの可愛らしさに見とれたかい?」
「あ……いや……は……はい」
おたまはにゃんと短く鳴くと、私の側をすり抜け、お気に入りの場所である箪笥の一番上に登ってうとうとしはじめた。
「さて、それでは出かけるとしよう。吉岡君」
「はい、先生」
先生は原稿用紙にこだわりをもっておられる。
ペンの滑りがいいからという理由で、特注品の手漉きの楮三椏紙で作られた原稿用紙しか使わないため、この紙が切れると買いにいかなければならない。
先月注文しておいたものは、もう入荷していると連絡があったので、それをとりに行くついでの散歩だという。
原稿用紙を無事に受け取り、柳の木が風に揺れる遊歩道を歩いていると、先生が私に言った。
「吉岡君。君の友人たちではないのかね?」
「は?」
「先ほどから、後ろを付いてきている紳士とご婦人は君の友人たちだろう?」
嫌な予感がした。
そっと後ろを振り返ると、腕を組んで歩いている各務君とヘイマオ嬢がにっこり笑って手を振った。
「げっ……」
思わず小さな悲鳴を上げる。
「どうしたのだね? 吉岡君」
「あ……あの……その……」
「私はいいから、お友達に挨拶してきたらどうかね」
「あ……はい。では、すぐ戻りますから」
私は慌てて各務君とヘイマオ嬢のところに駆けていった。
「なにやってんだ! 各務君はともかく、ヘイマオ嬢まで先生の前に顔を出すなんて」
私は思わず声を荒げる。
各務君は仕方ないとして、ヘイマオ嬢はまずい。
「妾がいてはいかんのか?」
黒いワンピースを着たヘイマオ嬢は首をかしげる。
「まずいよ。君がおたまだって知れたら大変だろう? だいたいなんで君はここにいるんだ?」
「妾もたまには家の敷地の外に出たいなと思ってなんとなく窓から外を眺めておったら、ちょうどそこに各務殿が訪ねてきてな、散歩がてら一緒にお前のあとをついていこうと誘われたのじゃ」
「でも、ヘイマオ嬢は基本的には香箱に取り憑いているのだから、家からは出られないはずじゃ?」
ヘイマオ嬢は香箱につく物の怪だ。故に彼女は香箱から離れることはできない。そのため彼女は本田家の敷地から外には出ることができないのだ。
「各務殿が妾の香箱を持っていってくれるとというので、一緒に出かけられたのじゃ。久々の外は楽しいのう」
ヘイマオ嬢はとても機嫌が良さそうだ。
私はにやにや笑っている背広姿の各務君を横目でじろりと睨みつけた。
「ヘイマオ嬢をそそのかしたね? 各務君」
「はて……何のことやら」
各務君はとぼける。
この守護狐は頼りにもなるが、とんでもないいたずら者でもある。
「どうせ偶然じゃないんだろ? ヘイマオ嬢が退屈しそうな頃を見計らって誘ったな?」
「さてどうだか」
各務君はにやにや笑うばかりでのらりくらりとかわしてしまう。
「とにかく早く家へもどってくれ」
私はヘイマオ嬢にそう言ったが、彼女は私の言い分が気に入らなかったらしい。
「妾は指図を受けるのが嫌いだと言うたであろう?」
逆効果だった。
「吉岡君、先に行くよ」
先生がこちらに向かって叫んでいる。
「あっ! すぐに行きます」
私はそう言うと、各務君とヘイマオ嬢を睨みつけて言った。
「いいから、もうついてこないでくれ」
「いいのかなあ? そんなこと言って」
「非力な人間の雄のくせに生意気な。妾をこれ以上邪険にしたらあとでひっかいてやるから覚悟しておれ」
各務君はにやにやしているし、ヘイマオ嬢はよく手入れされた爪をこれ見よがしに私に見せつけた。
「じゃあ勝手にすればいいさ。私は忙しいんだ」
そう言って私は先生のもとに走って戻った。
「吉岡君、もういいのかね?」
「はい、先生」
「あの二人は君に何か用があったのではないのかな?」
「たいした用じゃありませんから」
「ならいいんだが……」
暇な物の怪二人を相手にするのは結構疲れるのだ。
「今日は目的地へ行く前にちょっと寄り道をしてみようと思う」
「どこへ行かれるのですか?」
「友人の中臣さんのところだよ……君にも紹介しよう。今後、君も彼に世話になるかもしれないからね」
「はい」
中臣氏という人がどういう人かはよくしらないが、名前は知っていた。
たまに先生の口から名前のでる人物だ。
先生は時折訪ねていくようだが、私は良く知らない。
「よし、着いた」
先生はそう言うと、一軒の和菓子屋に入った。
「中臣様のお宅はこの和菓子屋なのですか?」
「いや、土産を買うのだよ。お邪魔するのにさすがに手ぶらではいけないだろう? ここの最中は絶品なのだよ」
菓子のことになると先生は妙に嬉しそうだ。
土産と称しても、「先生もどうぞ」とお茶と共に手土産の菓子が出されることを先生が期待しているのを私はよく知っている。
折角養生をしているのに、こんなことでは先が思いやられる。
私は小さく溜息をつく。
先生について店へ入るとき、私はそっと振り返ってみた。
各務君とヘイマオ嬢の姿はもう見えなかった。
街中を外れると、大きな邸宅が立ち並ぶ一角が続く。
このあたりは有名なお屋敷町で、政治家や名の知れた作家、全国に支店を持つ大店の主の別宅などが軒を連ねている。
立派な門構えの屋敷が続く通りの、一番はずれに、質素だが大きな敷地を持つ屋敷があった。
柏の木や、楡の木、柿の木が塀の向こうから枝を伸ばしている。
静かで、しかも残暑の厳しい晩夏の昼下がりにもかかわらず、その一角は涼しかった。
木製のしっかりした作りの門には「中臣」という表札がかかっていた。
「ここだよ。来るのは久しぶりだが、突然訪ねても在宅しているかな?」
「連絡もなしに、突然思いつきで来られたのですか? 先生」
「まあね……不思議なことに、彼の家には突然、呼ばれたように行きたくなるのだよ」
「大丈夫でしょうか? ご迷惑ではないのでしょうか?」
「大丈夫だよ、きっと」
先生は門を叩く。
「ごめんください」
返事はない。
「ごめんください」
もう一度先生は大声で呼びかける。
「どちら様でしょうか?」
若い男の声が門扉の向こうから聞こえた。
「本田と申します。ご主人はおいでですか?」
「本田鉄斎先生ですか?」
「そうです」
「お待ちしていました。今、開けますので少しお待ちください」
重厚な門が開かれ、白い着物に浅葱色の袴の神職の装束を着た青年が現れた。
背が高く、涼やかな瞳をした好青年だ。
「もしかして、清史君かね?」
先生はその青年を見るなり嬉しそうな声を出した。
「はい。先生。お久しぶりです」
青年もにこやかに微笑んでいる。
「すっかり立派になって……いつ、こちらに?」
「つい半月ほど前ですよ」
「おいくつになられたのかな?」
「今年で二十一になります」
「そうですか……こんなに立派になられたら父上もさぞ鼻が高いでしょうな」
「ありがとうございます」
青年は照れたように笑う。
妙齢のご婦人方が見たら頬を染めてうっとりしてしまうような爽やかな笑顔だ。
「今日はお父君はいらっしゃるかな?」
「奥におりますよ。本田先生がそろそろお見えになるはずだから、玄関でお迎えするようにと言われました」
「ははは……さすがは中臣さんだ。もう、知れていたのか」
「きっとまた、式神が知らせたのでしょう……さあ、お上がりください」
青年は私のほうを見て、先生に尋ねた。
「先生? こちらの方は?」
「私の書生の吉岡君だ。今後、ひょっとしたら中臣さんにお世話になることもあるかもしれないと思って連れてきたんだよ」
青年は私のほうをじっと見て、薄く笑って言った。
「なるほど……そうですね。なかなかこの方は徳の高そうな方だ。力の強い神に強力な加護を受けているように見受けられます。でも……」
そう言って彼は私の背中をポンポンと軽く手のひらで叩いた。
「その反面、余計な穢れもつけている。この穢れはこの家には入れられませんよ。祓いましょうね」
そして、彼は私を招き入れると門を閉めた。
門を閉める寸前、ふと振り返ると大慌てで逃げてゆく二匹の獣の尻尾が見えた。
白い狐と黒猫だ。
あとで、何を言われるかとおもうと、私はうんざりした。
中臣徳治氏は先生の友人で、かつては伊勢神宮の大宮司を勤めた人物だ。病気のため、数年前に引退して、今はこの一角でひっそりと暮らしている。
先生との出会いはどういう経緯かは聞かされてはいないが、先生はよく、この人のところへ一人で訪ねてゆくことがあった。
「お久しぶりです、本田先生。本当ならば玄関までお迎えに上がらなければならないのに、今日は少し腰の具合が悪くて……こんな格好で申し訳ない」
中臣氏は床の上にいた。
「お加減が悪いなら日を改めましょうか?」
先生は心配そうな顔をしている。
「いやいや、お気になさらないでください。腰の痛み以外は元気なものですから」
中臣氏は笑顔で答えた。
「先生の新作、読んでますよ。あの猫の怪の話はなかなか面白い」
「ありがとうございます」
「仕事柄先生には強い物の怪の気が寄りやすい……時には清浄な気に触れぬと染まってしまいますからな。うちの倅はとても清浄で強い力を持っておりますので、あとで穢れを祓わせましょう」
「いつもありがとうございます」
「いえいえ。その分、本田先生には『いろいろと』助けていただいておりますからね。お互い様ですよ。そのうち倅も世話になるでしょうし」
「清史君は立派になりましたね。伊勢へ勉強に行っていたとか聞いていますが」
「まだまだ未熟者ですよ。倅は穢れを知らぬ上、授かった力が人よりも強い分、どうしても脆くて危ういところがある。これからいろいろと勉強をさせねばなりません。先生のお力を借りることもそのうちあるでしょう」
「そうでしょうか?」
「ええ……ああ、それとも、若い世代は若い者同士のほうが話しやすいですかな?」
中臣氏は私のほうをちらりと見た。
急なことでどぎまぎしていると、中臣氏は急に私を指差して言った。
「伏見稲荷大神……違いますか?」
私はぎくりとした。
何も言ってはいないはずだ。稲荷の守護のことは先生にも知られていない筈……どう、答えるべきか。
「あ……あの……」
「その、お守りはそうでしょう?」
着物の袂からお守りの袋がはみ出ていた。
「あっ……ああ、そうです! この間京都に行きまして」
私は急いでお守りの袋をもとの場所に押し込んだ。
しかし、妙だった。確かにこの守り袋は私のものだが、今日はこれは家に置いてきたはずだ。
「倅を紹介しましょう。年寄りの世間話を聞くより若い者同士のほうが話があうでしょうから……清史。清史や」
「はい。お父さん。御用でしょうか」
中臣氏の呼ぶ声に、先ほどの青年が現れた。
「吉岡さんのお相手をしてくれないか。私は本田先生と話があるから」
「わかりました。吉岡さん。庭をご案内しましょう。どうぞこちらへ」
清史と呼ばれた青年はさわやかな笑顔で私に手招きをした。
「中臣清史と申します。どうぞ宜しくお願いします」
「吉岡秋斗です。こちらこそ宜しくお願いします」
丁寧な挨拶をされたので、同じようにかしこまってしまったが、私は妙に居心地が悪かった。
「吉岡さん。僕といると居心地、悪いですか?」
「え……いえ、そんなことは」
「正直に仰って構いませんよ。大事なことですから」
「あの……気を悪くしないで下さい……なんだか、ちょっとそわそわするだけですから」
「いえ、仕方ありませんよ。狐や猫の邪気を身につけていれば僕のような者の傍にいると居心地が悪くなるのは当然ですから」
「え?」
「稲荷の眷属の狐と、大陸の猫の物の怪ですね……気配でわかりますよ」
自分よりも年下のこの青年は自分より大人びた物言いをする。
「清史君……君はいったい」
「ただの見習いの神職です。ただ、生まれつき少しばかり人より祓いの力が強いそうなんですが、僕自身はあまりよくわかっていません」
「そうなんですか……」
「ええ。狐は稲荷の眷属ですからまあいいとして、猫のほうは……あまりよくない気ですね。人を惑わす種類の物の怪だ……精気を吸い取られぬうちに祓ってしまったほうがいいですよ」
「いや、彼女は……ヘイマオ嬢はそんなことしません。大丈夫です」
清史君はちょっと怪訝な顔をしている。何か気に入らない様子だ。
「いけないですよ吉岡さん、その様子だとすでに随分魅入られていますね? 物の怪の肩をもつなんてよくないことだと思います」
「そんなことはないですよ」
私は首を横に振った。
「物の怪が全て悪さをするわけではないですよ。清史君」
事実、ヘイマオ嬢は自分に対して何も害を及ぼしていないし、先生に対してもそうだ。
「それは違う。吉岡さんはその眼鏡をかけているから影響が少ないだけなんですよ」
「この眼鏡の由来がなぜわかったんですか?」
私は驚いていた。
誰も知らないはずなのに。
「見るものが見ればそれが魔を祓う特別な品だということはわかります。吉岡さんは大きな力で守られているんです……それにひきかえ、本田先生は随分やつれていらっしゃる。前、お会いしたときはもっとふくよかで健康そうだったのに。物の怪の影響をうけておられるからですよ」
「いや、あれはお医者様から指導された食餌療法と散歩の効果で……」
「しっ!」
最後まで言わないうちに、彼ははっとしたように私に言った。
「吉岡さん。ここを動かないで下さい。絶対ですよ!」
彼は弾かれるようにその場から走り去ると直ぐに何かを持って戻ってきた。
「弓矢なんかどうするんですか」
彼が持ってきたのは白い矢羽根のついた矢と大きな弓だった。
「そこにじっとしていてください!」
「えっ!」
「そこだ! 逃がさんぞ」
彼は私に向かって弓を引き絞った。
「う……うわ! やめてくれっ!」
「じっとしてて! 吉岡さんは僕が必ず守ってあげますから」
そんなことを言われても、自分に向かって矢を向けられたら誰だって逃げ出したくなるのが人情というものだ。
しかし、放たれた矢は私の頬をすれすれで掠めて、背後の楡の木の幹に当たった。
「にゃーん!」
矢が幹に当たった衝撃で、黒い猫がどさりと木の上から、塀の向こう側へ落ちた。
「ヘイマオ嬢?」
私は慌てて木の方へ行こうとしたが、清史君は大声で叫んだ。
「吉岡さん! 動かないで!」
その声があまりに迫力があったので、私は思わずびくりとしてしまい、情けないことに足が竦んでしまった。
「古猫の物の怪の分際で結界のある我が家へ入り込むとは……しかし忌々しい眷属の白狐よ。伏見の神使であるお前がなぜ、物の怪などに手をかすんだ」
清史君は不機嫌そうだ。
「出て来い。白狐! そこに隠れているのはわかってるんだ」
「尻の青い見習い神職の子せがれが……大神様の神使にして千年の時を生きたこの俺様に破魔の鏑矢など向けるとはバチあたりなやつめ」
ヘイマオ嬢が落ちた楡の木の上に、一匹の白い狐がいた。
真っ白なその被毛は陽の光を受けてまぶしく輝き、神々しささえ感じられる。
その声は間違いなく各務君のものだった。そして、彼がこの姿で私の前に現れたのは久しぶりだった。
「稲荷の神使でありながら、なぜ不浄な物の怪に手を貸す。お前はこの吉岡さんの守護狐なのだろう? ならば、物の怪を近づけないのがお前の仕事ではないか」
清史君は矢を各務君にむけたまま言った。
「生意気な小僧だな。ガキはこれだから嫌いだ。いいか? 融通は利かせるものだ。全ての物の怪が悪しきものとは限らんのさ」
「嘘をつくな! お前の周りには邪気が立ちこめているぞ」
「純粋培養のうえに清浄すぎる気を持つと大変だな……世の中は奇麗事だけではやっていけんのだよ、小僧。時には物の怪とも折り合いをつけることも大事さ」
「何を言うか。お前は卑しくも神に仕える身だろう?」
「お前の親爺さんのほうがまだ理解があるというもんだ」
「父はそんな人間じゃない! 侮辱するな、狐め!」
清史君は火がついたように怒り出した。
整った精悍な顔が怒りで歪んでいる。
各務君のこの発言はどうやら清史君の逆鱗に触れたようだ。
「はて、どうかね……」
「不浄に堕ちた神使などただの物の怪! 祓ってくれる!」
緊張が糸のように張り詰める。
情けないことに、私はただ、おろおろしながらこのやりとりを見守るしかない。
見えるだけで何の力も持たぬ者の非力さを感じた。
「はい。そこまで!」
一羽の鳩が滑るように飛んできて、各務君と清史君の間に割って入った。
その鳩は白い紙で出来ていた。
「父さんの式神だ……なぜ……」
清史君は信じられないという顔をしている。
「もうおやめ。清史。伏見を敵に回すんじゃない」
「しかし、父さん……」
「神使の白狐殿。倅の無礼に今回ばかりは目をつぶっていただけませんか?」
「見逃してやってもいいが、これは一回貸しだぞ」
「よろしいですとも。それにこれ以上意地を張ってあなたも伊勢を敵に回したくはないでしょう?」
「面倒なことは嫌いだ。ここは引いてやろう」
「ありがとうございます」
各務君は腰を抜かしている私に向かって言った。
「吉岡君。心配しなくてもいい。ヘイマオ嬢は木から落ちて気を失ってるだけで、どこも怪我はしていない。俺が家へ送っておいてやるよ。本田先生を悲しませたくないからな」
「ありがとう」
「さて、場は収まったね……私は疲れたよ。本田先生はそろそろお帰りのようだから、吉岡君は客間に戻ってきてください」
「……は……はい」
私はようやく立ち上がることができた。
まだ、膝はガクガクと震えている。
「吉岡さん」
清史君が私に声をかけてきた。
「驚かせてごめんなさい」
「いいよ。別に何もなかったんだし……また、今度ゆっくり話でもしよう」
「はい」
清史君は同じ男の私でもどきりとするような、いい笑顔で笑った。
「ほーらおたまや。お土産だよ。お前が好きな鯵の干物だ。たんとお食べ」
「みゅー」
おたまことヘイマオ嬢は心なしかふらふらした足取りで先生の膝に載り、大人しく鯵の干物を食べている。
「今日はやけに大人しいねおたま……そんなに寂しかったのかな?」
たぶん木から落とされたショックで茫然自失状態なのだろう。
いつもなら先生がしつこく撫でるのを嫌がって逃げ出すのに、今の彼女は先生に大人しく撫でまわされている。
「そうかそうか、おいしいか……いい子にしていれば美味しいものが食べられるけど、いくらおたまでも『おいたをしすぎると痛い目にあう』のだから、お留守番のときは大人しくしているのだよ」
「にゃーん」
おたまは耳をすっかり下げて、しょんぼりしている。
先生はご満悦でおたまをなでつつ私に言った。
「おおそうだ、吉岡君」
「はい、先生」
「中臣さんの清史君とは仲良くなれたかね?」
「ええ、まあ……」
「彼はいい子なんだが、世間をあまり知らぬせいか、多少融通がきかなくてね。中臣さんは心配されておられるのだ。そこで暫くの間、うちでお預かりして勉強をしてもらうことになったよ。離れにある君の部屋の隣の空き部屋に暫く滞在することになったから、いろいろと面倒をみてやってくれるかな」
それを聞いた私は唖然とし、先生に撫でられていたおたまは、それを聞くなり突然、ギャーという悲鳴を上げて逃げ出してしまった。
いずれ、各務君も知ることになるだろう。
物の怪と、眷属狐と、祓う者。そして、見えるだけの私がこの家に揃うことを。
やれやれ、やっかいなことになった。
これからおこるであろう面倒ごとを考えるだけで私は胃が痛くなりそうだった。