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怪奇作家の書生  作者: よしじまさほ
4/13

守護狐

「吉岡君。里帰りだって?」

「はい、先生。両親の墓参りに。週末には戻りますので。少しお暇をいただいてもよろしいでしょうか?」

「いいよいいよ、故郷くにへ戻るのは久しぶりなんだろう? ゆっくりしておいで。よければひと月ぐらい行って来ても構わんよ」

「はい。でも、今はあちらには親戚縁者殆どおりませんので、墓参がすんだら直ぐに戻ります」

「そうかい? 折角の里帰りなのだから古い友達にでも逢ってくるといいのに」

「友達など居ませんよ……」


 故郷に帰っても特に逢いたい人は私にはいない。


「ほう? 意外だね……吉岡君は友達が多そうに見えるんだけどね。案外人見知りなのかな? 君は」


 先生は腕に抱いたおたまを撫でながら「ねえ?」と彼女に同意を求めるが、おたまはプイと知らん顔だ。長い尻尾をせわしなく振っているのは「そろそろ離してくれ」という彼女なりの意思表示だが、もちろん先生には彼女のその思いは届いていない。


「親が亡くなってからは住処を変えてますし、十五の年には故郷を離れましたから、昔馴染みは殆ど居ないんです。京都に母方の叔父がいるくらいで、あとは殆ど付き合いがなくなっていますから」


「そうか……ならせめて故郷の懐かしい風景を堪能しておいで。きっと何か発見があるだろうから」


 おたまが先生の腕から逃れようと必死に先生の腕を噛みはじめるが、先生はそれでも「おやおや、おたまは何かご機嫌がわるいのかい?」と言うばかりで彼女を一向に離そうとはしない。


「発見……そうでしょうか?」


「うん。旅は発見が多いからね。きっと『君が気づかなかったものが見える』と思うなあ……ねえ? おたま」


 噛まれようが爪を立てられようが、先生はおたまを離さない。

 気位の高い猫の怪もこの先生には敵わぬらしく、すっかり諦めたようで、耳を倒して脱力してしまっている。


「まあ、何にせよ久しぶりの故郷。楽しんできたまえ」

「はい……」


 私はそこでお茶を濁す。


 先生は懐から何枚かの紙幣を取り出して私にくれた。


「これは餞別だ……あ、だからといって土産は気にしなくていいよ。土産は」

「ありがとうございます。でも、そういうわけにはいきません。先生にはお世話になっていますから」


 私は慌てて首を横に振る。


「気にしなくていい……ところで、君の故郷は有馬に近かったかね?」

「いえ、それほどでも。実家は神戸港に近い海側ですから、有馬に行くには山を越えないと……」


「そうか……なにやらあちらには炭酸煎餅とかいう風味の軽い菓子があるそうだが……そうか……有馬は遠いのか……」


 先生は少しがっかりしたように見える。

 相変わらずわかりやすい人だ。

 菓子好きの先生はきっとくだんの煎餅が食べたいに違いない。


「買って来ましょうか? 神戸駅でも手に入りますから」


「いやいやいや、そんなつもりで言ったんじゃないんだ。気を遣わなくていい……先日有馬の温泉に行った友人から聞いた話を思い出しただけだから……はっはっは」




 お土産を何にするかは簡単に決まった。







 私の故郷は神戸。

 港の近くで、異国情緒の漂う街だ。


 父は港近くにある商船の会社で働いていた。


 十歳の時に両親が流行病で相次いで亡くなって、一人っ子だった私は親戚をあちこち盥回しにされた挙句、京都の伏見に住む母方の祖母の元に引き取られ、祖母が亡くなるまでそこで暮らした。

 十五の時、祖母が他界し、すぐに上京して、暫くは深川にある佃煮屋の丁稚奉公をしていたが、商家の暮らしにはなんとなく馴染めず失敗ばかり。

 その頃出あった一冊の本が本田鉄斎の怪奇憚だった。


 幽玄の世界を生き生きと描くその作風に自分と同じ空気を感じ、感銘を受けた。


 一大決心をした私は、五年勤めた店を辞め、無理を承知で先生の家の門を叩き、書生となって三年。

 そういえば一度も故郷には戻っていなかった。


 今回なぜ、突然故郷に帰る気になったかというと、ここしばらくの間、毎日のように両親が夢の中に現れるのだ。

 息子の不義理を嘆き夢枕に現れたのか、それとも自分の心の中の後ろめたさにそろそろ耐えられなくなったのかはわからない。


 でも、いろいろなけじめを自分につけるために一度故郷に帰り、墓参をしてこようと考えたのだ。



 新宿まで出て市電に乗り、上野に向かう。

 神戸までの列車に乗るために市電を使う。

 市電は品川を始発に高輪、新橋、銀座、日本橋、神田を経由し、列車の乗り場がある上野に止まる。ちなみに終点は浅草だ。


 二年前に起きた関東大震災の傷跡はまだ所々に生々しく残っているが、震災後、急速に復興した町並みはかつての面影を殆ど留めていない。

 思えば先生の書生になった一年後にあの忌まわしい天災が起こっている。

 地が裂け、街を燃やし尽くす火災を目の当たりにして、よく生き抜けたと思う。

 先生の自宅は都市部から少し離れた吉祥寺にあり、被害は大きかったものの、都市部に比べればましだった。

 後に聞いた話だが、武蔵野界隈は地盤が固く、被害は比較的少なかったそうだ。

 深川の佃煮屋にいたら今ごろ命は無かったろう。


 よく考えてみれば、やはり私は何かに守られていたのかもしれない。




 上野駅から汽車に乗り、神戸駅まで約十三時間。

 汽車は混雑しておらず、空席が目立っていた。


「こちら、よろしいですか?」


 うとうとしていたら声をかけられた。

 向かいの空席に誰かが座ろうとしてるのだろう。


「あっ。はい……どう……あれ?」


 にっこり笑って向かいに座ったのは各務君だった。


「いい旅をしてるかい? 吉岡君」


 各務君は濃い灰色の背広に海老茶色のネクタイ。同じく灰色の中折れ帽を深く被り、特徴的な吊り上った目を隠している。

 手には古ぼけた大きなトランク。誰の目にもすっかり旅装だ。


「君はどこまで私についてくれば気が済むんだ?」


 うんざりしながら溜息をつく。

 すると、各務君はにやっと笑って言った。


「君について行くんじゃないさ。伏見の大神様にご挨拶に行くのさ」

「ほう……伏見ね……ならば君はもちろん京都駅で降りるんだろうね? 生憎だが、私はこれから神戸に行くので一緒じゃないのが残念だ」


 嫌味のつもりで言ったのだが、これはまずかった。


「ほお……君の行き先は神戸か。そういえば俺も一度は神戸の異人の館を見たいと常々思っていたところだ」


 各務君はにまりと笑って、手に持ったゆで卵を器用に剥き始めた。


「食べるかね?」


 剥き終わったゆで卵を各務君は私に差し出す。


「結構だ。腹は別に減ってない」

「そうか。美味いのに」


 各務君は卵を二つに割ると、その片方をぱくりと一口で食べ、もごもごと咀嚼する。

 どこまでもお気楽な狐だ。


 私の行く先々に各務君が現れるのは、幼い頃のある者との『約束』によるものだが、各務君の場合はそれを超えて、単なる興味としか思えない。


「異人の館なら横浜でも見られるだろう?」

「横浜の異人の館は見飽きたのさ。だから今度は神戸の異人の館が見たい」

「……勝手にすればいい」

「ではそうさせてもらおう」





 神戸駅で一旦降り、三宮まで市電に乗る。

 実家のあった元町五丁目まで歩いてみる。

 故郷を出た頃と殆ど変わっていない。

 各務君は物珍しそうにきょろきょろしながら後ろをついてくる。


 肉屋、魚屋、散髪屋、どこにでもある町並みだが、そこはやはり港町。

 異国からやってきた舶来の品を扱う店も多く、異国人の姿もちらほら人並みの中に混じっている。

 ひときわ目立つのは履物屋。

 草履、下駄、そしてピカピカに磨かれた革靴。ご婦人が履くハイヒール。


「履物屋が多いんだな」

「そうだよ。神戸は履物の街だ……大阪の食い倒れ、京都の着倒れ、神戸の履き倒れと言う戯れ歌もあるぐらいだ」

「ほお……」

「ほら、各務君。ここがかつて私の実家だったところだ」


 一軒の時計屋の前で私は立ち止まった。

 店先には沢山の舶来品の時計が並び、時間合わせのされていない時計の針はいろいろな時間を指していた。


「君の実家は時計屋だったのか?」

「違う。父は商船会社で働いていた。両親が亡くなってからこの家も、土地も人手に渡って今はご覧のとおり縁もゆかりもない人が時計屋を開いている」

「なるほど……すまんな」


 さすがの各務君もしんみりした様子だ。その背後で正午を指す時計の鐘がポーンと軽やかな音を立てた。


「いや、もう昔のことだ……それにもう少し歩けば南京町だ。丁度いいから昼でも食べていこうか」

「ああ」






 実家は元町だが、両親の墓は山手にある。


 八年も放置していたのに、両親の墓は綺麗で、花と線香、それに饅頭が供えてあった。誰かが定期的にお参りをしているらしい。

 しかし、思い当たる親戚縁者はいない。


 不思議に思いつつも手を合わせ、黙祷を捧げる。


「長く留守にしてすみませんでした」


 独り言のように呟いたら、何故か涙が出た。

 各務君は見てみぬふりをしてくれた。


 墓参を済ませて墓苑から出ると、海風がさあっと気持ちよく吹き上げてきた。


「ところで、吉岡君。なんで今ごろ両親の墓参に?」


 各務君が遠慮がちに聞いてくる。


「ここ数日何度も両親の夢を見たから」

「夢?」

「ああ。小さい頃、生田さんに両親と参拝する夢だよ。同じ夢ではないけど、毎日似たような夢を見るんだ……そしたら急に懐かしくなって帰りたくなった。流石に八年もほったらかしではまずいと思ってね……」

「生田さんって?」

「生田神社のこと。このあたりでは生田さんて言うんや……」

「吉岡君、珍しいな。故郷の言葉が出てる」

「ああ、本当だ。故郷に帰ってきたせいかな? つい……」


 各務君がふっと笑った。


「なぜ、故郷の言葉で話さん? 結構さまになってると思うが」

「故郷は……もう、とっくの昔に捨てたから」



「ふふ……若僧が大層なことぬかしよる」


 ふいにしわがれた声が聞こえ、私は背後に急に気配を感じた。


「故郷は捨てたやと? ようもそんなことが言えたもんや。このあほたれが!」


 振り返ると、いつのまにかそこには鳥打帽を被った老人がいて、石垣に腰かけてきせるをふかしていた。


「自分、吉岡の『ぼん』やろ?」

「え?」

「吉岡の正春さんとこの秋ぼんやろ?」

「あなたは……?」


 吉岡正春は父の名だ。


「正春さんに世話になったもんや。八年もどっかいってしもて見かけへんと思うたら、今ごろ帰ってきて何どいや」

「すみません……」

「ようやっと帰って来た思うたら、ええかっこして故郷は捨てたやと? 半人前のあかんたれが、何を偉そうなことぬかすやら」


 老人はきせるの煙を大きく吸い込み、これ見よがしにはーっと吐き出して見せた。


 老人の言うことはもっともだった。

 故郷にいい思い出はあまりない。両親が亡くなってからは親戚中をたらい回しにされ、最終的に引き取られた母方の祖母も、あまり私を可愛がらなかった。


 皆が私の特殊な『目』のことを気味悪がっていたからだ。


「吉岡君。こいつ、人間じゃない」


 各務君がそっと耳打ちする。


「なんや、すかした狐がいっちょまえな口をたたきよる。自分、東に住んどる伏見さんとこの狐やろ? 伏見さんの眷属の狐は、普段どこに住んでてもこっちへきたらまず何より一番に伏見さんにご挨拶するのが筋や。そやのに伏見にも行かんと何をふらふら物見遊山しとるんや」


 あの各務君が珍しく黙りこくってしまう。礼儀を欠いているのは確かだからだ。


「まあええわ、ところで秋ぼん」

「はい」

「この狐だけやあらへんで。自分も伏見さんにちゃんとご挨拶してこなあかんがな。東に行っても守ってもうとんのやろ? 自分、わかっとんのか? 人間にしたら過分な待遇やねんで」

「わかってます」

「ほなら、墓参りも済んだならこんなとこで油売っとらんでさっさと伏見へお行き。自分の親御さんの御霊みたまは儂がよう面倒みとくさかいに」


 老人はにこにこしながらそう言った。


「……お墓、守ってくれてるのはあなたですか?」

「そや。儂、正春さんには世話になったからな」

「ありがとうございます」


 私は老人に深く頭を下げた。


「かまへんがな。せやけどな、偶にはこっちへ帰って正春さんと冬香さんに顔を見せてやれ」

「はい」

「正春さんがな、この間の盆の時に儂に言うたんや。せがれは……秋斗はあちらでどうしとるかなと……」

「ご無沙汰してしまって本当にすみません」


 私は老人に頭を下げた。


「まあ、伏見さんとの約束があるからな。そうそうは帰れんのやろけど……でも、ぼんが帰ってきたことはきっと正春さんも冬香さんも喜んではるわ」

「だといいんですが……」

「親が息子の帰省を喜ばんわけあらへんやろが」

「はい」


 老人は何かを思い出すかのように目を細め、ふうと紫の煙を吐き出した。


「ぼんのことは儂もよう覚えとるで……枯れ死にかけとった儂を見つけたのはぼんやったからな。そして、誰も気づいてくれんかった儂の事に気づいてくれたんは宮司さんでも、お宮の庭師さんでものうて、いつも参拝にきてたぼん達やった」

「あ……じゃあもしや、あなたは生田の森の……」


 私が言い終わらないうちに、老人はにこっと笑って消えてしまった。


「ほな、ちゃんと伏見さんにご挨拶してくるんやで」


 声だけが私の耳に聞こえてきた。


「なんだったんだ? 今のじじいは?」


 各務君の声がまだぼんやりしていた私を現実に戻した。


「生田の森の梅の木だよ。あれは」

「生田の森というと、生田神社の側にある?」

「ああ」

「なんで、梅の木の精が君の両親の墓の世話を?」


 各務君は怪訝な顔をする。


「私がまだ小さかった頃、両親とよく生田さんに参拝してたことはさっき話したろ?」

「ああ」

「私はその頃にはもう、いろんなものが見えてた。枯れ死にかけて苦しそうにしてたあの梅の木の精の声を聞きつけたのは私だ……梅の木は見た目にはどこも変わった部分がなかったけど、実は根から腐れてきてたので、誰も枯れかかってるのをみつけられなかった……梅の木の精の声が聞けた私だけがわかったんだ」

「ほう……」

「父と母は私の話を笑わずに聞いてくれて、森を整備する庭師にも相談し、一緒にあの梅の木の腐れた根を掘り起こしたり、傷んだ部分を取り除いたり、滋養や水を与えて、どうにか救うことができた……昔のことだったんで私もすっかり忘れてたよ」

「なるほどねえ……しかし、梅の木の精ごときに説教食らうとは、俺もヤキがまわったもんだ」

「偶には説教をされてもいいんじゃないの? 各務君は」


 私が茶化すように言うと各務君はむっとした顔をする。


「俺はもともと伏見の眷属狐だ……東に移ってからしばらく経つから、確かに都会の色に染まったのは否めんが……」


 ちょっとばつが悪そうにしているのは見なかったことにしてやろうと思う。



 私は墓苑の入り口へ向き直り、もう一度だけ深く頭を下げた。


 父さん、母さん……不肖の息子をお許しください。

 いつかきっと立派な作家になってまた、逢いにきますと心の中で両親に別れを言った。



 僅かに、季節外れの梅の花の香りがした。








 翌朝早く、神戸を後にし、私と各務君は京都駅に降り立った。

 そして市電に乗って、伏見へ向かった。


 東西に伸びる宇治川。

 宇慈川から北に向かって流れる豪川ごうかわ

 戦の世において、天下を統一したかの有名な武将の時代には、伏見城築城の時のお堀となっていた川。

 豊富に湧き出る名水と、それを使った酒どころの町。


 母の実家はこの界隈の造り酒屋で、酒蔵をいくつも持つ老舗の一つ。

 祖母が亡くなったあとは母の弟である叔父が継いでいる。


秋斗あきとくんやないか。急にどないしたんや?」


 叔父は突然尋ねてきた私を驚いた顔で出迎えた。


「いきなり、すみません。父と母の墓参に戻ったついでに寄ったのですが」

「そうかそうか……遠いところ大変やったな。まあ、おあがり」

「はい」

「そちらの方は?」

「同行した友人の各務君です」

「どうも」


 各務君は帽子を少し持ち上げて会釈した。


「叔父さん。ご迷惑かけて申し訳ないんですが一晩だけお世話になっても構いませんか?」

「何水臭いことを言うとるんや。一晩と言わず好きなだけおったらええがな。ささ、お入り」

「すみません」


 各務君と私は客間に通された。


「全く、昔から変わらんな。このみやこの人間の気質というのは。外面だけ良くて本心は見せないのはやっぱり土地柄かねえ」


 各務君はため息をついてそう言った。


「何か気になったことが?」

「君も気づいてるんだろ? 吉岡君」


 一瞬躊躇した私に各務君は苦笑しながら言った。


「……やっぱりな。君はここであまり、歓迎されてないだろ? 吉岡君」


 各務君は胡座をかくと、飄々とした調子で私に言った。


「どうしてそう思った?」

「あの叔父さん、満面の笑顔だったのに、目だけは微妙に笑ってなかった。そのうえ、なにやら腫れ物に触るみたいに君を扱ってた。嫌な感じだな」

「しかたないよ……連絡もなしにいきなり泊めろって訪ねたんだから」

「それだけじゃないだろ?」

「鋭いね……ばれてたか」

「君とは付き合い長いからな」

「叔父さんが私を苦手とするのは仕方ないことなんだ。私は一族のなかでもやっかいものの『忌み子』だから」

「ああ……忌み子ねえ……そういやそうだったな。ちょっと人と違うものが見えるだけで、どこも変わらんのに、人間は心が狭くていかんね」

「みんなが各務君と同じ考えなら問題なかったんだけどね」


 私は苦笑する。


「居心地の悪い扱いを受けるのを判ってて、わざわざこんなところに泊まらなくても、どこか宿を取ればよかったのに」


 各務君はつまらなそうだ。


「私一人ならそうしたんだけどね」


 私は各務君を横目でチラっと見た。


「伏見稲荷へ行くにはここが一番近いんだ。それに、予定してない余計な一名の宿代までまかなえるほど、私は裕福じゃないから」






 荷物を置いて、伏見稲荷へと向かう。


 盆地である京都の夏は蒸し暑く、結構体に堪えるが、それでも午後四時を過ぎると、少し暑さは和らぐ。

 参道には多くの店が建ち並び、参拝客相手に商売をしている。


「懐かしいねえこの空気……やはり伏見はいいよ」


 各務君は大きく伸びをする。


「雀の焼き鳥を食べないか? 吉岡君。伏見といえばこれだろう」

「私は遠慮しておくよ。各務君だけ食べるといい」

「そうかね。なら遠慮なく」


 露店で買い求めた焼き鳥を各務君は美味そうに食べながら参道を歩く。


「殺してすぐの生の雀はたいして美味くもないものだが、こうして焼いて味付けをしてあるものはなかなかいける。人間のこういうところは俺は好きだね」

「調子がいいなあ……普段は人間など馬鹿にしているじゃないか。それに、よくそんな姿焼きを食べられるなあ。目の前で普通に飛んでいる雀だぞ?」

「鶏は平気で食べるくせに雀は嫌だなんて吉岡君こそ偏見だ。それにな、雀は稲作の天敵。五穀を食い荒らす害鳥だ。だから、我々が仕置きとして食べるんじゃないか」


 もっともらしい講釈を垂れつつ、各務君はあっという間に一串をペロリと平らげてしまった。


「見えてきたぞ。ここからは大神様のご領地だ。粗相がないようにな」


 各務君がめずらしく真剣な顔をしている。

 流石の彼も、稲荷の総本山では神妙になるようだ。


 境内へ入った瞬間に空気が変わったことが判った。


 参拝客に混じって、鋭い目つきで白い着物に青い袴の男たちが手に棍棒を持ち、境内をうろうろしている姿が見える。

 もちろん人間ではない。その顔は狐そのものだ。

 普通の参拝客に彼らの姿は見えない。


 朱塗りの千本鳥居が、延々と続く。

 途中、いくつも分かれ道があり、まるで鳥居でできた朱の迷路のようだ。

 私は各務君について進んでいく。


「待たれよ」


 何度目かの分かれ道で曲がった時、二人の男が棍棒を交差させて行く手をふさいだ。

 さきほど境内で見た棍棒を持った狐たちだ。


「ここからは大神様のご在所。我ら稲荷の眷属と、大神様のお許しを得た者以外は何人たりともここは通さぬ」


東国とうごくの稲荷社に席を置く各務と申します。吉岡秋斗と共に大神様のご機嫌伺いに参りました」


 各務君はいつもと違う神妙な面持ちで深く頭を下げてそう言った。

 すると、狐たちは棍棒を引き、うやうやしくお辞儀をした。


「これはこれは。大変失礼を致しました。どうぞ、お通り下さいませ」





 鳥居を通り抜けると、そこはまったく別世界だった。


 全てが白く、あるいは銀色に光り輝いている。

 木々も、風にそよぐ葉も、全てが。

 実りの季節はまだ先なのに、黄金色の稲穂が頭を垂れる田んぼが続き、どこから炊きたての飯のいい香りが漂ってくる。


「懐かしいだろう? ここへ来るのは君と俺が初めて会ったとき以来じゃないか?」


 各務君は目を細めてそう言って笑った。


「ああ……でも、ここのことは良く覚えている」







 そう。

 あれは伏見に来て二月ほど経った頃のことだ。

 家に居場所がなく、さりとて友達も出来ず、よく一人で稲荷神社の近辺で遊んでいた。


 両親の元にいた幼い頃は、人に見えざるものが見える自分の目が、他人にはない特別なものだとまだあまりよくわかっておらず、「ここにそれがみえる」「どこそこに何がいる」など、自分の目に見えるものをなんでもそっくりそのまま口に出してしまっては、人々に気味悪がられていた。

 両親だけは困った顔をしつつも優しく「あまりそれを他人ひと様に言ってはいけないよ」と諭してくれていた。


 七歳を迎える頃には、私自身もそれは慎むべき事だとうすうす気づき始め、だんだん自分から人を避けるようになっていた。

 一人で遊んでいるほうが気楽だったし、楽しくさえ感じていた。


 流行病で両親が亡くなり、伏見にいる母方の祖母に引き取られた十歳の頃には、私はもうすっかり無口な子供になっていた。

 それがよほど無気味に見えたのだろう。一族の忌み子であり、子供らしからぬ私の所作はやっかいごとを嫌う親戚たちをより遠ざけてしまったようだ。


 そんな私を祖母はことさら厳しく躾けた。

 みだりに他人に話し掛けるな、気安く人に近づいてはならないと小言を言う祖母を私はいつも恐れていた。

 いつしか私は殆どの時間を一人遊びで過ごす子供になっていた。


 そんなあるとき、私は稲荷山の奥宮から奥社へ続く参道で、不思議なものを見かけた。

 そいつは朱色の鳥居が立ち並ぶ参道の脇に広がる鬱蒼とした森からひょいと飛び出すように現れたかと思うと、参道を堂々と歩いていく。

 参道を往く人々はそいつの存在に全く気づいていない。


 白い着物に白い袴。その装束自体は神職の普段着としてよく見かける服装だが、その袴は大抵青や紫であり、白袴は見たことがなかった。

 しかもよく見るとその袴には何らかの紋が入っている。白い袴に白い紋なので、一見して見えにくいが、光の加減でキラキラと光り綺麗だった。


 その顔は狐そのものだった。鋭い目で、どことなく近寄りがたい雰囲気。口が大きく、尖った耳の近くまである。鼻面は長く、狐の耳と尾が生えている。

 その体を覆う体毛は美しい純白で、鳥居の隙間から漏れる木漏れ日を浴びて白く輝き、神秘的でさえあった。


 あれは物の怪だ。

 白い狐の物の怪。

 怖さは不思議と感じず、むしろ綺麗だと感じた。


 白狐ということは、もしや狐の神様だろうかと興味を持った私は、そっとそれに近づき、物陰からじっと見ていた。今思えばなんて命知らずだったろうと思う。


 私の視線を感じたらしい狐の物の怪は、私のすぐそばまでくると、私をじっと見つめ、


「お前、俺が見えるのか?」


 と言った。私はこくんと頷いた。


「お前、俺のことは怖くないのか?」


 私は再び頷く。

 珍しいとは思ったが、不思議と怖いと思わなかったからだ。


「ふむ……変わった子だな……お前みたいな目をもっていると、この先いろいろと難儀するぞ。俺たちみたいなのにはむやみに近づかぬほうがお前の身のためだ」

「どうして?」


 その時、私は思わず訊ねてしまった。

 亡くなった父母や祖母から、物の怪に出くわして話し掛けられても答えてはならないと言われていたのに。

 狐男も驚いたように口を少し開け、耳をぴくりと震わせた。


「見えるだけではなく、干渉もできるのか……これは驚いた」

「なにか、おかしいことなの?」

「俺たちの姿を見て、声を聞ける者は人間の中にも希にいる。だが、俺たちと話ができる人間はめったにいない。お前はなかなか面白い子供だ……よし、俺についておいで」


 私は狐男に手を取られた。

 その手はふかふかの白い被毛に覆われ、鋭い爪と肉球があった。

 白い狐の前脚だった。


 いきなり手を取られ、驚く間も無く体がぐいと引っ張られたかと思うと、目の前の景色が物凄い速さで回り出した。

 赤い千本鳥居がくるくると回る。

 目が回りそうになり、吐き気がしてくる。

 あまりの気持ち悪さに泣き出しそうになったとき、回転は止まった。


 そこは全てが真っ白に輝く世界だった。

 葉っぱも木々も白や銀に輝いていて、豊かな黄金の稲穂が実った田んぼが延々と続いていた。

 どこからか炊きたての飯のいい香りが漂ってくる。


 連れて行かれたのは、稲荷大社の本殿そっくりの社だった。

 しかし、見覚えのある本殿と違い、それはすべて黄金で出来ていた。


 私は狐男に手を引かれ、本殿のなかに入る。


 本来なら御神鏡があるべき本殿の奥には、御神鏡の代わりに御簾がかかり、中には人影があった。


大神おおみかみ様の御前だよ。そこに座って頭を下げなさい」


 狐男は正座し、御簾に向かって頭を深く垂れ、私もそれに倣う。


『人の子や……そなた、名前はなんという?』


 年老いた女の穏やかな声が私に尋ねた。


「……よしおか……あきと」

『あきと……どんな字を書くのだね?」

「春夏秋冬の『秋』と、北斗七星の『斗』と書きます」

『実りの季節の『秋』の字と、星の巡りを意味し、凶の入らぬ『斗』の字の組み合わせか。実によい……お前はとても良い名を授かったのだね』


 御簾の向こうに居るらしい「大神様」は優しい声でそう言った。


「大神様。この子は我々を見るばかりか、干渉する力を持つ特別な子供ですが、如何致しましょう? 見たところとても強い力があり、山の結界もすんなり抜けてここまで来ることができました……このまま市井に置くのはこの子の為にはなりますまい」


 狐男はそう言った。


『そのようだね……我にもこの子の力の強さがわかる』


「あの……僕、何か変なんですか?」


 不意に不安になって、私は大神様におそるおそる尋ねた。


『秋斗や、よくお聞き。希に、人の中には我らに近い気を持つ子供が生まれるのだ。しかしその殆どは自らの力の正い使い方を知らない。そればかりか他人とは違うその力を持て余し、苦悩してしまう』

「僕もこの変な力が……嫌いです」

『お前は自分が授かった力を嫌いなのだね?』

「嫌いです。だって、僕にこの力があるせいで僕はみんなに嫌われるから」

『家族はお前を疎んじているのか?』


 私はすぐに答えることができなかった。


『虐められているのか?』

「いいえ。いじめられているわけではありません。でも……」

『恐れずとも良い、正直に答えてごらん』

「……はい。父と母は亡くなって、僕はおばあちゃんの家にいます。でも、おばあちゃんは僕を叱ってばかりでとても怖いです」

『では、お前に友はいるのか?』

「友達はいません。僕は何もしていないのに、みんな僕を気味悪がるんです。それに、たまに気味の悪いものが僕にこちらへ来いと呼んだり、食べてやろうかと僕を脅したりしていつも怖いです」

『かわいそうに……。それはさぞや辛かったであろうな』

「大神様。どうして僕だけこんな目にあうのでしょうか?」


 私の問いに大神様は答えてくれた。


『秋斗よ。実のところお前は人ではなく、物の怪でもないのだ。お前は我らのような神や物の怪と、人間との丁度中間にいる不安定な存在なのだよ』


 大神様が言った事は私を酷く落胆させた。

 私は人間でも物の怪でもない、どちらの世界にも属することができないというのだ。


「大神様。では僕は人ではないのですか? 物の怪なのですか?」

『体は人だ。だが、その魂は人とは言えぬ。だが、物の怪でもない。しかし、それゆえお前のその力は強く特殊だ。そしてそんなお前の力は諸刃。我らにとっても、人間にとっても便利であり、やっかいなものである』


 これを聞いた私は今にも泣き出しそうなほど辛い気分になった。

 自分は人ではない。物の怪ですらない。

 十歳の幼い私にとってこれは受け入れ難い現実だった。

 今すぐにでも消えて無くなってしまいたくなった。


 しかし、俯く私に大神様は慰めるように優しい声をかけてくれた。


『心配するな秋斗。我らと出会えたのは、偶然ではなく必然だ。それはお前の魂がとても強い証拠だよ。自ら運命を変える力を持つ魂はとても強い。だからその力、我らが引き受けよう』

「どういう……ことですか?」


 私にはその意味がわからなかった。

 すると、狐男が耳元で囁いた。


「お前の力は大神様と我ら稲荷の眷属の預かりとなるということだ。我らの守護を受ければ、お前は今後、普通の子供として過ごすことができる」


 それは本当だろうか?

 もしそれが可能ならば祖母はもう私を叱ることもなくなるだろうか?


『良いか秋斗。お前はその力、隠したままこの地を離れるがいい。おそらくお前は生まれた土地の悪しき物の怪からすでに目をつけられているだろう。悪しき者に魂まで食らわれたくなくば、これより先は遠い土地で暮らし、我らの眷属の守護を受けるがいい』

「僕はこの場所で暮らしてはいけないのですか?」

『暮らしてはならない……お前を悪しき者から守っていた祖母は間もなく鬼籍にはいり、お前の濃い血縁のものはいなくなる。お前の祖母という強力な護りがなくなれば、悪しき物の怪は直ぐにお前を襲うだろう』

「おばあちゃんが僕を守っていた?」


 大神様の言葉を信じられなかった。


 私は祖母をいつも恐れていた。

 何か異形のものが見えたと祖母に言うたびに、祖母は私を酷く叱る。

 だから祖母は私を嫌っていると思っていたし、私も祖母が嫌いだった。


「嘘です。おばあちゃんは僕のことが嫌いだもの」

『そのような事はないよ。我には見える……その力はお前の母の血脈のもの。おそらく以前にも、大きな力を持った者がお前の血族にいたのだろう。父母にも先立たれ、祖母もいなくなれば、お前を守る強い力を持つ者はいなくなる』

「信じられないです。僕を守っていたならなぜおばあちゃんは僕に辛くあたるの?」

『おそらく、お前が祖母に懐けば、この地を離れず、自分亡き後もここに留まりつづけるかもしれぬと考えたのだろう。それはお前にとってとても危険なことだ。だからお前の祖母はお前につらくあたることで、この地で暮らしたことを嫌な記憶に変え、なるべく寄り付かぬようにと考えたのだろう』


 改めてそう言われると思い当たる節はあった。

 確かに祖母の言葉は厳しかったが、私を虐めるわけではなく、身の回りの世話はよくしてくれたし、病気をした時などは懸命に看病をしてくれ、体を気遣う言葉をかけてくれた。

 食事は三食きちんと揃い、おやつが出ることもあった。

 用意された着物はいつも清潔で、破れたものがあっても丁寧に繕われていた。

 私のことを本当に疎んでいるなら、そういう事はしないだろう。


「お前、どうするかね? 大神様におすがりするか? それともこのまま帰るか? 我らは無理強いはしない。決めるのはお前自身だ」


 狐男は鋭い目を私に向け、私に回答を迫った。


「わかりました。どうか僕をお助けください大神様」






 その頃から私は今も愛用する眼鏡をかけるようになった。

 稲荷の社を出るときに、狐男が私に手渡したものだ。


「これは遮妖の眼鏡だ」

「遮妖の眼鏡?」

「そう。お前を悪意あるものから護るものだ。この眼鏡をかければ、そこいらにある雑多な物の怪は殆ど見えなくなる。物の怪の方もお前を認識できない。逆にこれをかけていても見えるのはよほど力の強い物の怪か、お前に敵意を持たぬ害の無いものばかりだ」

「ありがとう」

「それと念のため、今よりお前の記憶をしばしの間眠らせる。お前が別の地に行き、来るべき時が来たら、お前を守る役目を受けた守護狐がお前を見つけて話し掛ける。その時が来るまでは今日の出来事をお前はすっかり忘れるだろう……」



 その後、大神様が言ったとおり私の祖母はしばらくしてから鬼籍に入った。

 

 もちろん、祖母の死を預言されたことも、狐男や大神様に会ったことも私は全て忘れていた。

 この地を離れよという言葉も忘れていたが、私は祖母を亡くしてすぐ、故郷を出た。


 落ち着いた先で、偶然を装った守護狐の各務君に出会い、記憶を取り戻した日まで、これらのことはすべて自分の意志で決めたことだと私は思い込んでいたのだ。






「君もあれから随分大人になった。見た目ではあの時の俺と変わりないのだな」


 各務君は懐かしそうに目を細める。

 あの時、私をここに誘った狐男こそ、この各務君だ。


「俺は君の守護をすることになったおかげで、伏見から引っ越す羽目になったのだぞ。都落ちもいいところさ。今考えれば俺も妙なガキを拾ったものだよ」

「昔から各務君はふらふらとうろついていたからね。その報いだろう」

「黙れ。人間の癖に」

「人間でも物の怪でもないんだろう? 私は」

「逆手にとったな?……まあいい。大神様にご挨拶をしよう」

「ああ」






『秋斗……お前、少しは人の世が見えるようになったかね?』


 御簾の向こうから聞こえる声は昔と同じく穏やかだ。


「はい。大神様。最近私は少しずつですが、何か自分が授かったこの力の意味が見えるような気がしてきています」

『それは善きことよな』

「大神様はなぜ、私を引き受けてくださったのですか?」

『忘れさせぬためだ』

「忘れさせぬため?」

『そうだ……人間たちにとっては摩訶不思議たる存在の我々や、物の怪どもや、その他諸々不可思議なるものの存在を忘れぬよう、お前にはその繋ぎとなる存在になってもらうためだ』

「繋ぎ……」

『お前の書く物語はいずれ長く人の心に残るものとなろう。人間が人間だけで生きているという慢心を起こしたとき、自分と違う異形なるものの物語は人間にきっと忘れたものを思い出させるきっかけとなる。この世はさまざまな生き物や精霊、神、物の怪、そして人間がそれぞれ微妙に影響しあいながら成り立っている……お前のような、中間の立場の人間はその均衡を保つ為にいるのかもしれない』


 その言葉を聞いて、私はひとつ、心当たりがあった。


 我が師である本田鉄斎。


 彼も私と同じ使命を帯びたものなのではないか?

 人ならざるものを見ることができる、繋ぎの立場の人ではないのかと。


「大神様、お聞きしたいことが」

『なんだね? 秋斗』


 しかし、私は聞くことができなかった。


「あれ? 私は何を聞こうと思ったんだろう?……申し訳ありません大神様。質問したいことをなぜか忘れてしまいました」


 不思議なことに、その質問を口に出そうとした瞬間、私は不覚にもその質問が何であったかを忘れてしまったのだ。


『善き哉、善き哉』


 大神様の声は楽しそうだった。








「故郷はどうだったね?」

「はい。先生。懐かしい人たちにも会うことができ、楽しかったです」

「そうか。それはよかった」

「それであの…………その……すみません先生……」

「どうしたんだね? 吉岡君」

「土産を買うのをすっかり忘れ……」


 そこまで言ったとき、私の柳行李をごそごそ探っていたおたまが、菓子の袋を取り出してにゃあんと鳴いた。


「おお、土産もあるのか。炭酸煎餅を買ってきてくれたのだね」


「あ……ええ? あ……は……はい……おかしいな……忘れたと思ったのに」


 確かに買い忘れたはずだ。

 上野駅についてから気づいてどうしようと悩みながら戻ってきたというのに。

 だが、おたまがくわえているのは間違いなく神戸駅で売っていた炭酸煎餅の包みだ。


「何にせよ、運がよかったじゃないか。忘れたと思ったものがあったのだから」

「はあ……」

「では吉岡君。これはありがたく頂くとするよ」

「はい」


 どう考えても覚えがなく、悩む私を尻目に先生は言った。


「それにしても君はほんとうに強運だね。『神の守護でも受けている』ように」

「え?」

「だって、いつも危機一髪で強運に救われているだろう?」

「は……はあ……」

「運や縁は大事にしたまえよ」


 先生はそう言うと、「さあ、おたまや。一緒にお土産をたべようねえ」と猫なで声でおたまを連れて部屋を出て行った。



 不思議に思いつつ、窓をあけると、遠くでケーンと狐の鳴き声がした気がした。


 ああなるほど。

 お節介な守護狐が気を利かせてくれたのか。


 私は小さく笑って小声で呟いた。




「助かったよ各務君」


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