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怪奇作家の書生  作者: よしじまさほ
3/13

狭間の宴(はざまのうたげ)

「おたまや。お前は本当に可愛いねえ」


 膝の上に黒猫のおたまを載せて、先生はご満悦だ。


「先生。そろそろ執筆に戻らないと、あと半時もすれば青嵐社せいらんしゃの都築さんが来てしまいますよ」


「わかっとる、わかっとる……でもなあ吉岡君。創作の神というものは気まぐれでね。やってきたかとおもえば、ふっといなくなる。そうなると、途端に筆が進まなくなるのだ。君もわかるだろう?」

「そのお気持ちはわかりますが」

「書けないときに無理して書いてもよい作品はできないのだよ」

「はあ……」

「こんなときは、猫と戯れるのが一番だ……のう、おたまや」


 先生はおたまの顎やら、背中やら、額やらをよしよしと撫でてやると、おたまはうっとりとした顔で、しどけなく四肢を伸ばし、すっかり頼りきって甘えている。


 先生は思うように筆が進まなくなるといつもこうだ。

 こんなときは、雑誌の編集者が原稿を取りにきても「書けぬものは書けん」の一点張りで逃げてしまい、哀れ編集者諸氏は先生の原稿がもらえるまで延々と手持ち無沙汰で待たなければならなくなるのだ。


 今日は月刊雑誌『青嵐せいらん』の締切日。

 この雑誌で先生が先日から連載をはじめた『怪奇憚 猫美人』という小説はとても評判がよく、先生の人気は高まる一方。


 青嵐社の編集の都築さんは長年先生の担当をしている上品な紳士で、先生がいくら待たせても、文句も催促も言わずに、ぎりぎりまでずっと待っていてくれる。

 大人しく待ってくれるからこそ、逆に気の毒な気がするのだ。


 そわそわと落ち着かないのは私だけで、当の先生はというと、本当に自分が書きたくなったときにしかペンを持たない。

 高名な作家だからこそ許される我侭に、おもいっきり甘えているのはどうかと思うが、作品の質を落としてまで締め切りに間に合わせるか、締め切り無視して書きあがるまで大きく構えるかは選択が難しい問いだ。





「本当にすみません、都築さん。たぶんもうじき出来上がりますから」

「いえいえ、構いませんよ吉岡さん。本田先生はいつもああですから、多少他の先生方より締め切りを早くさせてもらってます」


 都築さんは人の良い笑顔で微笑む。

 いつもながら気持ちのいい人だ。


「先生も青嵐社さんのために少しでも良いものをといつも仰ってますので……」


 応接室で青嵐社の都築さんにお茶を出しながら、私はいつもの台詞を言う。

 やっとやる気が出たのか、先生は先ほどから書斎に閉じこもっている。


「ええ、わかってますよ。どうぞお気遣いならさずに」


 もう、何度このやりとりをしたことだろう。

 いい加減お互いわかってはいるのだけど。


「さて、今夜は何時までかかりますかねえ……確か、先月は夜半頃までかかりましたが」

「ははは……ど……どうでしょう?」

「一応、家内には今夜は帰れないかもしれないと言っておりますので、何時までかかってもこちらは気にしませんので」

「はあ、恐れ入ります」


 都築さんは五十代前半の品のいい紳士。

 この年にしては少し多めに生えた白髪頭が、逆に彼のいぶし銀の魅力を引き出している。

 ああいう格好のいい年のとり方をしたいものだと私も常々思う。


「ところで、吉岡さんは今は何か新しい作品を書いていらっしゃるので?」

「はあ、少し書き始めているものがあります。でも、私はまだまだ駆け出しですし、修行中の身ですから、作品と言っても習作の域をでませんよ」

「そういえば先日、先生が「吉岡君はなかなか面白い作品を書く」と誉めていらっしゃいましたよ」

「えっ? 本当ですか」


 思わぬ言葉に私は少し心の中で小躍りした。


「ただ……」


 都築さんは苦笑する。

 少し、嫌な予感がした。


「ただ、まだ文章が荒削りで垢抜けていないとも仰ってました。私も何作か読ませていただきましたが、どの作品にも共通して言えることは、表現が少しぎこちない感じですかね……どの作品も雰囲気はいいんですが、中には言葉の選び方が適切でないものもありましたし、そもそも設定に矛盾があるものも多かった。次作を書かれる時はは少しその辺りを研究された方が宜しいかと思います」

「丁寧なご指摘、恐れ入ります」


 私の拙い習作をちゃんと読みこんでくれたのだろう。

 都築さんの批評は本当に的確だった。

 彼が指摘した部分は、確かに自分でも少し気になっていたところだったからだ。


「ただ、あなたの作品にはどこか惹きつけられるものがありますから、改善を重ねればきっといいものが出来上がると思いますよ」

「……ありがとうございます」


 都築さんはやんわりと言っているが、実際はかなりまだ酷いのだろう。

 物腰は柔らかいが、こう見えて都築さんはベテランの編集者。当然ながら目は肥え、批評も厳しいことで知られている。

 それに、青嵐社といえば、出版社の最大手。看板雑誌の『青嵐』は誰もが知ってる人気雑誌だ。

 そこの編集者の批評がこれでは、どこへいっても同じか、へたすればそれ以下だろう。

 まだまだ修行が足らないということか。




「都築さん、よろしければお夕食をどうぞ。吉岡さんもおあがりなさい」


 先生の奥様が夕食を二人前運んできた。


「ありがとうございます、奥様」

「これはこれは、いつもすみません。どうぞお気遣いなく」

「吉岡さん、都築さんのお相手お願いね」

「はい、奥様」


 これも毎度の会話。

 原稿が仕上がるまでは食事やお茶、時には酒などが出ることがある。

 先生は酒を嗜まれないので、おそらく奥様が気を利かせて都築さんの分を用意したのだろう。私もたまにお相伴に預かれることがある。


「おお……今日はビールが出ていますね。これは長丁場になるかもしれませんな」


 奥様の食事にビールがついてくるときは大体長丁場になることが多い。

 おそらく、食事の前に先生に「今日はまだかかりそうか」と訊ねてくるのだろう。


「吉岡さんも一杯如何ですか? 私も一人でビールを飲むのはつまらないので」

「では、お言葉に甘えて、頂きます」


 黄金色をした苦味の強いこの酒を、私はたまにしか口にしないが、喉越しが爽快でとても美味い。

 都築さんはお酒に強いほうだから、たぶん一人でも飲むことができるのだろうが、一応は仕事が関わっているので控えたいのだろう。


「にゃぁーん」


 おたまが部屋に入ってきた。


「おや、これが噂のおたまちゃんですか」


 都築さんは部屋に入ってきたおたまを膝の上に上げた。

 おたまは嫌がりもせず、都築さんの膝の上に大人しく座った。


「なかなか人懐っこい子だ」


 都築さんはにこにこしながらおたまの頭を撫でる。


「先生の『怪奇憚 猫美人』に出てくる猫の物の怪はこのおたまちゃんを見て思いつかれたらしいですねえ」

「ええ……」

「確かに、真夜中に妖艶な美女に化けそうなほどの美猫ですなあ」


 おたまの艶やかで黒い毛皮を撫でながら都築さんはそう言って笑った。


 美女に化けそうなのではなく、本当に化けるのだ。その猫は。

 この猫の本当の名前はヘイマオ。大陸の言葉で黒猫という意味を持つ、異国から来た猫の物の怪だ。

 先生が骨董屋から買ってきた香箱を守っていた守り猫だが、居心地がいいらしく、すっかりこの家にいついてしまった。


 現身の猫の姿では、その名のとおり猫をかぶって大人しくしているが、実際はとんでもない高慢ちきな猫だったりするのだ。


 先生が見ているところでは大人しくしているが、私だけしかいないときは、やれ食事をもってこいだの水をよこせだの、暑いから仰げだの、我侭放題。

 今では私はすっかり彼女の下僕扱いだ。


 そんなおたまことヘイマオ嬢は私の顔を横目でチラと睨みつける。

 まるで「余計なことは言うな」という牽制をされているようだ。


「私はね、本田先生の怪奇憚が大好きなんですよ……子供の頃から幽玄の世界や物の怪が跋扈する世界をずっと垣間見たくて、ずっと怪奇話や物の怪の出てくる昔語りが好きでした。この仕事についたのも、先生の担当になったのも、それが高じてかもしれません」


 都築さんは夢見るように語る。

 少年のような表情を持つ人だ。私は、こういう彼をとても好ましく思っている。


「私も先生の作品が大好きです。だから、こうして先生に師事しています」

「吉岡さんも物の怪を信じてますか?」

「……ええ」


 返事に少し詰まったのには訳がある。

 実際に見えて、そして干渉できてしまう立場としては、なんとも答えにくかったからだ。

 そんな私を見ておたまが意味深な表情でにゃあんと鳴いた。





 夜もだいぶ更けた頃。


「吉岡さん、吉岡さん」


 都築さんが私を呼ぶ声がした。

 その声で私は目を醒ました。


 どうやら椅子に座ったまま、うたた寝をしていたらしい。


「起こしてしまってすみません」

「あ、いえ……こちらこそ失礼しました」

「実は、さっきから、あの襖の向こうでなにやら騒がしい声がしてるんですが……」

「襖?」


 都築さんが指差したのは押入れの襖だった。


「あれは押入れの襖ですが……」

「押し入れですか? でも、まるで盛り場の喧騒のような賑やかな声がしていますよ?」


 都築さんはそう言って、押入れに近づくと、そっと襖を開ける。


「……繁華街ですね」

「えっ?」


 襖の向こうはまるで夜の盛り場かと錯覚しそうな、明るいネオン街だった。


「どういうことだ?」

「面白そうじゃないですか。行ってみませんか? 吉岡さん」

「ええっ?」


 都築さんは玄関まで行って自分の履物と私の履物を取ってきた。


「ほら、吉岡さんも」

「ちょ……ちょっと都築さん?」


 このおかしな現象に都築さんは全く違和感を持っていないようだ。

 普通は驚いて怖がるか、怪しむはずだ。

 しかし、都築さんにそんな素振りは無い。それどころか楽しそうだ。

 外に出て、あたりをくるりと見回して都築さんは興奮気味に言った。


「ほら、やっぱり思ったとおりだ。吉岡さん。ここは銀座です」


 都築さんは嬉しそうだ。


「銀座? ちょっとまってください。ここが銀座なわけないじゃないですか。うちから銀座まではかなりの距離なんですよ」

「でもほら、その通りは花椿はなつばき通りじゃないですか」


 都築さんが指差したところは確かに銀座七丁目と八丁目を抜ける花椿通りにそっくりだった。


 有名な珈琲店があって、先生のお供で何度か行った場所だ。見間違うはずが無い。

 くだんの珈琲店の、珈琲豆を模した特徴的な看板にも見覚えがある。


「なんで花椿通りが……」


 しかし、よくみるとやはりここは本物の銀座じゃない。

 通りを歩いている人影は、あきらかに人ならざるものたち。

 人と殆ど変わりない姿の者に混じって、あきらかに人ではないものがいる。


 さすがにこの現象は私にもわからない。こんな体験をしたことがないからだ。


「都築さん、戻りましょう。ここは銀座じゃありません。ほら、あれを見て」


 私はたった今、目の前を通り過ぎて行った兎の耳を生やしたモガのご婦人を指差して都築さんに耳打ちした。


「ほほう……上手く変化したものだ」


 驚くどころか都築さんは感心している。


 物の怪に慣れている私でも戸惑う状況なのに、都築さんはまったく動じもしない。

 むしろ、子供のように目をキラキラ輝かせながら都築さんは私に向かって興奮冷めやらぬ様子で言った。


「吉岡さん……以前から私は信じてたんですよ。何かの拍子に異界と現実の世界が通じるって。いつか、そういう世界に行ってみたいと思ってたのです」


 さすがは怪奇作家担当の編集者。


「あ……あの、本当になんとも感じないんですか? おかしいとか、怖いとか……明らかに普通じゃない状況ですよ?」


 すると、都築さんはちょっと我に帰ったような表情で私に言った。


「吉岡さん。普通って、何ですか?」

「え?」

「何をもって普通というのですか?」


 私は言葉に詰まった。


「ここが我々の知ってる銀座でないことは私にもわかります。先生のご自宅は吉祥寺。銀座からは遠く離れています。あの襖から外へ出た時点で、この世界に入った時点で、この世界ではこれが『普通』。むしろ普通でないのは私たちかもしれませんよ」


 都築さんはちゃんと理解していた。


 もしかして、都築さんにも見えるのだろうか?

 私と同じ、人ならざるものが。


 その答えを聞くことはできなかった。

 いきなり私たちに声をかけるものがあったからだ。




「よう! 吉岡君じゃないか」


 聞き覚えのある声。


 また、やっかいな奴に見つかってしまった。

 各務君だ。

 こういう不思議な場所には必ず彼が居る。


「珍しいこともあるものだね。『裏銀座』に君がいるとは思わなかったよ」


 どうやらここは『裏銀座』と呼ばれているようだ。


 今日も各務君は、堂々と銀座を闊歩する立派なモボファッション。嫌味なぐらい男前な姿だ。

 しかも今日は妙齢のご婦人を連れている。

 各務君の連れているご婦人は流行りの耳隠しの断髪。クローシュと呼ばれる深めの釣鐘のような形の桃色の帽子には可愛い赤いリボンが付いている。

 よく見ると彼女の髪にはゆるくパーマネントがかかっていて、これは若いご婦人方の最先端の流行の格好だ。

 アッパッパと呼ばれる夏用のゆとりのあるワンピースは白を基調とした華やかな花柄。

 銀座を歩く似合いのアベック風だ。


「吉岡。そなた、なんでこんなところにおる」


 帽子で顔を隠していたご婦人が喋った。

 この高飛車な口のきき方はまさか……。


「やっぱり。ヘイマオ嬢か……」


 しっかり今時のモガになりきっているヘイマオ嬢だった。


「どうじゃ? 似合うかえ? 各務殿に勧められて、『もだんがある』というものになってみたのじゃが」


 私はこめかみを押さえる。


「各務君……ヘイマオ嬢にあんまり変なことを教えないでくれ」

「なぜだい? 彼女、可愛いじゃないか。いつもの旗袍チーパオ姿も捨てがたいが、モガも似合うと思うぞ」


 だから、そういう問題じゃないのだが。


「む……あの男は、さっき妾を可愛いと褒めていた紳士ではないか」


 ヘイマオ嬢は少し離れた場所で物珍しそうにあたりを見回している都築さんを指差した。


「あっ! こら馬鹿! しーっ!」


 私は慌ててヘイマオ嬢の口を押さえた。

 さすがにあの「おたま」の正体を知られるのはまずい。


「無礼者」


 私の手の甲に赤い筋が三本。


「いたたたたっ」

「妾に気安く触るなと言うたであろう」


 ヘイマオ嬢は金色の瞳を細めて涼しい顔をしている。


「ハハハ……吉岡君。ご婦人に無体なことをしてはいけないね」


 各務君はニヤニヤと笑っている。


「そういう問題じゃないだろう!」


 いい加減頭に来た。


「おや、こちらの方たちはご友人ですか?」


 都築さんが気づいて話し掛けてきた。

 物の怪と知己だと知られるのはできれば勘弁して欲しい。


「あ、都築さん……こ……これはですね」


 慌てて取り繕ろおうと必死になったが、各務君が一足早かった。


「吉岡君の『親友』の各務と申します。宜しくお見知りおきを」



 ━━━━━━━ 万事休す。






 だから、なんでここで私は酒を飲んで、人ならざるものたちとの宴を楽しんでいるのだろう?


 不条理だ。

 あまりに不条理だ。


 猫の耳がついたり、狐の尾がついた麗しの女給が行き交い、立派な角を生やした赤鬼と青鬼が肩を組んでなにやら調子の外れた歌を陽気に歌っている。

 かと思えば蟲の羽を生やした子鬼がふわふわと赤い顔をして飛び、ぶつかる相手に喧嘩をふっかける。


 酒の瓶に体を半分以上突っ込んで、酒臭い息を吐くうわばみ。

 されこうべを箸で叩いて笑い転げる犬と猫。

 なにやらむずかしい議論を戦わしている天狗と鴉天狗。


 魑魅魍魎が集まる宴の席のど真ん中で、私と都築さんは彼らと『普通』に酒を飲んでいるのだ。


「ほほう……ここは裏銀座というのですか」


「そうですよ。他にも裏深川、裏新橋、裏吉原などもあります」

「それは素晴らしい」

「今度ご案内しましょうか?」

「是非ご一緒させてください」


 各務君と都築さんはすっかり意気投合している。


「辛気臭い顔をしておるのう。吉岡」


 ヘイマオ嬢が私の顔を覗き込む。


「まったく……どうしてくれるんだ。明日の朝、正気に戻った時に都築さんにこの顛末をどう説明すればいいんだ」


 私は半ばやけになって手にした葡萄酒を一気に煽る。


 一緒に遊びに行きましょう、いい店がありますからと各務君に半ば強引に連れてこられた店は魑魅魍魎の坩堝るつぼだった。

 最初は驚き、戸惑っていた都築さんも、しばらくするとすっかり馴染み、酒を飲んで、物の怪たちと一緒にはしゃぎ始める始末。


 もとの世界に戻ったとき、しらふに戻ったとき、どう説明すればいいんだ。

 考えるだけで頭が痛くなる。


「滑稽すぎる……怪奇作家に師事している書生が物の怪とつるんでいるなんて、洒落にもならない」

「そうか?」


 ヘイマオ嬢は炙った烏賊いかを噛みながら不思議そうな顔をする。


 猫は烏賊を食べると腰を抜かすのではなかったのか? いや、ヘイマオ嬢は普通の猫じゃないから問題ないのか……などとどうでもいいことを考えている自分が少し嫌になる。

 現実逃避もいいところだ。


「そのまま言えばいいではないか」

「そういうわけにはいかんだろう」

「ややこしいのう。人間は」


 猫になどわかってたまるものか。

 人間の世界のこの煩雑な事情が。


 たとえ都築さんを通じて先生にこのことがばれたとしても、おそらくあの先生のことだ。たぶん大して驚きはしないだろう。

 しかし、『公認』されることが我慢ならなかった。

 知れてしまうことで、自分が本当に『こっちがわの人間』になってしまいそうで。

 自分が人間じゃなくなるような気がして。


 私はかけていた眼鏡をはずし、テーブルの上にことりと置く。


 回りの風景はまったくぼやけない。

 元々目が悪い私は、人の世界にいるときはこの眼鏡がなければ本も読めない、人の顔の見分けすらつけられないのに、物の怪の世界では、眼鏡がなくてもくっきり見える。

 肉体としての『眼球』で見ている世界ではないからだろう。


 自分が本当に『人』であるかどうかすら最近は曖昧になっているのに、その最後の砦まで失ってしまうのが怖かった。

 人ならざるものたちの世界を文章として残すことで、私は自分の存在の意味を見つけたかった。だから、本田先生の家の門を叩いたのだ。

 怪奇作家は数多あまたいれど、その中にあって本田先生の作品は、どこか私の見る世界に似通っていたから。


 先生の作品は面白おかしく恐怖ばかりをかきたてる他の怪奇作品とは一線を画していた。

 まるで見てきたような描写、それでいて恐怖を感じさせない、むしろ温かみさえ覚える、そんな作風に惹かれて、先生に師事することを決めたのだ。


「飲みなされ」


 目の前に酒がなみなみと入ったグラスが差し出された。

 顔を上げると、そこには白髪の老人がいた。


「これを飲んでわしと賭けをしよう」

「……賭け?」

「そう。あの男の今夜の記憶を賭けて」


 老人は楽しそうに笑っている都築さんを指差した。


 いきなりの申し出に戸惑っていると、いつのまにか私の背後にいた各務君がにやりと笑って言った。


「この店の主さ。彼の出す酒を飲み干せたら何かひとつ願いを叶えてくれる賭けをする遊びをしてくれる。俺が頼んでやった」


「各務君……」

「まずいんだろう? あの男にいろいろ知られるのが」


 私は無言で頷いた。


「まあ、やってみろよ。しかし、この酒はなかなかつわものだぞ? 強い上に、なかなか飲み干せない……まあ、やればわかるけどな。どうだ? 吉岡君。やってみるか?」

「わかった」


 私は酒の入ったグラスに口をつけた。


 むせ返るような感触。喉が燃え上がりそうだった。

 甘さと辛さが入り混じり、美味いのか不味いのかもわからぬほど強い酒だった。

 しかも、小さなグラスにもかかわらず、なぜか飲んでも飲んでも無くならない。

 まるで、無限の酒瓶から永遠に流れ落ちる酒を飲み干そうとしている気分だった。

 心臓が早鐘を打ち始め、頭がふらふらしてくるが、それでも私は飲みつづけた。


 回りでやんやとはやしたてる声がする。


 いいぞ、頑張れ。

 まだまだ半分だぞ。

 ひっくり返っても飲みつづけろと声がかかる。


 永遠かとも思えるほど長い時間がたったような気がした。



 飲み干した。

 グラスは空になった。

 そう、思った時、目の前が真っ暗になった。


 ━━━━━━━ 善き哉、善き哉……。


 どこか満足そうな老人の声が聞こえた気がした。





「吉岡君。何をやっておるのだね?」


 先生の声がした。


「え……?」


 朝の光が部屋に入ってきている。


「あ……先生、おはようございます」

「おはようじゃないだろう? こんなところでまだ寝ていたのかね」

「先生。原稿は……」

「とっくの昔に上がったよ」


 先生は腕組みをして困ったような顔をしている。


「あの……都築さんは?」


 部屋の中に都築さんはいなかった。


「原稿を渡したら大急ぎで帰ったよ。すぐに校正に入るからと言ってな」

「先生の原稿は何時に上がったんですか?」

「夜半過ぎだよ。吉岡君、ビールのお相伴をするのはいいが、君が酔いつぶれてしまってどうするんだ、まったく」


 夜半過ぎといえば、あの出来事の直後だ。


「都築さんは酔っていませんでしたか?」

「うわばみの異名を持つ都築君がそう簡単に酔うわけがなかろう」


 先生はそう言って笑った。


「あの……都築さんは何か仰ってなかってですか?」

「何かって?」


 先生は奇妙な顔をする。


「あのヘイ……じゃなかった……おたまのこととか」


「ああ、可愛い猫だと誉めておったよ。本当におたまは可愛い……おお、そうだ。おたまに朝ご飯をやらねばな」


 先生はおたまのことになると表情がだらしなく緩む。


「おお、そうだ。これを都築さんに返しにいっておくれ。忘れ物だ」


 先生の手には都築さんが昨夜被っていた帽子があった。


「今ごろは、青嵐社で校正をしているだろう」

「はい」

「それと……」


 先生は、いたずらっぽい目をして私に言った。


「昨夜の非礼もちゃんと詫びてきたまえ。お相手をほったらかして眠りこけてしまったのだからな」

「はい」


 私は先生の手から帽子を受け取った。


「ちゃんと、謝ってくるのだぞ。『いろいろと』ご迷惑をかけたのだからな」


 先生は再度念を押すと、猫なで声でおたまの名を呼びながら部屋を出て行った。






「よう、酔っ払い。もう酒は抜けたかい?」


 いつものように、雑踏の中から各務君が声をかけてきた。

 さりげなく、人ごみの中から現れるのはいつものことだ。


「二日酔いでまだ頭が痛いよ……君のせいだからな? 各務君」


 私は各務君を軽く睨みつける。


「ははは。やっぱりな! 昨夜と同じ格好をしているものな。さてはそのまま眠って、着替えずに出かけたのだな」


 そういう各務君は、今朝は涼しげな夏物の着流しだ。


「あの人に忘れ物を届けに行くんだろ?」

「知ってるなら邪魔しないでくれ」


 私はいささか機嫌が悪かった。

 これも、各務君がよけいなことをしたせいだ。

 逆恨みといえなくもなかったが、怒りのやり場がなかったのだ。


「いいけど、あの都築という紳士にはちゃんとお詫びをするんだぞ」

「なんで、君にそんなことを言われなきゃならないんだ」

「助けてもらったら礼を言うのは当然だろう? 君はあの紳士に借りを作ったんだからな」

「え?」


 私は思わず歩みを止める。


「どういうことだ? 各務君」


 すると、各務君はにやっと笑ってとんでもない事実を私に告げた。


「君は昨夜、店主との賭けに負けたのさ」

「嘘だ。そんなはずはない。グラスの酒は全部飲み干したはずだ」


 間違いなかった。ちゃんと飲み干したことを覚えている。


「ところがそうではなかったのさ」


 各務君は気の毒そうな顔をした。


「ひとしずくだけグラスの底に残っていたのさ。あの店主との賭けの規則は厳しくてね、一滴でも残っていたら負けなんだ。君は命を取られかけたんだぞ」

「そんな……」

「ところが、そこにあの都築という紳士がやってきて、私が代わりその賭けを引き受けるから吉岡君の命を取らないでくれと申し出たんだ。当然店主はだめだと断ったが、あの人は条件を出したんだ」

「どんな条件を?」

「一度に三杯の酒を飲み干すとね」

「さ……三杯?」


 私は恐ろしくなった。

 あの酒が物凄くきつかった事は今でも覚えている。


「そうさ。そのきっぷのよさが気に入った店主は都築氏に言ったんだ。三杯全部飲み干せたら、吉岡君の命を取らないだけではなく、あんたの望みも叶えてやるとね」

「そ……それで?」

「見事彼は三杯の酒を飲み干したのさ。一滴残らずね……そりゃもう見事な飲みっぷりだった。しかも、平気な顔をしてるんだ。人間の酒豪もなかなか捨てたもんじゃないね」

「そうだったのか。申し訳ないことをしたな……よく謝っておかなきゃ」

「でも、そのことに関しては彼に言っても無駄だよ。覚えてはいないからな」

「どういうことだ?」

「彼は自分の望みとして、裏銀座での記憶を全て消してくれと頼んだんだ」

「えっ!」


 私は驚いた。

 各務君の話によると、都築さんはずっと見たいと思っていた異界を垣間見て、しかもそこで楽しく過ごしたということだけでもう充分だと言ったそうだ。


 この記憶を消すことは少し惜しい気がするが、覚えているときっとまた欲してしまう。物の怪たちの住む異界を垣間見たいという子供の頃の自分の夢は、もう充分叶ったのだからこれ以上望むのは部相応ではないし、余計なものまで望んでしまう。

 だから、この記憶は無いほうがいいと。


「そうなんだ……」

「吉岡君のためにもそうするのがいいだろうと彼は言ってたよ。知っていたら多分、興味本位でいろいろ聞いてしまう。それは彼にはきっと迷惑なことだとね……本当によく出来た人だ」


 各務君はひとりでうんうんと頷く。


「ひとつ、知りたいのだが」

「なんだい? 吉岡君」

「都築さんも私と同じ目をもっているのだろうか?」

「それは、違うと思う」


 各務君は首を横に振った。


「君が一緒に居たからさ」

「どういうことだ?」

「裏銀座などの、異界への入り口はどこにでもある。家具の隙間や、小さな路地、ほんの狭間からいくらでも入れる。だけど、それは特殊な目を持った者にしか見つけられない……君みたいにね。まあ、いくら君でも、狭間をみつけられるだけで、いろいろ条件がそろわないとあの場所には入れない。新月の夜とか、方位の問題とか」

「じゃあ都築さんは私とは違うのか……」


 なんだか、少しがっかりしたような気がした。


「人間にも『勘のいい者』は多いだろう? いわゆる『霊感がある』とかいう人間は結構多い。都築氏もおそらくその一人だ。そして力のある君と一緒にいた……他に昨夜の月齢や、方位、いろいろな要素が作用して偶然、裏銀座と繋がったのだろうよ」

「なるほど。じゃあ、私もそう簡単には裏銀座にはいけないということか」

「そうともさ。時間と空間の狭間で夜毎繰り広げられる我々の宴に、そう簡単に人間が入れるものか」

「そうか……ならいいや。私はもうこりごりだよ」


 すると各務君はにやにや笑いながら言った。


「そうともさ、吉岡君。境界線は大事だからねえ」





 青嵐社に行くと、丁度校正の終わったばかりの都築さんが現れた。


「ああ、すみません吉岡さん。わざわざ帽子を届けてくださったんですね」

「昨夜は失態をしてしまいました……都築さんには本当にご迷惑をかけました。すみませんでした」


 私は心の中で『裏銀座』での借りの分も一緒に謝っておいた。


「いえいえ、お気遣いなく」


 都築さんはにこにこしながら、麦湯むぎゆ(※1)を出してくれた。


「それにしても私も年のせいか、酒には弱くなりましたよ」

「そうなんですか?」

「ええ、昔はうわばみと言われたんですがね。先生のところのビールを少し頂いただけで、先生の原稿が出来上がるまで少し眠り込んでしまったばかりか、今朝は軽く二日酔いです……今後は酒を控えなければね」


 実際はそんなものじゃない。

 都築さんの酒への耐性は全く衰えてはいない。

 しかし、それを口に出すことはできなかった。


「そうそう。私、夕べ少し眠り込んでしまったときに、面白い夢を見ました」

「夢ですか?」

「はい。私は吉岡さんと一緒に、妖怪が沢山居る居酒屋で宴会をする夢でした。楽しかったなあ……店の店主と賭けをして、私が勝つ夢です」

「へ……へえ……それはまた面白い夢ですね。どんな賭けだったんですか?」

「店主の出すとても強い酒を三杯飲み干せば望みを叶えてくれるという賭けでしたよ」

「で、どんなことを望まれたんですか?」


 すると都築さんは少し残念そうな顔をして、


「それが、何を願ったかは覚えてないんです。賭けに勝ったことは覚えてるんですけどね。まあ、所詮は夢ですからね」


 そう言って笑った。


「そ……そうなんですね」


 私は胃の腑がキリキリ痛む気がした。


「それも、面白いことにね、その店の店主は酒神の『大物主大神おおものぬし』だったのですよ……しかも、私が大物主大神にと酒の絡む勝負をしちゃうんだから。ハハハ……ありえないですねえ。だけど、こういう仕事をしていると、変な夢を見るものですねえ。いや、愉快愉快」

「なぜ大物主大神とわかったのです?」

「上半身は老人、そして下半身が蛇身。昔なにかの資料で見た姿どおりでしたから」


 大物主大神。

 神話に出てくる酒神で蛇神だ。

 妖怪や付喪神、古の神がごっちゃに暮らしているあちらの世界では酒神が居酒屋を開いていてもおかしくないのかもしれない。


「ねえ、吉岡さん」


 都築さんが急に真面目な顔になった。


「はい?」

「私は物の怪を信じてます。きっと我々の見えないところで、彼らは我々を見ているような気がするんです」

「私も都築さんと同じ考えですよ」

「そうでしたか。さすが、吉岡さん。考え方が怪奇作家ですね」

「はは……恐縮です」

「ねえ吉岡さん。我々の仕事は娯楽小説を出す仕事です……経済の発展にも、国の将来にもあまり役にはたたないかもしれませんが、人に夢を与える仕事だと思ってます」

「ええ」

「人間は忙しすぎると自分を型にはめて安心したがります。『普通』という型が一番安心します。でも、普通って何だろうって考えると、自分が何者かわからなくなっちゃうことがあるんですよね……そんなとき、物の怪たちの世界に触れると、自分が何者でもいいような気分になるんです。だから、私はずっと憧れてたんですよ」


 都築さんは夢見るように溜息を吐く。


「素敵な夢でした……所詮夢は夢なのだろうけど、でも元気が出る夢はいいと思う。吉岡さんもそんな夢のある話を書けるよう、頑張ってください」


 私は考えた。

 都築さんの記憶は実はちゃんと消えていないのではないか?


 都築さんの度胸を気に入った酒神が気を利かせて、都築さんの幸せな夢の中に、全ての真実を閉じ込めたのではないか? そんな気がしていた。


「ああ、もうこんな時間だ……さて、今度は印刷屋にいかなければ。私はここで失礼しますね。本田先生に宜しくお伝えください」

「はい」

「では、ごゆっくり」


 都築さんは笑って部屋を出て行った。

 どこまでも格好のいい紳士だ。




 その後姿は、私にはとても気持ちよく見えた。



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(※1)麦茶のこと


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