泥亀
「私、最近なんだか急に老けた気がするんですよ」
応接室で先生と将棋をさしながら世間話をしているのは山海書房の安田氏。
先生が隔月で連載している雑誌の編集者だ。
彼はまだ三十にもならない若い編集者だが、真面目な好青年で、仕事以外でもよく訪れて、先生の将棋の相手を務めている。
彼は今日は仕事ではなく、将棋をさしに来ているようだった。
「どうしてそう思うのかね? 安田君」
「はあ。なんだか最近妙に髪が抜けるんです。朝起きた時など枕の上に抜け毛がどっさりと……」
安田さんは悲しそうな顔でふうとため息をつく。
「それは嫌な感じだねえ」
パチンと音を立て、先生は駒を置く。
「はい。このままでは三十を過ぎるより早く禿げてしまうかもしれないと不安でして。まだ結婚もしていないというのに」
「それはそれは……仕事に根を詰め過ぎて疲れているのではないのかね?」
髪の話は男にとっては微妙な話題。
「そうでしょうか?」
「うむ。疲労が溜まると老けやすいとも言うよ。少しは休養を取りたまえよ」
「はあ」
私はため息をつく安田さんの様子を見てすぐにその原因を特定した。
安田さんの頭の上に、大きな亀が乗っている。
淡い灰色の体。特徴的な尖った口。つるりとした甲羅と長めの体。
亀といっても、普通に見かける石亀や草亀ではなく、この界隈ではあまり見かけない泥亀……つまり、すっぽんだ。
当然安田さんは気付いてないし、先生にも見えていないだろう。
頭にすっぽんを乗せた安田さんの姿は少し滑稽だ。
『お前の毛はもう生えない』
すっぽんは安田さんの頭の上で、安田さんの髪の根本を噛みながら何度もそう呟いている。
そして時折チラチラとこちらを見ている。
この様子に居た堪れなくなった私は、座布団の上で四肢を伸ばしてまどろんでいるヘイマオ嬢に耳打ちする。
「すまないけど、安田さんの頭の上にいるあれを退けてもらえないか?」
『なぜ妾がそんなことをせねばならん? あんな泥亀は放っておいてもそのうちどこかへ行くぞ?』
座布団に横たわったまま、ヘイマオ嬢は気のない返事をする。
「いや、あの亀があのまま安田さんに取り憑いたら彼が気の毒だ」
『なぜ親族でもなんでもない他人をお前が気にかけるのじゃ? あの男が禿げようがどうしようが、お前には関わりのないことじゃろう?』
「そういうわけにはいかないよ。可哀想じゃないか。助けてやっておくれよ」
『あの男を助けると、お前に何か得でもあるのか?』
「別にそういうのじゃないよ。でも、困っている人は見捨てておけないし、私にしかあれは見えないんだから、原因がわかっているのに放置するのは気持ちが悪いんだ」
ヘイマオ嬢は目を閉じたまま小さな欠伸をする。
『人間の気持ちはよくわからんのう。あんな小物、取り憑いても大した悪さはできぬわ。放っておいてもあの男は死ぬような悪い目には会わんわ。悪いことは言わん。気安く他人に関わるのはやめておけ』
「そう言わずに。あとで台所から鰹の削節を持ってきてあげるから」
ヘイマオ嬢は片目を開け、上目遣いで私をちらりと見た。
どうやら、少し興味が湧いたようだ。
『鰹節なぞひとくちおやつにしかならんわ。馬鹿馬鹿しい』
「そこをなんとか」
『まったくお前は仕方がないのう……ならば鰹節のほかに鯵の干物も一枚つけてくれたらお前の言うことを聞いてやってもいい』
ヘイマオ嬢は交換条件として、なかなか難しいことを要求してきた。
夕飯に出すために、先ほど奥様が買い求めてきた鯵の干物の存在をヘイマオ嬢はちゃっかりと知っていたのだ。
しかし、あれをくすねてくるのはなかなか大変そうだ。
数が合わないことに奥様が気づく前に同じものを買って継ぎ足しておくか、野良猫が台所に忍び込んできて、盗んでいったと嘘をつくしかないだろう。
その煩雑さを考えると少しうんざりしたが、断ればヘイマオ嬢が動かないことは知っている。
「わかったよ。後で持ってくるから頼む」
私がそう言うと、ヘイマオ嬢はゆっくり起き上がり、前足をぐいと伸ばして尻を高く上げる。
『見ておれ。あのような泥亀などすぐに退けてやるわ』
ヘイマオ嬢は先生の側に近寄ると、おもむろに先生の膝の上によじ登り、向かいに座る安田さんの頭を凝視した。
「おや、おたま。どうしたんだい? 構って欲しいのかね?」
急に膝に上がってきたヘイマオ嬢に気付いた先生は嬉しそうにそう言った。
しかしヘイマオ嬢は猫撫で声を出す先生など眼中に入らぬといった体で、将棋盤に素早く前足をかけると、ヒョイと盤の上に飛び上がり、将棋の駒をあちらこちらに叩き落とした。
「おたま! やめなさい! なんてことをするんだ」
先生は困ったような声を出したが、ヘイマオ嬢は知らん顔で盤上の駒を落とし続ける。
そのどさくさの最中、将棋盤から落ちた駒を拾おうと身を屈めた安田さんの頭を、ヘイマオ嬢は待ってましたとばかりに右前足でぽすりと叩いた。
ヘイマオ嬢の一撃で、安田さんの頭の上のすっぽんはころりと床に落ち、仰向けになってジタバタと暴れている。
「こら、悪戯はいい加減にするんだよ?」
ヘイマオ嬢は後ろから両脇を先生にひょいと掴まれ、抱き上げられる。
「にゃああーん!」
それが気に障ったのか、ヘイマオ嬢は先生の腕の中で暴れる。
「おおー。おたまや、どうしてそんなにご機嫌が悪いのだね? やはり私が構ってやらなかったからか?」
「先生、おたまちゃんは先生が将棋に夢中になってたから、やきもちを焼いたのでは?」
ヘイマオ嬢に叩かれて乱れてしまった髪を直しながら安田さんは苦笑する。
「そうなのか? おたま。ごめんよ。後で煮干をあげるからご機嫌を直しておくれ」
私は、床に転がったままなんとか起きあがろうともがいているすっぽんの甲羅をさっと掴んで部屋の外に出た。
「で、お前は一体何者なんだ? なぜうちに来たんだい?」
私はすっぽんを持ったまま、家を出て近くの神社に来ていた。
ここは比較的大きな八幡宮で、本田先生は初詣や厄除けなどでよくこの神社を訪れる。
神社は神域であるから、もしこのすっぽんが悪きものならここに連れてくれば多少は力を弱められると考えたからだ。
すっぽんはすっかり甲羅の中に手足と頭を引っ込めており、出てくる気配はない。
遮妖の眼鏡をかけたままでこの物の怪が見えるということは、こいつがそこそこの力を持っているか、さほど邪悪なものではないと言うことだろう。
とは言え件のすっぽんはどんなに呼びかけても甲羅の中から出てこない。
どうしたものかと頭を抱えていると、
「ほう。泥亀か。こいつ、鍋に入れて食うと美味いんだよな」
振り向くと各務君がいた。
「お困りかね?」
彼はそう言ってニッと笑った。
「なるほど。悪さをしていた亀の物の怪をとりあえず捕まえて連れてきたはいいが、甲羅の中に引っ込んだまま出てこないってわけか」
「そうなんだ。なぜ、安田さんに取り憑いていたのか、何が目的なのかがわかれば対処もできると思ったんだが」
「それならお前のとこにいる神職の小僧にでも祓ってもらえばいいじゃないか」
「いや、それはできればやりたくないんだ」
確かに清史君に頼めば簡単に祓ってくれるだろう。
でもそれではだめだと私は感じていた。
祓うだけなら清史君に頼めば済むことだ。物の怪嫌いの彼なら頼めば快く祓ってくれるだろう。
しかし、それではこの亀が何を目的として安田さんに取り憑いたのかがわからなくなる。それがどうにも気持ち悪かった。
「そうか。まあ、君が嫌だというなら無理に祓うこともないだろう。俺が見たところこの亀はそこまで悪いものでもなさそうだしな」
各務君は亀の甲羅を指先でつつきながらそう言った。
「でも甲羅から出てこないと、どうすべきかもわからないんだよなあ」
「ならば俺がなんとかしてやろう」
各務君はそう言って私から亀を受け取ると、亀の甲羅をぎゅっと強く握って言った。
「すっぽんは美味い。身も美味いが甲羅も歯応えがあって格別だ。生き血を飲めば精がつく。刺身でもよし、揚げてもよし、鍋に入れてもとびきり美味い。本当に捨てるところがないぐらい、どこもかしこも美味い。さて、まるまる太ったこの美味そうなすっぽん、どうやって食べようか」
するとすかさず甲羅の中から声がした。
『やめろ! 食うんじゃない! もしも儂を食ったら末代まで祟ってやるぞ!』
「喰われたくなくば出てくるんだな。俺は稲荷の神使の狐だから、物の怪のお前など食うことは容易いんだぞ?」
『何? 神使の狐だと?』
甲羅から亀の頭がぴょんと勢いよく飛び出た。
『お願いだ! 神使になる方法を教えてくれ!』
「お前、どうして神使になりたいんだ?」
人目に付かぬよう本殿の裏に周り、私は亀を膝に乗せて座った。
『儂はこのお宮の近所にある大きな池に住み着いておった。そこは弁財天様のゆかりの場所で、綺麗な水が沸いておるとてもいい場所なのだ』
「それはもしや、井の頭池か?」
各務君が亀にそう尋ねると、亀は
『そうだ、そうだ』
と言って頭を何度も縦に振った。
井の頭池なら私もよく知っている。神田上水の源流であり、いくつかの池に分かれている。弁財天のゆかりの場所ということは、おそらくこの亀はそのうちの一つ、弁天池に住み着いていた亀であろう。
「あの池に住み着いた泥亀がどうして、物の怪になって悪さをしてるんだ?」
私の問いに亀は首を横に振る。
『悪さはまだ何もしておらん』
「何を戯けたことを。先ほど安田さんに呪いを吐いていたじゃないか」
『あれは呪いではない。儂はつい最近物の怪に化生したばかりで、修行を始めたばかりじゃ。そんな力などまだない』
「じゃあどうして、あんなことを?」
『あの男が髪が抜けることを気にしておったので、奴の頭に取り憑いて、何度も呪いをかければそのうち儂の本当の力になるかと思ったんじゃ』
「お前、安田さんに何か恨みでもあるのか?」
『とんでもない。あの男はたまたま儂の目の前を通っただけの知らぬ男じゃ。気まぐれに取り憑いてみたら、髪が抜ける悩みを持っていることがわかったので、そのまま憑いておっただけなんじゃ』
これを聞いた各務君は腹を抱えて大笑いし、私はガックリと肩を落とした。
「あはははは! なんて間抜けな泥亀だ。化生したばかりの駆け出しの物の怪であるばかりか、人を化かしたり呪ったりする力もまだ持っていないとはな。しかもあろうことか神使になりたいって? 寝言は寝てから言うものだ」
各務君は亀を指差し、目にうっすら涙を浮かべながら笑っている。この亀の言い分が、よほど面白いらしい。
『笑うな、狐め。運よく生きながらえ、日の光、月の光、大地から湧き出る力を長年浴び、寿命を超えて、付喪神となれたのだ。どうせなら神に仕える神使か名のある大妖になりたいと思うのは当然のことだろう?』
「各務君。あまり笑っては失礼だ。君にとっては可笑しなことでも、この亀にとっては真剣な願いだ。そんな想いを笑うのはよくないよ」
私は各務君をたしなめた。
「いやいや、確かにそうだな。失敬失敬。大きな願いを持つのは結構なことだ。悪かったな」
各務君は素直に謝った。
『儂ははじめ、自分の住む弁天池におわす、弁天様の神使になりたいと願ったのじゃ。だが、弁天様の神使は蛇であるから、亀はいらぬと弁天様に仕える蛇どもに断られた』
「そりゃそうだろう。神使の動物は決まっているからな」
各務君は腕組みをしてそう言った。
「我ら稲荷の神使は狐。今いるこの八幡宮の神使は鳩。春日や鹿島は鹿だし、伊勢や熱田、石上は鶏だ。どの動物でもいいというわけではない。お仕えする神に縁のある動物しか神使にはなれんのだよ」
『では儂はどうすればいいんじゃ』
「亀を神使としている神を探すか、神使は諦めて大妖にでもなるんだな」
『儂はできれば神使がいいんじゃ』
「わがままな亀め、身の程を知れ」
『なあ……そうつれないことを言わんでくれ狐よ。お前さんの力でなんとかならないのか?』
「なぜ俺に頼るのだ」
『他に伝手がないからじゃ』
「あのなあ。俺は確かに稲荷の眷属だが、神使は万能というわけではないんだぞ?」
『そこをなんとか』
亀は各務君の人差し指にパクリと食いついた。
「いたたたた! この泥亀め! 何をしやがる! 離せ」
『嫌じゃ』
亀は亀でもこいつはすっぽんである。
一度食いついたらてこでも離れない。
各務君は腕をぶんぶんと振り回すが、亀は離れるどころか、ますます顎の力を強めて各務君の指にがっつりと食いついている。
「各務君。この亀の願いを聞いてやったほうがいいかもしれないよ」
「呑気に見てないで助けてくれ吉岡君」
「助けてやりたくても私にはそんな力はないよ。私は物の怪が見えて、話せるだけなんだから。君のような神通力は何もないんだ」
「くそう! なんてこった。わかったよ! お前の望みをなんとか叶えてやるから離せ」
各務君はついに諦めたようだった。
亀に食いつかれ、腫れてしまった指先に、ふうふうと息を吹きかけながら、各務君はうんざりしたように私に言った。
「吉岡君、本田家には小説の参考にするための様々な資料があるだろう? だからちょっくら亀を神使にしている神様がいないか調べてきてくれないか?」
「それはできると思うけど、調べただけではどうしようもないだろう?」
「稲荷に縁のある神ならなんとかなるかもしれん。もし、なんの術もないならその時はその時だ。とにかくこの忌々しい泥亀が神使になるための手はできるだけ尽くそうじゃないか」
「そうだね。私たちにできることはするべきだ」
「でも、流石に打つ手なしの場合は、潔く諦めてもらおう。手を尽くしてもだめな時はだめなのだから。それでもどうしても諦めんと駄々をこねるようなら今度こそ神職の小僧に問答無用でこいつを引き渡す」
各務君は鼻息を荒くしてそう言った。
なんのかんの言いつつも各務君は誠実だ。彼のそう言うところ、私は嫌いじゃない。
「お前、それでいいか? 私たちはなんとか頑張ってみるけど、もしも駄目ならわがままは言わないと約束できるかい?」
『ありがたい。約束しよう。どうしても駄目なら諦めて大妖への道を進むわい』
まずは亀を神使とする神がいないか調べる為、亀を各務君に預け、私は一旦本田家に戻った。
「吉岡君。どこへ行っていたのかね?」
玄関先には本田先生がいた。
「あ、はい。少し気晴らしに散歩を」
「そうだったのか。姿が見えないから心配したよ」
「何も言わずに出てきてすみません。先生は将棋に熱中されてたので、お声をかけないほうがいいかと」
「ははは。それは気を遣わせたね。でも、もう将棋は終わったし安田君も帰ったよ」
「そうだったんですね」
「さて、私もそろそろ仕事にかかるかな」
先生はそう言って大きく伸びをした。
「あの、先生」
「なんだね?」
「日本の神や神社に関する資料をいくつかお借りしても?」
「いいけど、何の話を書くのかね?」
「神の使いにまつわる話を思いついたので……」
「それは興味深いね? どんな神使が登場するのかね?」
「はい。狐や鹿などはありふれているので、ちょっと変わった動物の神使がいいかなと思いまして、一風変わった神使のいる神はいないかなと思いまして」
「ほう? それは面白そうだね。なら私も少し君を手伝ってあげよう。少しそこで待っていなさい」
本田先生はそう言うと書斎へと入る。
少し経ってからいくつかの本を抱えて出てきた。
「この辺の資料が役に立つだろう。使いたまえ」
「ありがとうございます」
私は本を先生から受け取った。
「一風変わった神使だとそうだね……栃木の二荒山神社の蜂、静岡の三嶋大社の鰻、香川の金刀比羅宮の蟹などが珍しいところだね」
「あの……亀などはどうでしょう?」
「そうだね。亀もいたな……確か京都の松尾大社の神使が亀だったかな」
それだ!
私は思わず叫びそうになったのをグッと堪えた。
「松尾大社といえば大山咋神と中津島姫命を祀ったところだね」
「何の神様ですか?」
「確か、醸造の神だったはずだ。酒や味噌、醤油などを作る者たちに信仰されてるはずだよ」
「先生、お詳しいんですね」
「昔、取材で訪問したことがあるんだ。亀の他にも鯉が神使とされているよ」
「京都かあ……」
「そういえば、吉岡君は以前京都の伏見稲荷へ行ったと言ってたね」
「ええ」
「確か松尾大社も伏見稲荷とは縁があったはずだよ?」
意外な名前が出てきて私は内心驚いていた。
「本当ですか?」
「興味があるかね?」
「はい」
「確か松尾大社も伏見稲荷も秦氏が関わっているはずだ。歴史関係の本……特に山城国について詳しい本で調べてみるといいだろう」
「ありがとうございます先生」
「いい話が書けるといいね」
「はい!」
「やっと戻ってきたな? 待ちくたびれたぞ」
「遅くなってごめんよ」
八幡宮へ戻ると、各務君が退屈そうに泥亀の甲羅をつついていた。
「で、何かわかったかい? 吉岡君」
「うん、実はね……」
「なるほど。意外な縁があったのだな」
私の話を聞いた各務君はかなり驚いていたようだった。
「おい、聞いたか泥亀? お前、京都の松尾大社に行ってみろ」
『なんと! 京都とな? そこへ行けば儂は神使になれるのか?』
「それはお前次第だ。道中、徳を積みながら向かうといい」
『しかし、京都か……儂の足では辿り着くのに何年かかることやら』
「それも修行だ。精進しろ」
『わかった。では、儂はすぐに旅立つとしよう』
「それがいい。くれぐれも途中で鍋に入れられないようせいぜい気をつけろよ」
『ええい。どこまでも嫌な狐だな。だが、こんなことでは儂はもう怒らんぞ。亀の鈍い歩みでも、必ず辿り着き、神使になってみせるわい』
「その心意気だ。せいぜい頑張れ」
私と各務君が見守る中、亀はゆっくりと歩いて行った。
その姿が視界から消えるまでは相当の時間がかかったが。
「そういや、吉岡君を待っている間、この八幡宮の神使と雑談してたんだが」
「へえ。ここの神使って何だい?」
「八幡宮の神使といえば鳩だ」
そういえば、この神社には確かに鳩が沢山いる。
「どんな話を?」
「井の頭池の弁天様の話だ」
「ほう?」
「俺も知らなかったんだが、弁財天様というのは宇賀神様と同一の存在だと人間は考えているらしい」
「宇賀神?」
「そうだ。宇賀神様はな、大神様……つまり我らが宇迦之御魂神様の別の姿だ。人間は人面蛇身の女神として祀っているな」
「伏見で見た大神様の姿と随分違うんだね」
「でも、その本質は同じ豊穣の神だ。神はいくつもの姿を持つものなんだよ、吉岡君。でも、人間が考えるそれは少し意味合いが違うけどね」
「どういうことだい?」
「異国の似たような神と同一視して融合させちゃうんだよな」
「ああ、神仏習合というやつか」
「そう。あくまでも人間の都合だ」
「つまり、井の頭池で祀られている弁天様は本来の弁天様ではないということか?」
「そうなるかな。まあ、人間の都合などどうでもいいんだが、似たようなものを司る神でも、混ぜちゃならねえものもあるぜ」
「それはどういう意味だい?」
「同じ稲荷でも伏見と豊川は別物だ。あっちは大陸から来た荼枳尼天様。うちの大神様とは全く違う存在だから絶対に混同するなよ? どちらにも失礼に当たるからな」
「同じ稲荷神なのにややこしいんだな」
「神使も同じだしな。あちらは九尾の白狐。狐ってとこまで被ってる」
各務君はそう言って苦笑する。
「一口に豊穣神と言っても、沢山いるんだ。伊勢の豊受大神だって豊穣神だ。そもそも日本は八百万の神の国だからな、被ったっておかしくないんだ」
一ヶ月後。
「そういや安田君にこの間会ったよ」
本田先生はきなこをまぶした牡丹餅を口いっぱいに頬張りながら言った。
「そうなんですね? 先日はあまりお元気がないようでしたが、その後はどうされてるんでしょう?」
「うむ。まるで『憑き物が落ちた』かのように大変元気そうだったよ」
先生の口元にたくさんついたきなこがすごく気になる。
「それはよかったです」
「案外、気まぐれな物の怪にでも憑かれていたのかもしれんな」
「さあどうでしょうね」
「憑き物が落ちると不調が嘘のようになくなるらしいからね」
「そうですね」
そう言って笑った先生の口の周りのきなこがはらはらと落ちた。
「まあ、それは冗談として、気にしていた抜け毛もなくなったそうだ。やはり彼は疲労が溜まっていたんだろうね」
「そうですね。真面目な方だから働きすぎていたのかも」
先生は相変わらず無意識に鋭い。
実際は安田さんは泥亀の物の怪に憑かれていた。
彼に纏わり付いていた泥亀の妖気が抜けて、疲れや不調がが取れたのだ。
ちなみに抜け毛は泥亀の仕業ではないが、体が回復すればそういうのも回復するのかもしれない。
もちろん、その後再び彼が抜け毛に悩まされるかどうかは、彼の体質や遺伝の問題だから、運を天に任せるしかないだろう。
こればかりは物の怪の仕業でもなければ、神仏に祈ってどうなるものでもないし。
「にゃあん」
気づくといつの間にかヘイマオ嬢が私の脛に頬を擦り付けている。
『吉岡。お前は本当にお節介じゃのう。他人のことなど気にせず、好きに生きれば楽なものを。人間は本当に面倒臭い』
「いいんだよ。私は難儀してる人を見つけたら助けたいし、それが苦痛だと思ったことはないんだ」
『全く理解に苦しむのう。まあ、妾には関係のないことじゃ。それより先ほど鉄斎が食うておったあの餅を妾にも持ってきておくれ』
「猫が牡丹餅を食べたがるなんて聞いたことがないな」
確かにヘイマオ嬢は普通の猫ではないけれど。
『この家に来て、鉄斎がいつもこっそり食うておる甘味を、たまにちょいと拝借するようになってから甘味の旨さに目覚めたんじゃ』
また、余計な楽しみを覚えてしまったわけか。
『魚の干物も美味いが、砂糖を使った菓子があれほどに美味いものとは思わなんだ』
「だけど、ヘイマオ嬢はさっき干物を台所で食べてなかったかい?」
『甘味は別腹じゃ』
ヘイマオ嬢はそう言って目を細め、ペロリと舌なめずりをした。




