百鬼夜行
夏の夕刻は陽が落ちるのが遅い。
正午頃に比べれば、ずいぶん涼しくはなるものの、午後四時半を過ぎてもまだ気温は高く、日差しもそこそこ強い。ましてや今年は例年に比べ、とても暑いらしいと聞く。確かにいつもの年に比べると今年は何となく体に堪える気がする。
さて、そんな感じで暑さがなかなか引かないと困ることがひとつ。
太り気味で、大変な暑がりである我が師のご機嫌がすこぶる悪くなるのだ。
普段は温厚で優しい先生だが、暑さにめっぽう弱く、この季節だけは無駄に怒りっぽく小言も多い。理不尽な我儘も云う。
今日は特に機嫌が良くないらしく、先ほども奥様と派手な口喧嘩をしているのを見かけた。
どうやら原稿の締め切りが近いのにまだ思うように書き上がっておらず、先生はいらいらしているようで、奥様に向かって
「お前が昼ご飯の素麺のおかずをいつもより減らしたせいで、腹が減って頭がうまく働かなくて書けないじゃないか」
と先生は怒っていた。
言いがかりにも程がある。
しかし奥様も黙ってはいない。
理不尽な先生の言い分に対し、
「自分の至らなさの言い訳を昼ご飯の品数のせいにしないでくださいませ」
と容赦無く言い返す。
さらには、
「そもそもそんなに召し上がるから血の気が全て胃に回って頭が働かなくて書けなくなるのです」
と反論し、続けて追い討ちをかけるように
「そういえば半年前に比べてあなたまた一段とお太りになられたのではありませんか?」
とまあ奥様の反撃は先生の倍以上の言葉で畳み掛けるように続く。
藪をつついて蛇を出すとはまさにこのこと。
すっかり言い負かされた先生は「もういい!」と怒って書斎に籠ってしまった。
そしてこの後、先生の理不尽な我儘の的になるのは奥様ではなくこの私になることは想像に難くなかった。
多分、そろそろ声がかかるころだろうなと思い、読みかけの本に栞を差した途端、予想通り先生が私を呼ぶ声がする。
「吉岡君、吉岡君はいるかね」
声に苛立ちは含まれていない。いつもの穏やかな声だ。
怒りは少しおさまったとみえる。
「はい、先生。何か御用でしょうか?」
「少し用事を頼みたい。後で書斎へ来てくれたまえ」
「はい。すぐ参ります」
そう返事をしてから本を片付け、服装の乱れを整える。
書斎へ行くと、先生は団扇をバタバタ動かしながら、顔じゅうを汗まみれにして肩で息をしている。
よほど暑さが堪えるのか、先生は生成りの麻の着物の首元を広めに開け、袖は二の腕まで捲り上げている。
とても人前では見せられないほど何ともだらしない姿である。
もう少し痩せれば楽になるだろうにと思うのだが、ただでさえ修行中であり、居候もしている書生の身ではそういった進言も憚られる。
「吉岡君。すまんが、これでよく冷えたサイダアを買ってきてくれ給え」
そう言って先生は私に少し皺くちゃになった紙幣を一枚渡す。
「かしこまりました。いつもどおり二本で宜しいでしょうか?」
「うむ。頼む。あれには絶対に見つからんようにこっそり行くんだぞ?」
「はい。気をつけます……では、行ってまいります」
先生は酒を一切嗜まない。
代わりにサイダアをよく召し上がられる。
サイダアというのは、関西の有名な湯治場である有馬温泉の炭酸を豊富に含んだ温泉水に、砂糖を混ぜて飲みやすくしたものが元祖らしいが、もともとは仏蘭西のシイドルという林檎の発泡酒を真似たものらしい。
何にせよ、珍しいものが好きで、なおかつ大の甘党であるうちの先生は、たまたま知人の家で飲む機会を得たらしいこの飲み物がたいそう気に入ったようで、ここ最近はすっかりサイダアにご執心だ。
私が住むこの街でも、最近馴染みの商店の店頭に僅かに並ぶようになったが、まだまだ珍しく高価な品物だ。
私は今だ飲んだことがないが、この飲み物は炭酸が沢山溶け込んだとても刺激の強い砂糖水だそうで、甘くてとても美味いらしい。それに、何とも爽快な気分になるそうだ。
しかし、結局は砂糖水であるから、太り気味の先生の体には障ると、奥様が禁じている。
そのため、私がこっそりと買いにいかされるのだ。
先日など、飲み終わった空の硝子瓶が奥様に見つかってしまったことがあったのだが、その際には私が飲んだということにされてしまった。
居候の書生の分際でなんと贅沢なと奥様の目の前で理不尽に叱られたが、あとで、「本当にすまなかった、わかっておくれ」とお小遣いを頂いたのでよしとしよう。
それにあの聡明な奥様はきっと勘づいている。
サイダアを飲んだのは私ではなく先生の方であると。
玄関から外へ出ると西日がまだ強い。
奥様は夕餉の支度で台所におられるのを先ほど確認したので、どこへ行くのかと咎められることもない。
豆腐売りの声がしたり、蚊を追い払うために焚きしめられる青松葉の煙があちこちにあがる雑多な路地を、青松葉の独特の匂いで咽せそうになりながら目当ての店へと向かう。
金魚売りとすれ違う。
赤いべべをきて、ふわふわと尾をひらつかせたリュウキンが、涼しげな硝子の器の中に見える。
その姿は大変美しく、夕陽の金色が当たってキラキラ光り、まるで幽幻の世界の生き物のように見えた。
私は金魚を少し欲しくなり、思わず金魚売りを呼び止めようとしたが、なんとか思いとどまった。
買ったところできちんと育てる自信はないし、家に戻って改めてその姿を見れば、きっとあの美しさは褪せているような気がしたからだ。
あれは、夕陽が見せる一瞬の美しさなのだろうから。
打ち水をする奥方や、夕涼みの席で将棋を差しつつキセルをふかすご隠居たちを横目で見ながら賑わう大通りを歩くと、しばらくして見慣れた金看板の商店が見えてきた。
商店でサイダアを買い、釣銭を貰って外へ出る頃には、陽は随分暮れなずみ、少し薄暗くなってきた。
夕餉までに帰らねば。先生は待ちくたびれているだろう。
少し足を早めた途端、私は背後から呼び止められた。
「吉岡君じゃないか」
振り返ると友人の各務君がいた。
彼はいつも不意に私の前に現れる。
いつもお洒落な彼は、今日も舶来品らしい海老茶色の洒落た背広を着込み、同じ色の中折れ帽をかぶっている。
「こんなところで何をしているんだい? 吉岡君」
「先生のお使いでサイダアを買いにきたのさ」
すると、各務君は少し帽子をずらして頭をコリコリ掻きながら珍しそうに私の手の中の品物を覗き込んだ。
「おお。これが最近噂になっているサイダアか」
「各務君も知っているんだね?」
「勿論だとも。俺は流行には敏感だからね。でも、まだ飲んだ事はないんだ」
「へえ……」
確かに彼は新しもの好きで、服や持ち物に至るまで、常に最新の流行を抑えている。
「吉岡君。本田先生はサイダアがお好きなのかい?」
「ああ。先生は酒を嗜まれないから酒の代わりに甘いものをよく召し上がるのさ。最近はサイダアがお気に入りで、いつも一人で二本飲むんだ」
「一人で二本もかい? そりゃまた豪快だね」
「でも、飲み過ぎるとまた太ってしまうと奥様に叱られてしまうから、私が内緒でお使いをしているのさ」
「ほう。サイダアは二十銭以上もする高級品だぜ。さすがは高名な小説家の先生だねえ。こんな高級品を二本も買えるなんてすごいもんだ……俺にはとても手が出ないよ」
各務君は特徴的なニヤニヤ笑いを浮かべている。
この表情をする時の彼はちょっとした悪戯を考えていることが多い。長年の付き合いなのでよく知っている。
「君、また妙なことを考えてるんじゃないだろうね?」
私は少し警戒し、身構える。
そんな私に各務君は笑いながら言った。
「嫌だなあ。君は俺のことを信用してくれていないのかい?」
「そうだ。君がそんな顔でニヤニヤ笑う時は碌なことを考えていないからな」
「おやおや、ひどい言われようだ。悲しいなあ」
そう言いつつも各務君はさほど悲しそうには見えない。
「ところで吉岡君はそれを飲んだことがあるのかい?」
「いいや」
私が首を横に振ると、
「では飲んでみたいと思わないか?」
確かに少し魅力的な提案だ。
先生がいつも美味そうに飲んでいるので、実は一度でいいからあれを飲んでみたいと思っているのは確かだ。
「まあ……そりゃあ少しは興味はあるけど、私には高価で手が出ないよ」
「なら、こっそり失敬しようじゃないか」
「えっ?」
各務君はにやっと笑って私に耳打ちをした。
「俺に良い考えがある」
「遅かったじゃないか、吉岡君。夕餉の時間はとっくに終わってしまったよ。いったい何をしていたのだね」
先生はおかんむりだった。
「先生、遅くなってしまい大変申し訳ありません。実は店からの帰りがけにちょっとした災難にあってしまいまして、帰宅が遅くなってしまいました」
「災難だって?」
「はい」
「大丈夫かい? 一体どうしたのというのだね?」
先生は少し心配そうな顔をしている。
「実は、物の怪に出会ってしまいました」
「物の怪だと?」
先生は眉を顰める。
だが、その瞳に興味深そうな光が宿ったのを私は見逃さなかった。
「はい。四辻の先にて百鬼夜行と出くわしました」
「なんと! 吉岡君。それは本当かね?」
私の言葉を聞いた途端、先生は目を輝かせる。
まるで新しい玩具を目の前にした子供のようにわくわくした表情だ。
「ええ。私も驚きました」
「その話を詳しく聞かせてはくれまいか?」
先生は万年筆と紙を取り出した。
私はしめしめと得意になって、各務君と打ち合わせた法螺話をはじめた。
「商店の帰りに、桜田の辻を通りますと近道なのは先生もご存知ですよね?」
「知っているよ」
「あそこは確かに近道ではありますけど、人通りが少なく、ましてや夜になるとほとんど人が通りません」
「そうだね。大通りからは外れるし、近くには墓地もあるから何となく気味が悪くて特に夕方から夜にかけてはあそこは避けて通るな」
「先生……先生も妖怪話を得意とする物書きを生業としておりますから当然ご存知でしょうけど、黄昏時に四辻を進むと縁起が悪いのでどこかで迂回せよと、昔から申しますよね」
「そうだな。辻は異界と現世の交わる場所だからね。黄昏時は特によろしくない」
「しかし、私は急いでおりましたので桜田の辻を通ったのです」
「ほほう。それで?」
先生は身を乗り出す。
「辻を越えたところで、私の体は金縛りにあいました。動きたくても、まるで縫い付けられたように動けなくなったのです」
私は身振りで苦しそうな様子をして見せた。
「何と! 金縛りかね?」
「はい。私が難儀しておりますと、薄暗闇の向こうから沢山の真っ赤な鬼灯提灯の光が見えてまいりまして」
「ほうほう」
先生は必死でその話を走り書きしている。
「やがて、たいまつをくわえた狐だの、提灯を下げた化け猫だの、恐ろしい形相の般若だの、三つ首妖怪、大蜘蛛、大入道などがぞろぞろとやってきまして、私は震え上がりました」
「おお!」
先生の目がキラキラと子供のように輝いている。
「妖怪どもは私を見つけますと『おお、これは美味そうな人間だ。早速命を食らおうか』と私の近くに集まり始めました……しかし、私は妖怪どもに言ったのです」
「何と言ったのかね?」
「私の命はどうぞご勘弁ください。他のものなら何でも差し上げますと」
すると先生は腕組みをして難しい顔をした。
「妖怪どもがそんなことで諦められるのかね?」
「はい。私は丁度いいものを持っておりましたから」
「何を持っていたのかね?」
「先生に頼まれたサイダアです」
「サイダアかね?」
先生は妙な顔をした。
「妖怪がサイダアなど欲しがるのかね?」
私は嘘がばれるのではないかとひやひやしたが、それを悟られぬよう話を続けた。
「先生。妖怪は酒が殊のほか好きなのはご存知で?」
「知っておるよ」
「私は機転を利かせてこういいました。『私の命を取らぬなら、この珍しい西洋の酒を差し上げます』と」
「あきれたやつだ。君はサイダアを酒だと偽ったのかね?」
「仏蘭西のシイドルという酒がサイダアの元祖なら、酒と言ってもおかしくはないでしょう?」
「それはそうだが、サイダアには酒精が入っていないだろう?」
「ええ」
「では、ばれたらまずいのではないかね?」
「たとえばれたって構いやしませんよ。あの場から逃げ出せればよかったのですから」
「君は肝が据わっているというか、なんというか……大胆なことをするんだな」
先生は少し呆れたように言った。
「とにかく妖怪たちはその話を信じたのですよ。『では、その瓶は貰ってゆく』と言ってサイダアの瓶を持っていってしまいました。そういうわけで、私は助かったのです」
「つまり、それで帰りが遅くなったというのだね?」
「はい。そういうわけでせっかくのサイダアも物の怪に取られてしまいました。申し訳ございません」
先生は何やら少し考えていたがやがてにこりと笑って言った。
「ふむ……サイダアを取られたのは悔しいが、吉岡君が無事ならよかった」
「ありがとうございます先生。ご心配をおかけしてもうしわけありませんでした」
私は先生に頭を下げた。
「疲れたろう。今日はもう休みなさい」
「はい。先生……では休ませて頂きます」
私は先生の部屋を出ようと、先生に背を向けた。
すると、先生は私の背中越しに小さな声で言った。
「ありがとう吉岡君。君のおかげで面白い話を思いついたよ……それと、次からはサイダアは三本買って来るようにしなさい」
「三本ですか?」
私は振り返った。
「また、百鬼夜行に出会っても、三本あれば一本ぐらいは無事に持ち帰れるだろう?」
「……はあ……」
「もしも物の怪に出会わなければ一本は君が飲むといいさ」
部屋に戻って、裏庭に面した縁側に腰掛けていると、庭木の茂みがガサガサと揺れた。
「嘘がいつばれるかと少し肝を冷やしたよ。サイダア飲みたさでつい、君の謀に乗っかってしまった私も悪いが、もう懲り懲りだよ各務君」
茂みに向かって声をかけたが返事はなかった。
「でも、やはり先生は気づいておられたようだよ。これが私の虚言だと……だけど、創作に行き詰まった先生に私たちの嘘はいい刺激を与えたようだよ。来月には先生の新刊がきっと世に出るだろうね」
茂みの中からサイダアの空瓶がごろんと転がり出た。
「各務君。私に瓶を店に返しに行かせるつもりだな? 自分で飲んだものは自分で戻さなければだめだよ? 私は一口しか飲まなかったのに。君は沢山飲んだじゃないか……」
しかし、返事は何もない。
「しょうがないなあ。君は人に変化できるのに、面倒なことは全部私にやらせるんだね?……まあいいや。これを考えたのは君だし、私も少し楽しかったしね。今回は私が返してくるよ」
茂みががさがさ音をたてると、一匹の獣の影が目にもとまらぬ速さで私の側を駆け抜けていった。
しばらくして、ケーンと狐の鳴き声が聞こえた。
それからしばらくして出た、本田鉄斎先生の新作小説『百鬼夜行と西洋の酒』は大好評だった。
私は相変わらず、先生の下で書生をしながら、いつの日か世間に作品を出せるよう修行中だ。
いつか、常人に見えざるものを見ることのできる、自分の目を生かした偽りのない妖怪の小説を世に出すために。