愚かな願い、叶わない夢(Ω視点)
「噛んでっ!、っあ」
うなじに熱い痛みを感じた瞬間、自分を構成している細胞という細胞が、歓喜の悲鳴を上げた。
ぞわぞわとした波が神経を末端まで侵して、身体が大きく波打つ。
身体の絶頂よりなお高みにある、魂の法悦。
「しゅ、いち」
声が、震えた。
あんなに幸せな瞬間は、なかった。
俺がずっと抑制剤を使いたくないのは、愚かで醜い期待からだった。
ひょっとしたら修一が、俺のフェロモンに惑って、欲情してくれるのではないかという、汚い打算。
修一と一線を越えたあの夜。
これまでの発情期では、達したことのない域に行っていた。
修一が側にいるという歓喜。
彼に色仕掛けをしかけようとしている罪悪感。
大切な幼馴染を劣情に引きずり込むことを想像して、自分を慰める背徳感。
全てが混じり合い、呼吸すら困難なほどに興奮していた。
頭が真っ白になって、感情と欲情だけが動いていく。
ああ、これが本物のヒートなのだ、と。
俺は絶望とともに理解した。
「なぁ、頼む」
「今だけでいいから、抱いて」
「たすけて、しゅういち」
結局、俺は、修一の優しさに付け込んで、泣き落とすようにして関係を持った。
こんな関係が、いつまでも続くわけがないと、分かっていたのに。
* * *
「大学?」
「そう。俺はK大にするけど、お前どうする?」
かなりの難関大だ。
下位のアルファならば、躊躇うほどの。
でも、きっと修一は合格するだろう。
勤勉で、実直で、彼はとても優秀な男だから。
「どうしよ、っかな」
同じ大学はそれなりに難しいけれど、不可能とまでは言えない。
俺も、かなり優秀なオメガだから。
そうでなくても、近くの大学を選べば、きっとまだ終わらない。
このモラトリアムは続いていく。
でも。
そろそろ、終わらせなくては、いけないだろう。
「うーん……、そぉ、だなぁ」
泣きもせず、呻いた言葉は、間違いなく慟哭だった。
「俺、大学行かないかも」
「え?」
「見合いの話、来てるんだ。すっごい良家のアルファ」
「……え?」
目を見開いて固まった修一に、俺は苦笑しながら、参っちゃうよなぁ、と肩を竦めてみせた。
「向こうがめちゃくちゃ乗り気で。運命だ!って言ってるらしい。ちょっと惚れっぽい男らしいけどさ」
運命だと思って噛んだオメガが既に二人いるとかふざけた話も聞いたけれど、それは言う必要はないだろう。
親からは、断っても良いと言われている。
断っても、絶対に守ると。
それはつまり、断ることは、とてもリスクが高いということの裏返しだった。
「それで、いいの?お前」
しばらくの無言の後、修一は深刻と言っても良いほどに真剣な顔で口を開いた。
「大学、行きたがってただろ。薬学部に行きたいって、言ってただろ。もっと確実で副作用の少ない抑制剤を作りたいって」
「夢だよ、夢。薬一個作るのが、どんだけ大変だか」
スーパーマンになりたい、と願うのと同等の、限りなく不可能に近い夢だ。
俺ごときが作れる薬ならば、もうとっくの昔に普及しているだろう。
それに。
「それに、さ……仕方ないじゃん。俺、オメガなんだもん」
なるべくアッサリと、言葉が澱まないように気をつけて口にする。
俺にとっては自明の理、けれど修一にとっては、きっと理解しがたい言い訳を。
「大学行って、勉強して、資格とって、それで、……どうするんだよ。オメガ、それも番のいないオメガなんて、どこも雇ってくれない。きっと歩く危険物扱いだよ」
世間というのは、そういうものだ。
とてもとても厳しくて、理不尽で、残酷。
学生時代のように大人たちが守ってくれることはなくなる。
自己責任の名の下に、何かあればきっと、オメガである俺が罪人となるのだろう。
心で致死量の血を流しながら、半笑いで未来を見つめる。
俺の未来に、きっと修一はいない。
いては、いけない。
「なぁ、修一。これまでありがとうな」
「なっ、なんだよ急に!もうこれで終わりみたいに……」
悲愴な顔で俺をまっすぐ見つめてくる修一の目の一途さに、胸のそこから熱い塊がこみ上げる。
あぁ、俺はきっと、とても幸せな『人間』だ。
「俺が生きてるのがお前のおかげだからだよ。だからありがとうって言ったの。……ふふっ、お前、覚えてない?」
「え?」
軽い口調で重い感謝を伝え、唐突に訊ねれば、修一は意味が取れずに戸惑った顔で首を傾げる。
きっと彼にとっては、そこまで重い言葉ではなかったのだろう。
少なくとも、意識の上では。
でも、きっと。
「言ったんだよ、俺が死にたいとかほざいたときに。『俺のために、死なないでくれ』って。『俺が死んでほしくないんだ』って。……馬鹿だよなぁ」
修一は無意識の中で、俺に対して責任を感じていたのだ。
俺の死を止めてしまったことを。
死を求めていた俺を、無理矢理に生へ向かわせたことを。
だから。
「そんなことで、責任感じてさ。発情期のたびに真面目に夜通し俺の相手をしてさ。……ずぅっと、俺の隣にいなきゃいけないなんて、思ってたんだから」
泣きそうになりながら、出来る限り優しく、満ち足りた笑みを浮かべた。
修一に感謝を伝えられるように。
そして、修一が俺から解放されてくれるように。
「お前さ、俺を託せる相手ができるまで、なんて言ってたら、いつになるかわかんないよ?……もういいよ。十分だよ」
俺は、とても幸せだった。
好きな男が、いつだって自分を守ってくれていた。
好きな男が、何よりも自分を優先させてくれた。
好きな男と、ずっと一緒にいることができた。
抑制剤を飲まずとも襲われることもなく、望まぬアルファと番うこともなくいられた。
すべて、修一のおかげだ。
「俺のことは気にしなくていいから。ちゃんと、彼女作れよ。可愛いベータの女の子と付き合って、結婚して、子供作って、さ。そういう人生を歩むべきだ。お前、人気あるんだぜ?ベータなのにかっこいいし、優秀だし、優しいし。将来有望だって……女子達が騒いでるの、知ってんだろ?」
揶揄うように言っても、修一は真顔で眉を顰めている。
なんとなく修一の目が見られなくて、俺は目を伏せた。
「……な、修一。もう、解放してやるから……」
「別に、解放されたいなんて望んでない」
手放そうとした俺を訝しむように、修一は俺の言葉を遮った。
きっぱりと、迷いなく。
「そもそも、囚われてたつもりもないんだけど。……まぁ、お前にそう思わせてたんなら、ごめん」
生真面目に謝罪をして、修一は困ったように笑って言った。
「俺は、今はお前が一番大切だから、ここにいるだけなんだけど」
「っ、な」
一瞬で、顔に血液が集中した。
真っ赤になった俺のことなど気にせず、修一は当然のような顔で、あっさりと続けた。
「そのうち、きっと離れなきゃいけない日はくるんだからさ。それまでは、一緒にいればいいじゃんか」
曇りのない笑顔で、俺の全てを余さず掬い取る。
「お前に、誰か、項を噛ませてやってもいいと思えるアルファが現れるまで。それまでは、ずっと俺が側にいるよ。お前を守るのは、俺の役目だからな」
「ふっ、くくく、修一らしいな」
俺が項を噛ませてもいいと思えるアルファと出会うまで?
馬鹿馬鹿しい。
そんな日、来るわけがないのに。
きっと俺はお前を手放せず、お前は俺から逃げられない。
それなのに、なんでお前はそんなにまっすぐな目で、曇りのない笑顔を浮かべていられるんだ。
まるで、未来に思い悩むことなど、何一つないかのように。
「あぁ、もう……」
このお気楽者の、大馬鹿野郎。
俺の口から、ため息のような呟きが溢れた。
俺は、お前以外の『人間』なんか、いらないんだ。
お前さえいればいい。
だから、どうか。
いつまでも俺から離れないで。
ずっとお前が隣で、俺を守ってくれ。