いつか離れるその日まで
「なんで、貴之くん帰ってこないんだ?」
熱の波を乗り越え、ぐったりとベッドに倒れ伏す貴志の髪を梳き、汗を拭ってやりながら、俺はふと思い出して尋ねた。
俺が貴志の家に泊まりこんで三日になるが、貴志の弟の貴之は一度も帰って来ない。
親の同意のもと、対外的には風邪を引き込んだことになっている俺はともかく、貴之は通学のために自宅に帰って来ないとおかしい。
「あー、多分」
暫く視線をうろつかせた貴志は、俺がじっと待っていると観念しとように口を開いた。
「俺が、嫌がると思ってんじゃない?」
「え?」
仰向けに横たわったままで器用に肩をすくめて、貴志は言葉を繋いだ。
「俺、発情期の前後も、アルファのことめちゃめちゃ避けるから。ましてや発情期の最中は、絶対会いたくないんだよ。たとえ弟でも、どうなるか分かんないし」
家族であることも、血の繋がりすらも超えた、性への徹底的な不信感と嫌悪感に、言葉を失った。
そんな俺を横目に、貴志は淡々と続ける。
「あいつも、発情期の時は俺のこと避けてるから。俺のフェロモンはキツすぎて、うっかり酔いそうなんだって」
どこか嘲笑するように口を歪めて、貴志は吐き捨てた。
「俺は、オメガの中のオメガ、の匂いがするんだとさ」
「貴志……」
その言葉に込められた根深い自己否定には何も言葉をかける事は出来ず、俺はただ、ひとつだけ確認した。
「俺が居なかったら、お前、家に一人だったの?」
「……まぁな」
ため息ひとつ分の時間を口籠ってから、くるりと背を向けた貴志の頼りない後ろ姿に、俺はきりりと唇を噛んだ
***
夜になり、獣欲の波が貴志を襲う。
「だから、風邪ひくだろ」
深夜の水音に目を覚ませば、やはり貴志はバスルームにいた。
懲りもせずに冷水を浴びていた貴志を、ため息をついて抱え上げた。
全身を火照らせて動くこともままならない貴志を抱え上げ、ベッドに運ぶ。
ぐったりと力のない体をマットレスの上に下ろそうとした、が。
「うわっ」
俺の首に両腕を回して、離そうとしない貴志のせいで、俺はベッドに倒れこんだ。
慌てて両腕を突いて自分の体重を支えるが、貴志の上昇した体温が布越しに肌へ伝わって、身体が熱くなった。
「貴志、離して」
我慢の下手な自分が信用できなくて、俺は慌てて貴志に両腕を離せと告げた。
しかし、貴志はより強く、俺の首を引き寄せる。
「貴志!」
「なぁ、頼む」
慌てて咎めた俺の声に被せるように、貴志が切羽詰まった囁きを漏らした。
泣きそうに潤んだ声が、耳元で呻いた。
貴志が俺に縋りつく。
「今だけでいいから、抱いて」
至近距離で発せられた貴志の声は、俺の鼓膜を直に震わせる。
熱い吐息に、脳がくらくらと逆上せてしまいそうで、慌てて離れようとした。
けれど。
「でもっ」
「しゅういち」
幼気な瞳で見つめられて、俺は反論を封じられた。
「たすけて、しゅういち」
縋り付く腕を、離せなかった。
***
一度箍が外れてしまえば、もう歯止めはきかなかった。
綺麗な貴志を、自分は綺麗な思いで見てはいなかったのだと、突きつけられた。
自分がどれほど、貴志を欲しがっていたのか、と。
喜びか悲しみか分からない、あえかな悲鳴が寝室に木霊する。
俺は拙いながらも、全身全霊で貴志を愛した。発情したオメガの満たされることのない飢えを、少しでも緩和させることが出来るように。
「ねぇ!噛んでッ、お願い」
振り返った貴志が、眦から透明な涙を溢しながら嘆願した。
なんて無意味な願いだろうか。
ベータがオメガを噛んだところで、どうなるというのか。
けれど。
「おねがいッ、しゅういち、噛んでぇ!」
泣きながら、喘ぎの隙間から言葉を必死に絞り出すように、貴志が叫ぶ。
貴志に求められている。
そのことが、ひたすらに俺の中の熱を滾らせた。
虚無感と背徳感と征服欲と興奮と憐憫と、愛情。
そんな雑多な感情が一気に胸へ押し寄せ、完全に理性を手放した俺は、容赦なく貴志の項に噛み付いた。
「っ、痛ッ」
ガブリと血の滲むほど強く項に歯を立てると、腕の中で貴志は感極まったような悲鳴を零した。
どくどくと脈打つ動脈の力強さに眩暈を起こしそうになりながら、獣のように何度も首筋に噛みつく。
「たか、しっ」
「……しゅういち」
アルファよりは数段貧弱な細腕で、俺はひたすら貴志を抱きしめた。意識を光に溶かしているように陶然とした貴志が、何度も何度も繰り返しねだる。何の意味もない行為を。
「お願い、もっと、噛んで!」
「っふ、くそッ」
泣き声の懇願に、俺は唇を噛み締めて涙を堪えた。こんな行為、何の意味もない。ちっとも、貴志を救ってやることはできないのに。
「……あぁ、分かってる」
項だけではなく、頸動脈までも噛み切ろうとするように、側頸部にも何度も噛み付いた。
アルファとオメガの交わりならば、必要なんてないのだろう場所にも。
自分の痕を刻みつけようとでもするかのように。
「もっと、もっと噛んでっ」
「……あぁ、幾らでも」
俺でよければ、幾らでも与えてやる。
たとえ無意味な交わりなのだとしても。
たとえ俺では、本当の意味ではお前を満たせないのだとしても。
ほんの一時、お前の苦しみを誤魔化す役に立てるのならば、それで良い。
いつか、貴志には運命の相手がやってくる。
そうでなくても、きっと番のアルファが現れるのだろう。
けれど、それまでは。
俺に出来る精一杯で、俺がお前を守り、愛し、満たしたい。
いつか離れるその日まで。