君を傷つけたくないという願い
震える体をそっと抱きしめる。
俺の存在に気がついても、全く自分を抑えられないのだろう。泣きそうな目で、俺を見る貴志は、明らかに飢えて欲情した獣の目をしていた。そして同時に、そんな自分に絶望する、人間の目をしていた。
「ひっく、こんな、の、嫌なのにッ」
「たかし……」
初めてのヒート以来、貴志は我を失うような状態には陥っていない。
だから、貴志のヒートは「軽い」のだと、俺は思っていた。
けれど、違ったのかもしれない。
泣きながら欲望に耽溺する貴志を見て、俺は今呆然と立ち竦んでいる。
確かに貴志はヒートの最中でも思考することが出来る。
けれど、発情していない訳ではないのだ。
こみ上げる熱をコントロール出来る訳ではない。
熱を逃がそうとする自分を抑えられる訳でもない。
ただ、ひたすらに耐えているだけ。
「なんで、オメガってだけで、こんな」
泣きながら呻く貴志の目には、明らかな絶望が宿っている。
いっそ、欲情だけに支配されたのならば、まだ楽だったのかもしれない。
けれど、貴志は。
「もう、いやだ……ッ、死んでしまいたい……っ」
この潔癖で高潔で、どこまでも美しい幼馴染は、理性を失うことも出来ないのだ。
「たかし……」
慟哭が響くバスルームで、無力感に打ちのめされていた俺は、足元の冷たさにハッと顔を上げた。
「……貴志、それ、水?」
足元にひたひたと近寄る液体の冷たさに、貴志に魅入っていた俺はハッと我に返った。
「水だよ!でも、熱が、おさまんなぃ、から」
「馬鹿!風邪ひくだろ!」
「でも、……っ、なんで!?」
怒鳴りつけてシャワーを止め、そして手近な棚から引っ張り出した大きなバスタオルで貴志の体を包み込む。
タオルが触れた瞬間、感じ入ったように貴志がふるふると震えたが、敢えて気がつかないふりをした。
「布団に戻るぞ。頓服薬を飲んで、落ち着くんだ。……治るまで、そばに居てやるから」
それから、一時間。
頓服の抑制剤を飲んでも治らない熱に、貴志は悶えた。
苦しげに震えながら欲情の波に耐える貴志を、俺は何をすることもできず、ただ見守った。
理性を失いかける恐怖に手を伸ばす貴志の手を取り、優しく握りしめて声をかける。
「大丈夫、大丈夫だ」
「お前はまだ、ちゃんとお前だよ」
「深呼吸しろよ、吸って、吐いて」
耐え難い熱の昂りに苦しみ悶えながら、高熱の子供のように荒い呼吸をする貴志を見かねて、俺は思わず泣きそうになった。
「……なにか、手伝ってやろうか?」
躊躇った末に口を吐いて出た提案には、握り合う手の甲に爪を立てられて拒まれた。
馬鹿なことを言ってしまった、と、後悔した。
「……ありがと、な」
「いや……余計な真似しちゃって、悪かったな」
やっと落ち着きを見せた貴志にお礼を言われ、俺はなんとも決まりが悪くて顔を背けた。
「ううん、ありがと。引かないでくれて、嬉しかった」
「引くわけないだろ。……発作なんて、しょうがないんだから」
貴志の言葉にやりきれない思いで否定すれば、貴志は柔らかな表情でくすくすと笑う。
「修一ってさ」
「ん?」
抑制剤を内服して少しは落ち着いたものの、貴志はまだ微熱があるような顔をしている。
「ぜんぜん、ヒートに影響されないよな」
「っ、えっと」
感心したような、呆れたような、困ったような声で嘆息する貴志に、俺は一瞬言葉に詰まった。
「まぁ、……俺は、ベータだからな」
先ほど完全に貴志の熱気に当てられ、危うく襲い掛かりそうだったとはとても言えず、俺は平静を装って頷いた。
「ベータでも、さ」
コロリと後ろを向いて、俺に背を向けたまま貴志がポツリと呟く。
「欲望に弱い人間は、簡単に負けるよ。それで、言うんだ。『オメガが悪い』って」
「……悪いわけないじゃん」
「ふふっ、お前、……いいやつだよな」
一抹の諦念と、幾らかの喜びと、大きな信頼の込められた貴志の言葉に、何故か俺は胸を抉られるような思いがした。
「そうでもないけど。でも……ありがとな」
一時の惑乱に任せて貴志を穢してしまわなくて本当に良かったと、俺は安堵して泣きそうだった。
自らのために貴志を傷つけてしまったら、俺はとても自分を許せそうにない。
俺は、貴志の心も体も守りたいと、心から願っているのだから。
***
日中は、貴志の発作もある程度治まるようだった。
けれど、日が沈むと、本能のまま荒れ狂う獣が、貴志の身体に乗り移る。
いや、理性の鎖を引き千切って、体の奥から出てくるのか。
「やだ、こんなの、もう嫌なのに」
子供のようにしゃくりあげながら、貴志は泣く。
ハアハアと辛そうな呼吸が、真っ赤な唇から呻きとともに零れ出す。
思考を溶かしてしまったかのような淀んだ目は、何も見てはいない。
「つらい、くるしい、なんで」
「貴志」
俺が名を呼ぶと、涙を湛えた瞳をがゆらりと揺れ、貴志の中の天秤が現実へと傾く。
自分の体を抱きしめて肌に爪を立てながら、必死に貴志は本能に抗い続ける。
「くるしいよ、しゅういち」
「大丈夫、大丈夫だから」
絶望を映した瞳は見ていられないほど悲愴で、振り絞るような助けを求める声に耳を塞ぎたくなる。
けれど、俺は血が滲むほど唇を噛み締めながら、貴志の側から離れなかった。
「たすけて」
「ここに居るから」
必死に手を伸ばしてくる貴志の手をただ握り、きつく抱きしめることしか出来ない自分が情けなく、惨めだった。
「修一くんが、アルファだったらよかったのに」
貴志の母親に何度も言われた言葉だ。
罪のないその言葉は、きっとむしろ誉め言葉に近い、彼女の信頼の発露だった。
けれど、その言葉を聞くたびに、俺は現実を突き付けられたのだ。
貴志を守ることが出来ないのだと。
俺は、貴志の隣に値しないのだ、と。
きっと俺が一番願っていた。
もし俺が、アルファであったら、と。
そうすれば、悶え苦しむ貴志を、一人で苦しませたりしないのに。
ともに熱に塗れて、貴志を満たしてやれるのに。
そしてそれは欲のための低俗で無為な行為ではなく、命を生み出すことすら、出来たのに。
……いや、そこまでは、望まない。
アルファに付随するような、高い能力や、並み外れた美貌や、人を惹きつけやまないカリスマ性は、要らない。
ベータやオメガにすら蔑まれる、底辺のアルファだとしても構わない。
ただアルファであれば良い。
身の程知らずに貴志の項を噛んだりはしないから。
ただ貴志が一人で夜に襲われて、絶望するばかりの熱の苦しみを、和らげてやりたい。
それだけで良いのだ。