誓いのくちづけ
その日。
三男の由貴の結婚式を週末に控え、久遠家にはどこかせわしなさが漂っていた。
「もうすぐ由貴くんの結婚式ですね」
穏やかに微笑む祐正に、雅哉も満ち足りた笑みを返した。
「あぁ、本当に良かった。颯斗くんが頑張ってくれたおかげだよ」
「ずっと仰ってますねぇ」
「もちろん。感謝してもしきれないよ」
揶揄うような祐正の言葉に、雅哉は迷いなく頷く。
由貴は、五年かけて口説き落とされ、十歳年下のオメガである颯斗と婚約した。
そこから、颯斗が成人するまでの六年に渡る婚約期間を経て、やっと正式に結婚することになったのだ。
捻くれていた息子に真正面からぶつかって求愛してくれた幼いオメガに、雅哉は心から感謝している。
「颯斗くんが途中に諦めていたら、由貴の幸せはなかっただろうからね」
「雅哉様は、息子想いなお父様ですものねぇ」
しみじみと言う雅哉を微笑ましそうに見つめる祐正に、雅哉は「はははっ」と軽やかに笑い声を上げた。
「子を想わない親などいないだろう?子供の幸せを願い、願いはなんだって叶えてやりたいのが愚かな親というモノだ」
「……そうですね」
雅哉の自嘲じみた、しかし楽しげな言葉に、静かに同意した後。
祐正は躊躇いがちに口を開いた。
「……結婚式、前の奥様もいらっしゃるのでしょう?」
唐突に切り出された話題に、雅哉は瞬いて首を傾げる。
(……そういえば、そうだったな。親族席に呼んでいいか聞かれたんだった)
もう離婚して縁を切ってしまった雅哉にとっては赤の他人だが、由貴にとっては実の母親だ。
良いも悪いも、決めるのは雅哉ではないだろう。
そう考え、好きにしなさいと任せてしまったのだが。
「あぁ、そうらしい。由貴にとっては、実の母親だからな。……嫌かい?」
「いえ、まさか。由貴くんに『是非招待した方がいい』と言ったのは僕ですし。……ただ」
祐正は慌てたように否定した後、言いづらそうに口籠った。
「今更、不安になってしまって。……もし、雅哉様が、その方に会った、ら」
「……祐正」
言い淀み、目を潤ませて俯いてしまった妻の様子に、雅哉はその心情を察した。
四十路を過ぎても驚くほど可憐な仕草を見せる妻に、雅哉は皺の目立ちはじめた顔を蕩けさせる。
「おや、もしかして不安になっているのかい?」
「だって……僕の『運命』はもういないけれど、あなたの『運命』はまだ生きて、いるのですもの。そりゃ、不安にならない方がおかしいでしょう?」
つん、とそっぽを向いて、唇を尖らせる祐正に、雅哉はふわりと破顔する。
そして、華奢な背中を優しく抱きしめた。
「ふふ、私の奥様は、お馬鹿さんだねぇ」
しみひとつない美しい首筋に唇を落とし、そっと耳朶を食んだ。
ふるりと震えながらも、意地のように声を発さない祐正の可愛らしさに、雅哉は笑みを深める。
その頑なさを溶かすように、低い声で耳元に囁いた。
「こんなに愛おしいオメガがいるのに、他のオメガを見る余裕はないよ」
「……っ、雅哉さ」
カッと頬を染めた祐正が、振り向こうとした、瞬間。
「愛おしいオメガって、唯華のこと?」
「ぉわっ」
夫婦でいちゃいちゃしていたところへ、唐突にかけられた愛娘の無邪気な、……殊更に無邪気さを装った声に、雅哉は慌てて祐正を手放した。
祐正も真っ赤になって顔を背けている。
思春期に入ろうとする年頃の娘にラブシーンを見られたのは、それなりに恥ずかしいようだ。
「いつから居たんだね、唯華」
多少顔が火照っていることを自覚しながら、雅哉は唯華に尋ねた。
それに対して「父様が唯華のことを呼んだあたりからかな?」と、にこやかに答える。
「なるほどねぇ」
食えない返答をする娘に苦笑しながら、雅哉はまだまだ小さな体をひょいと抱き上げる。
楽しげに「きゃぁっ」と声を上げた娘の顔を見上げながら、雅哉は笑った。
「私の可愛い姫君は、自信過剰だなぁ」
「そうかなぁー?」
「そうだぞー」
参ったなぁ、と言いながら抱き上げていると、唯華は自信満々に唇を前に突き出した。
「だってそうでしょー?父様の愛おしいオメガは唯華でしょー?」
「母様のことだったんだけどなぁー」
「えー、唯華だよー」
遊ぶように言い返す唯華を床におろし、雅哉は背を屈めて視線を合わせる。
少しだけ真面目な声で、雅哉は真摯に告げた。
「もちろん唯華もだけど、……やっぱり父様の中で、一番愛しいオメガは母様だからね」
「っ、な」
「一番、は、譲れないかな」
後ろで素知らぬ振りをしていた祐正が、動揺して固まっているのを察して、雅哉は祐正の不安を軽減できたことに安堵した。
雅哉の考えを察したように、唯華がにこっと笑う。
「ふふっ、良かったね、父様」
「……唯華」
母親の不安を取り除いてやろうと、一芝居うってくれたのだろう。
してやったりと言いたげに、満足げな含み笑いを見せる愛娘に、雅哉は参ったとため息をついた。
「まったく、……本当に、女の子は成長が早い」
「ふふふっ」
楽しげに笑う娘の体は、還暦を過ぎた雅哉が軽々と抱えられるほどに、まだ小さい。
けれど、中身はいつの間にやら一人前のレディになっていたらしい。
嬉しいような寂しいような誇らしいような、複雑な気持ちで雅哉は、娘の額にそっとくちづけた。
「きっと君は、誰よりも素敵な番を見つけるのだろうね」
「もちろんよ。世界一綺麗な花嫁さんになるんだから!」
力強く胸を張る娘に吹き出し、雅哉は目を細める。
幸せを噛み締めながら、祈るように呟いた。
「それはそれは……長生きしなきゃな」
唯華の純白の花嫁姿は、きっととても美しいだろうから。
由貴と颯斗の結婚式は、盛大に行われた。
雅哉が前の妻との結婚式で使用したホテルと同じ場所だ。
雅哉にとっては特に思い入れもない会場だが、何十年も変わらない佇まいには、多少感動を覚えた。
披露宴会場で、それぞれ三つある親族席のうち、最も人目につかない端の席。
由貴の母方でも、遠い親族達が座っているテーブルに、ひっそりと前妻、貴志の姿があった。
周囲の視線を憚るように目立たない装いだが、別れた頃よりも溌剌とした表情が、彼を十分に美しく見せていた。
(懐かしいな)
自分とどこか面影の似た男と並んで、高砂を静かに見つめている前妻を、雅哉は穏やかな気持ちで眺めた。
若き日の激情が、気恥ずかしく思い出される。
運命の番への盲目的な執着と、彼の心を捕らえて離さなかったベータの男への憎悪。
自分と生き別れの双子のように似た顔をしていた男の見た目は、当時とあまり変わっていなかった。
二十歳の時のまま、そのまま年齢だけを重ねたようで、年の割りに随分と若々しい。
夢を追う少年のような、研究者にはよくいる、年齢不詳な顔だ。
(あの頃は、似ていると思ったけれど、今はそうでもないな)
違う人生を歩いてきたのだから、顔が変わってくるのは当然なのだが、雅哉は大きな満足を感じた。
もう似ているという者はいないだろう。
自分は、貴志の愛する男の『身代わり』から、解き放たれたのだと、芯から理解した。
「……ぁ」
ふと、雅哉の視線を感じた貴志が振り返る。
雅哉の穏やかな視線に、少し驚いたように目を見張り、隣に座る祐正をちらりと見て、そして。
(笑っ、た)
幸せそうに、笑った。
それは、二十年に渡る結婚生活で向けられたことのない表情。
貴志から雅哉へ向けられた、初めての笑みだった。
『おしあわせに』
貴志の小さな口がかすかに動く。
たった六文字を正確に読み取り、雅哉は笑みを深めた。
『きみも』
直接言葉を交わすことはなかった。
過去の謝罪も弁明も、何一つなかった。
互いに、言いたいことは山ほどあったはずだけれど、全て綺麗に昇華されたようだった。
「祐正」
雅哉は満ち足りた気持ちで、隣に座る愛妻の手を、そっと握る。
テーブルの下で、躊躇いがちに握り返された手に幸福を噛み締め、呟いた。
「幸せだね」
結婚式からの帰りの車の中。
雅哉は始終冷静で、穏やかに過ごせた己に安堵していた。
本当は、貴志に会った途端に、本能が騒ぎ出すのではないかと、心の底では不安を感じていたのだ。
けれど、感じたのは、懐かしさや、若い頃の己への気恥ずかしさだけ。
祐正に感じるものとはまるきり違った。
「やっぱり私の運命は、君だったのかもしれないな」
ぽつりと呟かれた言葉に、祐正が首を傾げる。
「え?」
困惑のままに眉を落とし、祐正は怪訝そうな声をこぼした。
発言の意図を問う視線を感じながら、雅哉は暫し思索に耽る。
車窓の外を眺めれば、数え切れない人達が行き交っている。
その一人一人が、それぞれの人生を生きているのだ。
当然のようなその事実に、わずかの感動を覚えながら、雅哉は自分の人生を振り返った。
アルファとして生まれ、後継者として育った。
運命の番を見つけ、拒まれ、手に入れた。
突然に父を亡くし、必死でグループを守り、育てた。
負けるはずのない賭けでベータに負けて、番に捨てられた。
そして、祐正と出会い、救われて、愛し、娘を授かり、……幸せそのもののような『今』がある。
雅哉は、小さく首を振った。
「……いや、違うか」
横から見つめる視線を受け止めるように隣に向き直る。
透き通る鳶色の瞳を、蕩けるような眼差しで見つめ返して、雅哉はふわりと微笑んだ。
「私は、貴志という『運命の番』を失ったからこそ君に出会えた。貴志と出会い、傷つけあい、別れた。その、祐正と出会うまでの全てが、私の運命だったのだろう」
「雅哉様……」
自分の人生を丸ごと肯定し、今の幸せを抱きしめるような雅哉の言葉。
祐正は驚いたように瞬いて、そしてふっと、幸せそうに笑った。
「僕も、似たようなことを思っていました。悠一郎様と死に別れた時はとても苦しくて、共に連れて行って欲しかったと泣いていましたし、いっそ運命の番になど出会いたくなかったと恨んだけれど、……今の幸せを思うと、あの出会いも別れも全て、僕の運命だったのだろう、と。だって、そうでなければ、僕はきっと適当な家へ嫁がされていたでしょうから」
あっけらかんと言って「旭は政略結婚が得意なお家ですからね」と笑う祐正に、雅哉は苦笑を返す。
「確かに、東條様が『運命』でなければ、そうだったかもしれないなぁ。そう考えると、私にとっても幸いだった。君に会えずに居たら、私は今もまだ、貴志を憎み、運命を呪って絶望の深淵を彷徨っていただろうからね」
芝居掛かった仕草で胸を押さえて悲しみをアピールする雅哉に、祐正はころころと笑う。
「おや、では今は?」
「そりゃあ、もちろん」
細い体を引き寄せて、雅哉はありったけの愛情を込めて、耳元で囁いた。
「世界で一番、幸せだよ」
世界一幸運で幸せな夫婦は、運転手の目を盗んで、永遠の愛を誓うキスを交わした。