目隠しの夜
何度目かのヒートを越えた頃。
雅哉は危機感を覚えていた。
徐々に心身の健康を取り戻し始めた祐正の発するフェロモンが、耐えられないほど強くなってきたのだ。
(これは、どうにかしないと……)
ヒートを終えたばかりの祐正が、腕の中で健やかな寝息を立てているのを見つめながら、雅哉はため息をついた。
優しい花のような匂いが祐正の体を取り巻いている。
(あぁっ、くそ)
鼻腔をくすぐる甘いフェロモンに、意思とは無関係に体の血液が熱くなる。うっすらとした危機感を抱いて、雅哉は少しだけ祐正から身を離した。
寄り添い合って眠るには強すぎる芳香に、体はつい年甲斐もなく反応してしまう。
素直すぎる己の体に、雅哉は眉間に深い皺を刻んだ。
(イイ歳をして、情けない……)
うんざりと天井を睨みつけながら、堪え性のない自身を「情けない」と叱咤するしかなかった。
規則的に聞こえてくる愛らしい寝息を数えながら、まんじりともせず夜を明かし、翌朝。
雅哉は思い切って、寝室を分けることを提案した。
「祐正くん。寝室を分けないかい?」
「え!?」
寝室横の洗面所で顔を洗い終わったばかりの祐正は、驚いて振り向いた。
濡れた前髪が、数本額にくっついている。
「急にどうされたんです?僕の寝相、そんなに激しかったですか?くっついてしまうのが、鬱陶しかったのですか?」
不安げに睫毛を震わせている祐正の愛らしさに、雅哉は思わず前言撤回しかけた。
「い、や、そういうわけでは、ないんだが」
「じゃあ、どうして急に?何か、ご不快になったのでしょう?」
潤む瞳に、決意が揺らぐ。
しかし、ここを切り抜けないと、祐正の身の安全に関わる。
雅哉はぐっと奥歯を噛み締め、苦悩の末、恥を捨てることを決めた。
「……このままだと、我慢、できなくなるかもしれない」
顔が赤らんでいることを自覚しながらぽつりと呟けば、祐正は理解出来なかったようで、きょとんと首を傾げた。
察しの悪い祐正に、雅哉は破れかぶれで言い放った。
「だからっ、……君のことを襲ってしまいそうだと言っているんだっ」
雅哉のあけすけな言葉に、祐正は一拍おいてから「ええっ」と叫んだ。
「……雅哉様。僕のこと、オメガとして見れたんですか?」
驚愕の表情でまじまじと雅哉のこと見つめてくる祐正に、雅哉は赤くなった顔を腕で覆って隠した。
子供のような年齢のオメガを相手に欲情していると告白するなんて、恥ずかしすぎて居た堪れない。
しかも、それを確認された。
「だから、そうだと言っているだろうっ」
顔を背けながら吐き捨てるように言って、雅哉は唇を噛みしめた。
情けなさすぎて、消えて無くなりたい気分だ。
(あぁもうっ、なんで五十歳近くなって、こんな中学生みたいな辱めを受けなくてはならないんだ!?)
祐正の方に顔を向けられない。
自分に向けられる視線を感じながらも、雅哉は頑として窓の外を見続けた。
「べつに……構いませんよ?」
「え?」
ぽつりと落とされた呟きに、聞き間違えたのかと雅哉が振り向けば、林檎のように頬を赤くした祐正が俯いていた。
「初夜の時、雅哉様、仰ったでしょう?……僕が望むまで、手を出さないって。だから」
途切れ途切れの声は、恥ずかしさを堪えているのか、微かに震えている。
その、あまりに扇情的な可愛らしさに、雅哉の心臓はドクドクと大きく高鳴った。
「望んで、くれるのかい?」
カラカラに渇いた喉から問いを絞り出せは、声は色欲に濡れていた。
雅哉の欲情を孕んだ声に、祐正はふるりと震えて、暫く躊躇った後で、小さく頷いた。
「……東條様に触れられた体を、私の肌が上書きしてしまってもよいのかい?」
確認するように、一歩踏み込んで問いかければ、祐正は息を飲んだ。
黙り込んでしまった祐正に、雅哉は苦い笑みを零した。
「……まったく、無理をするんじゃないよ」
これで話を終わりにしようと、空気を切り替えるように、雅哉は明るく言った。
しかし。
「ま、さや、さまがっ、お嫌でなければ、構いませんっ」
祐正は、両手で襟元を握り込んで、真っ赤な顔で声を絞り出していた。
「いやでは、ありません」
幼子のように、たどたどしい言葉の肯定。
その健気な姿に、雅哉の理性は耐えられなかった。
「あぁ、っもう」
ガバッと力一杯抱き締めて、「どれだけ可愛いんだろうね、君は」と雅哉は八つ当たりのように呻いた。
自分に触れて欲しいと、恥じらいながらも必死に伝えようとする様子は、あまりにもいとけなく、そして、蠱惑的だった。
「帰ったら、覚えていなさいよ」
真っ赤に熟れた両頬にくちづけを落とし、雅哉は苛立ち混じりに吐き捨てた。
「あぁ、もう。なんで今日に限って……っ」
車窓に叩きつける雨粒を眺めながら、雅哉は苦々しく吐き捨てた。
早々に帰ってくる予定だったのに、突発的なトラブルが起きて、それどころではなくなった。
舌打ちをしながら対応に明け暮れ、職場を出るのが深夜になった雅哉は、正直がっくりと気落ちしていた。
ザァザァとうるさく降る雨の音が、余計に気分を滅入らせる。
「旦那様、到着致しました」
「あぁ、ありがとう。遅くなってすまなかった」
「いえ、旦那様こそ、大層お疲れのようですので、よくお休みになった下さいまし」
運転手の柔らかな労いに笑みを返し、雅哉は玄関に入る。
寝静まった屋敷の中から、主人の帰宅を待っていたらしい使用人が現れ、雅哉の荷物を受け取る。
「……さすがに、もう寝ているか」
普段なら玄関まで出迎えてくれる祐正の姿がないことに、雅哉は落胆を隠せない。
だが、もう午前零時を回っている。
仕方のないことだと割り切り、祐正を起こさないように静かに寝室の扉を開けた、のだが。
「お帰りなさいませ」
「っ、祐正」
微笑みを浮かべて出迎えてくれた祐正に、雅哉の顔へ笑みが広がる。
帰宅が遅くなる旨を伝えた上で、玄関に現れなかったということは、もう寝たのだと思っていたのに。
「……起きていたのか」
「だって……」
嬉しそうに破顔した雅哉に、祐正は膨れて、愛らしく唇を尖らせた。
恨めしそうに雅哉を見上げる祐正の頬は、じんわりと赤らんでいる。
祐正の言いたいことを理解して、雅哉はくすりと笑った。
「……待っていてくれたの?」
低い声で囁けば、体を一瞬強張らせ、そしてかすかに頷く。
そっと頬に手を当てれば、普段よりもしっとりとしている。
入念に手入れしたのだろうと察して、雅哉は笑みを深めた。
「ありがとう」
「っ、わ」
ひょい、とその場で祐正を抱き上げて移動して、寝室のベッドに下ろす。
「シャワーを浴びるのは、後でもいいかい?」
頷くのを待たず、雅哉は小さな体をシーツの中に押し倒した。
「……緊張しているの?」
「は、い、すこし」
祐正にとっては、初めての経験だ。
恐れもあるだろう。
あたう限り優しくしようと思いながら、雅哉はそっと祐正の額にくちづけた。
形の良い額、ふっくらとした頬、すらりと長い首。
順番に辿り、祐正の火照った体を守る、薄い布に手をかける。
そっと夜着を脱がせれば、下にあるのは、滑らかな肌だ。
薄い体をなぞり、下着を脱がそうと手を滑らせれば、祐正は思わずと言ったようにわずかな抵抗を見せ、体を強張らせた。
「怖い?」
優しく頭を撫でれば、祐正は小さく頷く。
潤んだ瞳には、僅かばかりの怯えを滲ませていた。
「少し、急ぎすぎたかい?イイ歳をして、がっついてしまったかな。いやだった?」
祐正の恐れを払拭しようと、敢えておどけて尋ねれば、祐正は困惑と混乱を載せた顔で首を傾げた。
「わ、かりません、私は、悠一郎様の手しか、知りませんので」
「っ、そ、うか」
他意のない、純粋な返答が、雅哉の胸を突き刺した。
この白い肌は、九十を過ぎた老人が己の情欲などとは無関係に、ゆっくり、やさしく、この上ない愛情をもって愛で、慈しんだものなのだろう。
その美しい記憶が刻まれた肌なのだ。
祐正は、雅哉が欲望のままに散らして良い花ではない。
鈍く重い痛みを抱きながら、雅哉はそっと祐正から顔を離した。
歪んでいる表情を見られたくなくて。
「ねぇ、祐正くん」
震える肩から己の手をそっと遠ざけて、雅哉は優しく話しかけた。
「目隠しをしようか」
窓の外では、雨が強く地面を打っている。
黒い雲に隠れて、月は見えなかった。