愛のはじまりの自覚
結婚して半年後。
祐正に、ヒートが訪れた。
朝から火照った顔でぐったりとしていた祐正は、朝食もそこそこにベッドへ戻った。
出社前に様子を見に来た雅哉の心配そうな顔にむかって、安心させるように笑いかける。
「薬を飲んで寝ていますから、ご心配なく。お仕事に行って下さいませ」
「しかし……」
本来、番のオメガがヒートの時は、アルファも仕事を休んで付き添うものだ。
雅哉は前の妻のヒートの時も一週間休んでいた。
あの時は、妻の肌に触れる機会を逃すわけにはいかなかったから、だが。
「だいぶ辛そうだが、大丈夫ですか」
八の字に眉を落として、雅哉はベッドの横に屈み込んだ。
はぁはぁと荒い息をしながら、苦しげに胸を押さえている祐正が、純粋に心配だった。
匂い立つフェロモンに一瞬膨れ上がりそうだった欲情も、ぐったりとした姿を見ればすぐに消えていく。
普段に比べれば強く香る祐正のフェロモンは、しかしヒートのオメガとしては弱々しいものだ。
本来ならば、暴力的なほどにアルファを刺激するはずなのだから。
「本当に、ただのヒートなのですか?」
ヒートと言うよりも、まるでタチの悪い熱病にでもかかったような有様に、雅哉は不安に駆られた。
看病のために休もうかと思案しながら、そっと雅哉は祐正の顔を覗き込む。
優しく頬に手を当てれば、やはり熱い。
(これは、医者を呼ぶべきか……?)
「ふふっ、……仕方ありません。久しぶりですから」
眉を寄せる雅哉に、祐正は苦笑を見せて目を閉じる。
体力を少しでも温存しようとするように、深呼吸を心がけながら、祐正はゆっくりと話し出した。
「悠一郎様が亡くなってから、心理的なストレスのせいか、ホルモンバランスが乱れていたみたいで、ヒートが来なかったんです。だから、体が久しぶりの感覚に戸惑っているみたいで」
「えっ」
ヒートが来ない、というのは、オメガにとって異常事態だ。
しかも、祐正の言葉を信じると、二年近くヒートがなかったことになる。
「医者にはかかったのかい?」
普段よりさらに小さく見える祐正に、不安が募る。
まるで子供に対するような口調になりながら、優しく問いかければ、祐正は力なく頷いた。
「はい。けれど、どこも悪くないと。だから、そのうち戻るだろうと言われていました。……黙っていて、すみません」
男のオメガにとって、ヒートの有無は妊孕性に関わる。
祐正の謝罪は『子供を産むことが出来ないかもしれない』と伝えずに、雅哉と結婚したことを指しているのだろう。
雅哉の視線を避けるように、祐正が両手で顔を覆う。
「でも……よかった……」
指の隙間から落とされたのは、消え入りそうな声の安堵だ。
きっとどこかに、雅哉への負い目があったのだろう。
もしかしたら、旭家から、雅哉へ言わないようにと口止めされていたのかもしれない。
男性体オメガのヒートは乱れがちだから、言わなければ当分バレはしない、と。
「……ばかだなぁ」
祐正の表情を隠す手を、一つずつそっと外す。
現れたのは、不安げな子供のような頼りない顔だ。
「そんなこと、気にしていたのか」
よしよしと頭を撫でてやれば、子供扱いを嫌がるでもなく、祐正は雅哉の手に頭をすり寄せてくる。
全幅の信頼を示すような仕草に庇護欲を掻き立てられる。
性欲とは違った、しかし十分に激しい情動に雅哉は我ながら呆れた。
「今日は休むよ。出勤したところで、心配で仕事にならない」
「えっ、でも」
慌てて身を起こそうとする祐正に、雅哉は笑って首を振った。
「妻がヒートだと言えば問題ないさ。うちの社員は優秀だからね。私が数日休んだくらい、問題ない」
まるで子供を相手にするような口調になっていることを自覚しながら、雅哉は庇護者の顔で微笑んだ。
「付いているから、眠りなさい」
薬の影響か、祐正はほとんどの時間を寝て過ごした。
熱に浮かされて苦しげに唸り、荒い呼吸を繰り返す。
「まさ、やさま……?」
時折目を覚ませば、親鳥を探す雛のように、雅哉の姿を求めた。
「あぁ、いるよ」
小さな呼び声を拾うと、雅哉はすぐに祐正のそばに行き、顔を見せてやる。
ほっと安堵の息を吐く祐正の頭を撫で、額に張り付いた髪を外してやる。
「側にいるから、安心なさい」
ベッドのそばに引き寄せた机に向かい、仕事をこなしながら、雅哉は三日三晩付き添った。
四日後。
ヒートのピークを過ぎ、祐正は普段通りの会話が交わせるようにまで回復した。
「付き添って頂いて、ありがとうございました」
「いや、したくてしたことだから、気にする必要はないよ」
以前より近くなった距離感をこそばゆく思いながら、気恥ずかしそうに俯く祐正を雅哉は温かく見つめた。
夢うつつの中で寄せられる信頼は心地よく、十分に雅哉の庇護欲を満たした。
「祐正くんのヒートは、随分と辛そうだね。これまではどうやって乗り切っていたんだい」
温かい紅茶を差し出しながら、からかうように尋ねれば、祐正は頬を染めて恨めしげに雅哉を見る。
「そんなこと、お聞きになるんですか?……普通に、薬を飲んで寝込んでいました。それだけです」
紅茶を受け取らず、ぷい、と反対側を向いてしまった祐正に、雅哉は苦笑する。
確かに、本来ならば、婚前の性生活のことなど、聞くべきではないだろう。
けれど。
「東條様とは清い夫婦だったと聞く。……一体、どうしていたんだい?」
ヒートの乗り切り方が分かれば、少しは祐正の苦しさが楽になるのではと、考え雅哉は問いを重ねた。
雅哉の言葉に、下心や悪意がないと理解したのか、祐正も、少し不服げながら、口を開いた。
「ええ。そうです。だから、お察しの通り、『夫婦生活』はありませんでした。……けれど」
そこで言葉を切り、祐正はかつての日々を思い返すように遠い目で、柔らかに言葉を紡いだ。
彼にとっての幸福そのもののような日々を。
「ヒートの時、悠一郎様は老いた手で、いつまでも優しく肌を撫でて下さいました。そして、何度も何度も繰り返し『愛している』と。……あの方の低い声で愛を囁かれる日々は、夢のように幸せでございました」
幸せな過去を追憶する眼差しのまま、祐正はそっと目を伏せる。
まるで、目の前の雅哉から目をそらすように。
そして、薄れて欲しくない記憶を確かめるように。
「そうか……愛されていたんだね」
「は、い」
「素敵な話だ。良ければ、君の愛の話をもっと聞かせて」
優しく相槌を打ち、続きを促せば、祐正は波立つ感情を抑えるような暫くの沈黙の後、再び口を開いた。
「私は悠一郎様と番うことが出来ませんでした。あの方は老いていて、番うにはあまりに弱っていらしたから。……けれど、くちづけ、はしました。」
それはきっと、誰にも告げたことのない、祐正の宝物のような記憶なのだろう。
「最後の口づけは僕にして欲しいと仰って……。亡くなる直前、あの方の乾いた唇にそっと触れました。まだ意識のあった悠一郎様は、カラカラに乾いた頬に、小さな小さな涙を一粒流されて、……ありがとう、と、かすれた声で仰って……」
涙を浮かべ、震える声で語る祐正の儚さに、雅哉は話を促したことを後悔した。
抱きしめて、もう話さなくていいと止めようか迷う。
けれどきっと誰かに話したいのだろうと、遮ることはせず、祐正が落ち着くのを待った。
「……ふふ、失礼いたしました」
恥ずかしげに、動揺した自分を誤魔化すように微笑んで、祐正はまっすぐに雅哉を見返した。
「悠一郎様と過ごした日々は、私の人生でもっとも美しく幸せな、かけがえのない時間でした。あの一年で、私は悠一郎様に、一生分の愛を頂きました。ですから……あなたに愛されなくとも、私は平気です」
「なっ」
思いがけない言葉に、雅哉は驚き椅子から腰を浮かせた。
「あぁ、勘違いしないで下さいませ。雅哉様が私を大切に愛おしんで下さっていることは十分分かっております。けれど、……あなたが番として愛し、欲しているのは、前の奥様でございましょう?」
「ゆう、せいくん……」
呆然と目の前の妻の名前を呼びながら、雅哉は祐正の穏やかな顔を見つめた。
全てを見通すような澄んだ瞳に宿るのは、親愛と慈愛だ。
「私は腐っても旭本家の子です。奥向きの仕事も、社交も、人並みにはこなせましょう。軟弱なこの身ではありますが、あなたの妻としてお役に立てるはずです」
祐正はそう言って、芝居がかった仕草で得意げに胸を張る。
そして、小さく笑ってから、「雅哉様」と柔らかく名を呼んだ。
「あなたは、あなたの愛する人を、心のままに想い続けていらっしゃればよろしいのですよ」
突き放したような祐正の言葉は、けれど今の雅哉の全てを肯定する言葉だ。
「は、はは……参った」
じわりと潤んでくる視界に、雅哉は咄嗟に目を伏せた。
往生際の悪い自分を、ずっと雅哉は疎み、憎んでいた。
自分を捨てたオメガを求めるのも、恋しがるのも、……愛するのも。
あまりにも愚かで、馬鹿馬鹿しく、間違っているとしか思えなかった。
祐正へ向ける情愛は番のオメガへ向ける愛情とは違ったけれど、前妻を愛することに比べたら、正しいように思われた。
けれど。
「そうか。……これでいいのか」
「愛に、良いも悪いもございませんでしょう?……少なくとも、妻の僕が良いと言うのですから、良いのですよ」
祐正の笑みは雅哉の心に突き刺さり、まるで溜まっていた膿を出したかのようだった。
あれほど雅哉を苦しめていた痛みが、少しずつ消えていく。
「あぁ、……まったく、敵わない」
「え?っわ」
泣き笑いのような顔で、雅哉は祐正を力の限り抱きしめる。
驚いて抜け出そうとする華奢な腕の抵抗を軽々と封じ込み、雅哉は笑った。
「本当に、君と結婚できて良かった」