哀れな二人
食事が終わり、あとは食後のデザートを待つばかりとなった頃。
「いやぁ、酔った、酔った」
「本当に雅哉様はお話がお上手で、ついついはしゃぎすぎてしまいましたわ」
赤ら顔で機嫌よく笑う旭親子に、雅哉はくしゃりと顔に皺を寄せて苦笑した。
「いや、私こそ楽しゅうございましたよ。でも旭会長は、確かに少々飲み過ぎかもしれませんね」
少々手元が覚束なくなっている六十過ぎの男を揶揄うと、楽しげな大笑いが返ってきた。
「はっはっはっ、確かになぁ。ちょっと、デザートには辿り着けそうにないから、私は先に帰らせて頂きましょう」
「あら、ひとりでは危のうございますわ。私も付き添います。雅哉様は最後のデザートまで楽しんで下さいませ。こちらは甘味も絶品ですの。後は祐正がお相手致しますので」
「えっ」
よっこらしょ、と呟きながら立ち上がる父親の腕を支えて、旭家の切れ者と名高い長女は、にこやかに告げる。
二人きりで置いていかれそうになり、雅哉は慌てて立ち上がった。
「け、けれど、祐正くんはどうなさるんですか」
「心配ありませんわ。また迎えを寄越します。……まぁ、この横にお部屋も取ってありますので」
「なっ!?」
しっかり者で優しい姉の顔に、突如として悪事をそそのかす魔女の笑みを閃かせる瞬間を目撃し、雅哉は凍りついた。
「二人で泊まって頂いても構いませんのよ?」
雅哉だけに聞こえる声で、麗しいソプラノが悪魔の囁きを告げる。
頬をひくつかせながら雅哉は必死に口を開いた。
「旭様、ご冗談を……」
「むろん、真面目なお話でございますよ?雅哉様がお相手であれば、既成事実を作ってくださっても、旭の家としては諸手を挙げて歓迎いたしますわ」
にやりと笑う年下の美女に、それが姉の言うことか、と雅哉は呆然とする。
すっかり酔ったような顔をして聞こえていない振りをしている父親も同罪だ。
弟の貞操を、あっさり雅哉に渡そうとする旭親子が信じられなかった。
雅哉達の攻防に興味もないのか、慎ましくお茶を口へ運んでいる祐正へ、雅哉はちらりと視線を送る。
(旭家では、オメガはこのような扱いなのか……それとも、祐正くんだけが、こう扱われているのか)
静かな横顔が、堪らないほど哀れに思われた。
「……父と姉が、申し訳ありません」
二人きりに置いていかれた個室で、雅哉が立ったまま固まっていると、祐正が初めて自分から口を開いた。
端正に整った顔に柔らかな苦笑を浮かべて、困ったように首を傾ける。
「あの二人は、僕のことを大層心配しているのです。そして、雅哉様を、素晴らしい経営者でありながら、珍しく人格も優れた方だと言って買っているので、ぜひ僕を押し付けようと企んでいるのです」
かすかな毒を混ぜた言葉を桜色の唇から落とし、祐正はくすくすと小さく笑う。
そして落ち着いた様子で、すぅ、と目を細めて雅哉を見た。
「とりあえず、お座り下さいませ。デザートを食べたら、帰りましょう。姉になんと言われたのか、だいたい見当はついておりますが……私は色仕掛けなど致しませんから、ご安心なさいませ」
「っ、いや、そんな、警戒しているわけでは!」
慌てて否定しながら、雅哉は改めて祐正の前に腰を下ろす。
先程までの人形じみた顔よりも、よほど人間らしい顔をしていた。
「……祐正くんは、二十六歳でした、か?」
先日の旭会長との会話の記憶を手繰り寄せて尋ねれば、祐正はパチリと瞬いてから、意外そうに頷いた。
「ええ、そうです。よくご存知でしたね。雅哉様、僕の釣書などまだご覧になっていらっしゃらないでしょう?今日も、どうやら騙し討ちのようにされて、いらっしゃったみたいですし」
「い、いやぁ、申し訳ないことです」
気まずい気分で頬をかいて誤魔化しながらも、雅哉はかなり戸惑っていた。
(全て察していながら黙っていたのか……)
おそらく、父親や姉の好意を無にする気にはなれず、かと言って望んで来たわけでもない雅哉相手に素知らぬ振りで話しかける気にもなれず、口を閉ざしていたのだろう。
想像以上に全て見抜かれていたことを悟り、雅哉は祐正の観察眼の鋭さに舌を巻く。
絵を描くと言っていたが、状況を俯瞰して本質を見通す祐正の力は、芸術家としての眼なのだろうか。
(いや、どちらかというと、経営者側の素質に思われるが、……まぁ、旭家の本家の子だからなぁ)
古くは宮中の薬師としてその名を知られたという由緒ある旭グループの子だ。
久遠家と同様に、幼い頃から鍛えられているのだろう。
人を見る目に長けていても不思議ではなかった。
「二十歳も下の青年に気を遣わせてしまって、お恥ずかしい限りですよ」
苦笑しながら、雅哉は大きく息を吐いた。
長男とさほど年齢の変わらない祐正を、つい子供扱いしていた自分に気がつく。
けれど祐正の年齢は、雅哉が長男を授かった時と同じだった。
(もうそんなに経ったのか。……歳をとるはずだ)
心の中で自嘲して、雅哉は顔を上げた。
「ねぇ、祐正くん。君は美しく聡明です。こんな中年男との結婚など、断った方がよろしいですよ」
落ち着いた大人の顔で、穏やかに言い聞かせるように話す。
その方が祐正にとって幸せだろう、と。
けれど。
「そうでしょうか」
硝子玉のような透き通る瞳をまっすぐに雅哉へと向けて、祐正は儚く微笑んだ。
「父と姉は、僕のことはなるべくしっかりした方に任せたいようですし、……それに、いくら『清い体』だと言ったところで、出戻りのオメガには変わりありませんからね。若く優れた方の元に嫁ぐのは難しいでしょう」
雅哉よりも条件の良い相手などいないだろう、と言って祐正は冷めた目で首を振る。
自分の『価値』を正確に値踏みする青年の客観性をいっそ哀れに思いながら、雅哉は躊躇いがちに口を開く。
祐正の幸せを考えればやはり、こんな焦るように雅哉と結婚することが良いとは思えなかった。
祐正はまだ若いのだ。
これからまた、いくらでも出会いがあるだろう。
「けれど、……君は、若い。これから恋をするかもしれませんよ?」
「恋!?」
雅哉の言葉は、百パーセント善意から出たものだった。
しかし、聞くや否や、祐正はさもおかしなことを聞いたかのように、鸚鵡返しに聞き返した。
「恋、恋か……ふふふ、あははははっ」
「ゆ、うせいくん?」
狂ったように哄笑する祐正に、雅哉は困惑した。
しかし、目の奥に底知れぬ闇を宿した祐正が口を開いた途端、雅哉は彼の絶望を理解した。
「よりにもよって、恋、ですか。……『運命の番』を喪った僕が、誰に恋をすると?」
「あ……」
祐正の言葉に、失言を悟って、雅哉は唇を噛む。
目の前の瞳は光を失って、全てを拒んでいた。
最愛の者と過ごした日々に、新しい世界が侵入してくることを、彼が嫌っているからだろう。
「あの方より……悠一郎様より、この魂を震わせる方と出逢えるとは思えません。だからこそ、『運命の番』なのですよ」
出逢ったことがない人間には分からないだろう、と言いたげな、取りつく島のない祐正の様子に、雅哉の心がザワリと騒めく。
波立つ感情を抑えきれず、雅哉は苦しげに同意を吐き出した。
「……分かり、ますよ。……私の離縁した妻も、『運命の番』でしたから」
「え……っ!?」
祐正は息を呑み、目を見開いた。
あまりの驚愕にか、言葉を失った祐正は、パクパクと口を開閉させながら目で問うている。
そんなことがあり得るのか、と。
運命の番を得た人間だからこそ、分かるのだろう。
生きながらにして、運命の番と離れる苦痛が。
魂を引き千切られるような痛み。
今生では二度と出会えない存在への激しい恋慕。
来世まで続く別離を理解した瞬間の絶望感。
「どうか、詳しくは聞かないで下さい」
目を逸らし、奥歯を噛み締めて、雅哉は耐えた。
蘇る苦痛、叫び出したいような焦燥。
それらは今もなお呪いのように、雅哉を蝕んでいる。
静かに深呼吸を繰り返し、己の感情を抑え込もうとしている雅哉を複雑そうな顔で見つめて、祐正は小さく息を吐いた。
「そうだったのですか……いえ、深くは尋ねませんが。それは、さぞや、……さぞや」
言葉に詰まって俯く祐正は、きっと雅哉の感情に同調しているのだろう。
苦しげに眉をひそめ、瞳を潤ませながら心臓を押さえている。
(感受性の強い子なのだな……芸術家だからなぁ……)
少しだけ、痛みが取れたような気がして、雅哉は顔を上げた。
同じように苦しんでくれる人間がいると、苦痛は半減するという。
その言葉を実感しながら、雅哉は疲れた顔で笑ってみせた。
「そういうわけですので、……尚更に私はやめておいた方がよろしいかと思」
「そうでしょうか?」
これで納得してもらえるだろう、と思って話していた雅哉の言葉を、祐正はさらりと遮った。
「あなたの苦しみを、私はよく分かります。そして、私の苦しみを、きっとあなたはよく理解して下さるでしょう。……私を早く落ち着かせたがっているだけの身内よりも、よほど」
悲しみと諦めを含んだ声で囁いて、祐正は静謐な決意に満ちた顔を上げた。
言葉をなくす雅哉を見つめて、祐正は穏やかに口を開く。
「番をうしなった者同士、私たちはお似合いかもしれませんよ」
静かな諦めと受容を湛えて微笑む祐正に、雅哉はゆっくりと瞬きをしながら考え、小さく頷いた。
「な、るほど。……喪ったあなたと、失った私ですか。……そうかもしれませんね」
「傷を舐め合いながら、穏やかに静かな日常を送れるのならば、悪くないかもしれません。……いかがでしょうか、雅哉様」
おどけた仕草で首を傾げてみせる祐正に、雅哉はふっと吹き出した。
そして、久しぶりに意図せず笑った自分に驚いた。
「確かに。良いのかもしれません。……こんな中年男ですが、よろしくお願いします」
「こちらこそ、出戻りのオメガですが、何卒よろしくお願い申し上げます」
姿勢を正して頭を下げ合い、そして互いに目を見合わせて破顔する。
「まさか、話がまとまるとは思いませんでしたよ」
「おや、契約は勢いだ、と父がよく申しておりますよ」
悪戯げな表情に、雅哉は再び吹き出した。
「ははっ、違いない」