唐突な顔合わせ
パーティーで旭に捕まってから数日。
特にアクションを起こす様子のない旭に安堵しながら、雅哉は日々を淡々と過ごしていた。
しかし。
「……今日の会食は、旭のお嬢さんか」
「現社長ですよ、雅哉様。お嬢さんというのは不正確かと」
スケジュールを見て唸る雅哉の言葉を、手前の机で書類を片付けていた女性が訂正する。
縁のない眼鏡をかけた彼女は、雅哉が会社を継いでからずっと勤めている秘書の榊だ。
ベータながら非常に優秀で、雅哉の右腕として働いている。
「あぁー、行きたくないなぁ!」
行儀悪く頭をガシガシと搔きむしり、机に突っ伏した雅哉に、榊は冷たい視線を浴びせた。
「子供みたいに駄々をこねないでください。それに、お会いしにいくのは社長ですよ。この間、雅哉様が絡まれたという会長じゃありません」
ポイ、と鏡と櫛を渡されて、雅哉はため息混じりに顔を上げた。
無言で鏡を見ながら髪を整え直す雅哉に、榊は持ち帰りの資料を揃えながら淡々と話す。
「旭様も、仕事の席で急に婚姻届を書けとは仰らないでしょうから、あまり肩肘張らずに行ってらっしゃいませ」
「なんだ。榊は来ないのか」
「行きませんよ。育ち盛りの子供がお腹を空かせて待っておりますから」
柳眉を逆立てて、ツンと顔を背けてみせる片腕に、雅哉は情けなくため息を吐く。
「はぁあ……。まぁ、仕方ない。気が重いが行ってくるよ。……万が一婚姻届を見せられたら逃げてくるぞ」
「顔合わせもまだなのに、そんなことあるわけないでしょうが。まぁ、判子は持たずにお行きなさいませ」
「冷たい……他人事だと思って……」
ゴネる面倒な上司を軽くあしらえば、恨めしそうな目で雅哉は榊を睨む。
「……まったくもう!」
榊は小さく息を吐くと、くるりと雅哉に顔を向けて懇々と言い聞かせるように言葉を重ねた。
「そもそも、再婚の何がそんなにお嫌なのですか?良い話ではないですか、二十歳も下のオメガを紹介してもらえるなんて!諸手を挙げて喜んで、さっさと婚姻届にサインでもなんでもしてくればいいではありませんか!」
「馬鹿言うな!離婚してまだ一ヶ月だぞ?子供達になんて言うんだ!それに……」
憤慨したように言い募った後、雅哉は一瞬押し黙って、ふと窓の外を見た。
見えない人を探すように、太陽の沈んだ空の向こうを眺める。
遠い空の下で、自分ではない男と暮らしている『彼』を、……一ヶ月前まではすぐ触れられた自分の『運命の番』を想って、雅哉は唇を噛んだ。
「……元々愛人がいたと、誤解されるかもしれないじゃないか」
「…………はぁ」
誰に、とも言わず落とされた、やるせない呟きに、榊は思わず深いため息をついた。
「女々しいお方ですね、本当に。大丈夫ですよ。前の奥様は、誤解などしませんよ。……雅哉様に興味など、最初からお持ちじゃなかったでしょう?」
榊は苛立たしげに吐き捨てた。
雅哉が愛してやまなかった前妻は、雅哉の父が死んだ時も、会社が危なかった時も、外に出て来なかった。
雅哉はいつだって、ひとりでトップを走り、孤独に戦っていた。
雅哉は常に、彼に逃げられることを恐れ、彼を誰かに奪われるのではと怯えていた。
激しい独占欲と強迫観念のために、雅哉が屋敷へ彼を閉じ込めていたのだと、榊は知っていた。
彼を閉じ込めるために、様々な手を打ち続けていたのも知っている。
雅哉が悪いと、分かっている。
けれど。
「ははっ、相変わらず、榊は厳しいな」
諦め切った目で、涙も枯れ果てたような目で笑う雅哉を見ると、榊は泣き出したいようなやり切れなさに襲われるのだ。
会社を、従業員を、関わる全ての人間を守るために、ボロボロになりながら奔走し、満身創痍で剣を振るい、盾で人々を守り続けていた雅哉を知っているから、口調はどうしても厳しくなる。
雅哉が誰よりも愛していた彼が、雅哉を愛し、助けてくれていたら、きっと榊の敬愛する上司はもっと幸福に、健やかに、この二十年を送ることができただろうから。
こんな、全てを諦めたような目で笑うことなど、なかっただろうから。
「まぁ、全て今更だよ。……行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
渋々と行った様子で部屋を出て行く雅哉の背に、榊はため息とともに呟いた。
「まったく、もう。いつまで囚われているのですか。……少しはご自身の幸せをお考え下さいませ。あなたはもう十分頑張ったのですよ、雅哉様」
二十年間、雅哉を苦しめる運命の呪い。
彼を縛り付ける鎖が解け、新しい妻と新しい幸せを作ってくれればいいのに、と榊は願ってやまなかった。
料亭へ会食に向かった雅哉は、障子を開けた時点で固まった。
「おぉ、よくいらっしゃいましたな、雅哉様」
「ご無沙汰しておりますね、雅哉様。先日は父が失礼いたしました。こちらにおりますのが、弟の祐正ですわ」
にこにこと出迎えたのは、雅哉より少し年下の快活な旭グループ現女社長と、先日会ったばかりの恰幅の良い会長。
そして、二人の後ろに静かに立つ青年。
色素の薄い茶色の髪と、榛色の瞳の、儚げな美青年だ。
「……旭祐正と申します。この度はお忙しい中お越し頂き、ありがとうございました」
楚々とした仕草で頭を下げる祐正は、今日を顔合わせと聞いてきたのだろう。
かすかにはにかみながら頭を下げ、伏し目がちに微笑んでいる。
どこか窶れた佇まいが、彼に匂い立つような色気を与えていた。
たしかに美しい青年だ。
けれど。
(嘘だろう……!)
あれよあれよと言う間に、青年の前に座らされ、雅哉は呆然と固まっていた。
「あ、今度タイアップさせていただく件についてはこちらにまとめてあります。おほほ。本日のような機会に持ってくるのも無粋かと思いましたけれど、雅哉様は効率重視とお伺いしましたので」
「あ、あはは、ありがと、うございます」
上品に笑いながら、さらりと資料を渡し、「また読んでおいて下さいませ」と言う社長の笑顔に曇りはない。
「ははっ、お心遣い感謝いたします」
物心ついてから鍛えられ続けた愛想笑いで難局を乗り切りつつも、雅哉は内心激しく動揺していた。
ついでのように机の端に置かれた資料にちらりと視線を落とし、雅哉は心の中で毒づく。
(ちっ、榊が一枚噛んでいるな)
いつも表情を変えない秘書に、しれっと嵌められたことを察して、雅哉は臍を噛む。
旭親子に頼まれ、もともと入っていなかった会食をねじ込んだのだろう。
雅哉のスケジュールを把握し、管理している榊なら造作もないことだ。
「ささっ、とりあえず一杯といきましょう」
「そうですわね。雅哉様もお酒をお召し上がりなる?ここは日本酒が美味しいんですのよ」
「……そうですね、では、お勧めのものを」
上機嫌な旭親子の勢いに押されながら、雅哉はひとまず状況に抗うことを諦めた。
アルコールに任せて陽気になってくる父親と姉の横で、祐正はひとり、笑いも話しもせずにゆっくりと箸を動かす。
(随分と口数の少ない子だな)
優雅に食事を進めながらも、生を感じさせない祐正は、まるで人形のようだった。
正気がなく、まるで螺子じかけで動いているようなぎこちなさがある。
(まぁ、番を亡くしたばかりのオメガに、陽気に振る舞えと言うのも無理があるな)
すっと綺麗に背筋を伸ばす目の前の青年は、一見、父や姉と雅哉が会話を交わす様子を、微笑みながら見守っているように見える。
けれど、その目には何も映っていないように思われた。
(なるほど、なぁ……)
旭親子の心配の理由が分かる、と、雅哉は周りに気づかれないように小さくため息を吐いた。
このままでは、生きながらにして魂だけ天に上っていってしまいそうだ。
それだけ祐正の中で運命の番であった東條の翁の存在は大きいのだろう。
たとえ、うなじを噛まれることがなく、番うことが出来ていなくても。
奇跡と呼ばれるような運命の相手に出会い、そして彼を愛してしまったのだ。
死という圧倒的な力の前に、最愛の者を喪ってしまった衝撃は計り知れない。
哀れなオメガを気にし始めたら最後だと思いながらも、番に置いて逝かれたこの年若い青年に、雅哉は同情と親近感を抱かずにはいられなかった。