運命の番において逝かれたΩ
「えぇっ!?」
あまりにも思いがけない提案に、雅哉は驚愕のあまり思わず叫びかけ、咄嗟に片手で口を覆った。
目の前で飄々としている二十歳ほど年長の男は、動揺をあらわにする雅哉を妙に温かい目で眺めながら、笑みを浮かべた。
「あれほど美男美女に言い寄られながらも籠絡されることなく、純真なオメガを弄んだりはなさらない、そんな誠実な雅哉様に、ぜひ私の可愛い末っ子を貰って頂きたいのですよ」
「はぁ……」
滔々と語る旭に、雅哉は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で首を傾げる。
「ですが、旭様の末子というと、祐正くんでしょう?最近、どこぞの方と結婚したと聞きましたが」
旭家の子の結婚だというのに、挙式も披露宴も催されないという異様さに、『神様にでも嫁入りしたのか』と噂されていた。
元々体が弱いと噂の少年だったこともあり、タチの悪い冗談だ、と不快に思ったことを覚えている。
(一体どういうことだ?まさか、結婚の話自体が嘘八百だったのか?)
首を傾げる雅哉に、旭は少々言いにくそうに口を開いた。
「いや、それが、……早々に旭の家に戻って参りまして」
「な、どうして!……あ、いや」
結婚の話を聞いたのは去年では、と驚き、つい声を上げてしまった雅哉は、慌てて口を閉ざした。
(私こそ、あまりにもプライベートに踏み込み過ぎだ)
「失礼しました、立ち入ったことを」
「いえいえ、当然のご反応ですよ」
改まって謝罪をすれば、旭は気にした様子もなく言葉を続けた。
そして、多少言い淀んだ後に、再び口を開く。
「それが、実は……内密に願いたいのですが、祐正を望んだのは、東條の翁で」
「えぇっ!?」
あんぐりと口を開けて、「まさか……」と首を振る。
「あのお方は……百近いご高齢では……」
呆然と呟く雅哉の言葉を、旭はあっさりと肯定した。
「はい、九十八歳でしたね。先日鬼籍に入られましたが」
「はぁ……」
次から次へと予想を超える発言を繰り出され、雅哉はもう取り繕うことを諦めた。
『如何なる時も冷静な久遠グループの総帥』としての外面を保つには、あまりにも衝撃が続き過ぎた。
「東條の翁は、……確か、正妻でも妾でもないオメガに産ませた隠し子の数が両手の指の数では足らないという噂ですが」
旭が可愛がっている末子を嫁に出すにしては、あまりにも不適切な相手だろう。
政略結婚させるにしても、もう少し若い、現当主の息子あたりが頃合いだ。
納得のいかない顔をしている雅哉を見て、旭は苦笑しながらいかつい肩を竦めた。
「翁は、若い頃にはオメガ遊びが激しくて有名な方でしたが、……祐正については、死ぬ前の色狂いというものではなく、……どうやら本当に『運命』だったようで」
旭の言葉に、雅哉は息を飲んだ。
それは、雅哉を苦しめ続けているものと、同じ。
「う、んめい」
「はい。あの、何千分の一とも、何万分の一とも言われている『運命の番』とやらです」
信じられないかもしれませんが、と言いながら、旭は苦笑混じりに説明を続ける。
軽快に続く旭の話を、雅哉は言葉もなく聞き入るしかなかった。
「祐正は絵を描きますのでね、蒐集家として名高い翁の秘蔵の水墨画に興味を示しておりまして、それで、あの子を連れて翁を訪ねたのですよ。そうしたら、応接間に入った瞬間に、祐正の体からフワリとフェロモンが匂い立って、どうしたのかと思っていたら、あの翁が涙を流して「やっと会えた」と呟かれて、私は仰天してしまいましたよ」
お手上げだった、と茶目っ気たっぷりに両手を挙げてみせる旭に、相槌を返しながら、雅哉はどくどくと嫌な音を立てる心臓をそっと押さえた。
運命の番に出会った瞬間の高揚と興奮と、幸福感。
そのどれも、雅哉は知っている。
そして、愛されないと知った時の苦痛や、番を失った時の絶望も。
「豪胆な人柄に似合わず、ロマンチストな方で、運命の番を探し求めて、オメガ狂いと呼ばれるほどに渡り歩いていたようですよ。オメガにすれば迷惑な話ですよねぇ」
「は、はは、そうですね……」
おかしそうに笑う旭に、雅哉は少し強張った作り笑いを返した。
心臓に、細い針が少しずつ刺されていくような気分だった。
「まぁ、祖父と孫ほどに歳が離れておりましたので、父親としてはさすがに躊躇しましたが」
困った顔で笑いながら、旭は過去を思い返すような目をして話す。
「祐正自身も望みましたので、昨年、東條の翁の元に嫁ぎました。ですが、年齢も年齢で、ヒートも起きず、手を繋いで添い寝するのがせいぜいだったようで。翁が亡くなり、結局番うことなく帰って参りましたが、我が家に戻っても泣き暮らしております」
息子の閨事情をあけすけに話しながら、旭は悲しげに眉をひそめる。
その表情は、愛息子を思う父の顔で、雅哉も己に当てはめて深く頷いた。
結婚したばかりの可愛い子が、一年ほどで連れ合いに先立たれて帰ってくるなど、哀れで可哀想で見ていられないだろう。
どうにかしてやりたいと願う気持ちも分かる。
けれど。
「親馬鹿ながら、素直で可愛らしい子です。もう二十六になりますのに、少々純粋すぎて心配になるほどです。なにせ出戻りですし、あの子を任せられるようなしっかりしたお方は殆ど番付き……歳をとってから授かった愛息子をどこぞのボンクラの二号にするなど許しがたいもので。その点久遠様ならば安心してあの子を嫁がせられます。久遠様さえよろしければ、あの子を貰ってやってくれませんか」
「い、や、ですが」
(さすがに、この行動は、一足飛びすぎるのだろう?)
百戦錬磨の旭による怒涛のような勢いと圧に押し流されそうになり、雅哉は一歩後退った。
皮膚に貼り付けた笑みを強張らせながら、雅哉は必死に断る理由を探す。
「しかし、その、……祐正くんの意思は?」
「まぁ、これも祐正の意思と言えば意思ですかね」
旭を思い留まらせようと必死に絞り出した言葉も、あっさりと首を振られた。
「あの子は元々夢見がちな子だったのですが、今はもう全てに投げやりでして。『あの人が亡くなってしまって、どうせもう僕の運命は終わったの。だから、誰でもいい。お父様が選んで』と言って、明けても暮れても泣いてばかりです。……雅哉様、どうかあの子を貰ってやって下さいませんか。あの可哀想な子に、人並みの幸せを味あわせてやりたいのです」
「お願いします」と言って、人の多いパーティー会場の片隅で、頭を下げんばかりの旭に、雅哉はひたすら戸惑うことしかできない。
この世の何よりも愛おしんでいた人間が去って、まだひと月だ。
嘆き、悲しみ、怒り、絶望し、そして、この先ずっとひとりで生きていくのだと諦めていた。
そこへ急に、後添えをと紹介されても、心が追いつかないのだ。
「ま、ぁ。旭様。祐正くんも、まだ心の整理がついていないでしょうし。……私もまだ、再婚のことは考えられません」
おそらく旭は、雅哉が再婚してしまう前に、と思ったのだろうが、焦らずとも雅哉はそもそも再婚する気もない。
「お話は有難いですが……」
「あぁ、そうですか!こちらこそありがたい!ささっ、飲んで下さい」
断ろうとした雅哉を遮って、旭が嬉々として顔を上げた。
そして雅哉の持つグラスに手ずからワインを注ぎ入れる。
「あ、いや」
慌てて断りの言葉を続けようとする雅哉に、旭はにやりと片方の口角を上げて言った。
「いや、分かっておりますとも。まだちょっと気が早い話ですな。もう少し時を待ち、様子を見て、でしょう?分かっております分かっております」
「……はい、そうですね」
二十年分、己より交渉に長けている男を相手にこれ以上食い下がるのは悪手だと判断し、雅哉はため息を飲み込んだ。
「まぁ、……また、機会があれば」
遠回しな拒絶のつもりで口にしたその場しのぎの言葉を、数日後に、雅哉は後悔したのだった。