悲劇と喜劇は紙一重2
「うん、めい……」
告げる言葉は、僕の言葉を五年に渡って否定し続けてきたとは思えないような内容。
妙に達観した様子でのんびりと話す由貴さんは、鎧を脱いだような、以前と比べて柔らかな空気を纏っている。
全てを受け入れたように穏やかな顔をする由貴さんに、僕はむしろ慌て、そして怯えた。
「そ、んな、……由貴さん、の、気のせい、じゃ」
カラカラに渇いた口で、必死に言葉を絞り出す。
そんな、僕に都合の良い事象が起きるなんて、信じられない。
期待させられて、更なる絶望感に打ちのめされるくらいなら、と、僕は理解を拒んだ。
「いや、本当にね。気のせいだと良かったんですけれども」
けれど僕の激しい動揺を気にした様子もなく、由貴さんはいっそうんざりとしたかのような口調で、ため息混じりに口を開いた。
「私が婚約したって噂、あったでしょう?」
突然切り込まれたのは、僕がひたすら避けて逃げ回っていた話題。
びくりと震え、やめてくれと乞うように見つめるが、由貴さんは僕の動揺に小さく苦笑するだけだ。
そして、どこか自嘲するように言った。
「とても、条件の良いお相手だったのでね、私は結婚するつもりだったのですけれど……これまで、用量以上の抑制剤を使いすぎたせいか、彼女のフェロモンが全く感じ取れなくてね」
遠い目で語られるのは、おそらく由貴のアルファとしてのアイデンティティーに関わる話だ。
僕は訳の分からぬ緊張感に何度も唾を飲みながら、真剣に耳を傾けた。
「これはまずいと、試しに彼女がヒートの時に会いに行ったりもしたのですが、これがサッパリで、ヒートに釣られて自分も欲情する……なんて現象は望むべくもなく。動揺のあまりか、私のモノは完全にお飾りの役立たずでした」
お手上げだった、とおどけたように言うこの人は、その時一体、どれほどの衝撃を受けたことだろうか。
オメガが孕む性であるならば、アルファは孕ませる性だ。
それなのに、オメガのフェロモンを感じ取れず、欲情することも出来ないなど、アルファとしてあるまじきことだった。
僕は愕然として、目の前で穏やかに笑う由貴さんを見た。
「そんな相手と結婚しても困ると言うことで、お友達になりましょうと言われてしまいました」
当然ですよね、と言って肩を竦める由貴さんの声に、けれど悲壮さは感じられない。
混乱しながらも由貴さんの話をじっと聞いている僕に、由貴さんは困ったように微笑んだ。
「私、これまで自分の嗅覚の低下を、あまり自覚していなかったんです。……颯斗くんのせいですよ」
「え!?」
少しばかり恥じ入るように目を伏せた後、由貴さんは僕をじろりと睨め付けた。
突然の言いがかりに、僕は目を白黒させた。
「君がいつも、あんまりにも良い匂いをさせているものだから、自分の嗅覚がこんなに麻痺しているとは思いもよりませんでしたし、麻痺するほど過剰内服しているとも思っていませんでした。……だから、颯斗くんのせいです」
普段の理路整然とした由貴さんとは違う、少し早口に語られるのは、難癖に近いようなクレーム。
僕がぽかんと口を開けて、まじまじと見つめていると由貴さんはバツの悪そうな顔で目を逸らした。
「理屈も理由も分かりませんが、この鈍感な嗅覚が、思い返せばいつも君だけは間違えずに見つけていた。そう自覚して、……私は理性のみで生きていけると信じていた己が間違っていたことを認めました」
静かな顔で言い切って、由貴さんは小さく笑った。
「人は、本能を無視して生きてはいけません。我々は、少しばかり出来ることが多いだけで、結局獣の種のひとつでしかないのですね」
見上げる端正な顔には、運命への静謐な受容が満ちている。
「私は結局のところ、本能で君を自分の番だと感じ、深層心理では君を求めていたのでしょうね。出会ってからずっと、私は君の匂いから逃げるために、抑制剤を飲み続けていたんですから」
「う、そ……」
「本当です」
情けないことですが、と言って由貴さんは、過去を全て吐き出すように、長く息を吐いた。
「でも、私は納得出来なかった。そんな動物のように、本能や直感や感情なんてもので番を選ぶなど、理性を持つ人間にあるまじきことだと感じていました。……私の父が己の感情のまま、本能を言い訳にして、母を番にしたという話はしましたね?」
改まったように背筋を正して、由貴さんが僕を見つめた。
「ぁ、……は、い」
それは、僕の犯した『罪』と同じ過ち。
由貴さんを形成する根幹に突き刺さっている傷だ。
顔面蒼白になった僕に、由貴さんが慌てたように「あぁ、違います」と言って手を左右に振った。
「ご、めんなさい」
「怒っているのではないのです。だって、君の企みは成功しなかったでしょう?」
「うん……でも」
犯した罪は、消えない。
今日、あの男にレイプされそうになって、初めて突きつけられた。
僕がしたことの罪深さを。
「違います。……君のしたことは、単なる『誘惑』ですよ」
僕の罪悪感を察した由貴さんが優しく微笑んで否定する。
「なぜなら、君がオメガで、私がアルファだから」
簡潔に告げて、由貴さんはそっと目を細めた。
「あの時思ったのです。やはりどうやっても、アルファの方が立場が強い。『オメガによるレイプ』など結局は和姦でしかない。だって、アルファが拒めば良い話なのですから。私たちは、思考と判断する能力を持ち、理性を手に入れた人間なのだから」
先ほどとは相反するようなことを、けれど単純明快な答えかのように言い切って、由貴さんはスッキリとした顔で笑う。
「そして、捨て身の行為すら叶えられず、絶望して泣く君をみて、あぁ、オメガというのはつくづく哀れな性だ、と思って……そして、やっとどこかで、母を許せた気がしました」
あの夜を思い返すように遠くを見つめて、由貴さんは落ち着いた様子で、柔らかな言葉を紡ぐ。
全てを許したような清らかな空気に、僕は気圧されて思わず目を伏せた。
僕の愛するこの人は、本当に賢くて器の大きい人だ、と憧憬と尊敬に目頭が熱くある。
すると、感動に浸っている僕の耳にぽつりと「それに」という呟きが聞こえてきた。
「声もなく涙を流す君の大人びた泣き方が、どうにも……そそられて」
「へ?」
「はっ、あぁ、いや、なんでもありません」
不穏な言葉が聞こえてきた気がして、間抜けな声を発しながら顔を上げれば、由貴さんはいつもの澄ました顔をしていた。
何かを覆い隠したような綺麗すぎる微笑に、僕は怪訝な顔をしていたのだろう。
「まぁ、なんにせよ」
由貴さんは、誤魔化すように話を仕切り直す。
それに合わせて、僕も気分を切り替えようとした、が。
「私のオメガになるということは、今後はますます誘拐の標的となる可能性が上がります。まったく、ぞっとしませんね」
「……え?」
由貴さんの薄い綺麗な唇から飛び出した突然の問題発言に、僕はあんぐりと口を開けた。
「え?なに?……由貴さんの、オメガ?」
「ええ。そうです。ご両親には先ほど許可を頂きました。ひとまず婚約して、次のヒートで番の契約を結び、君の成人と同時に籍を入れることになりました」
「は?」
決定事項のように言い渡された内容に、僕は瞬きも出来ず硬直した。
あまりの急展開に、頭がついていかない。
五年間の進展のなさが嘘のように、これからの未来には最短距離が設定されていた。
「おや、異存ありますか?……颯斗くんに触れて良いのは私だけ、なのでしょう?」
「な、い、です」
思考停止した脳味噌を気合で動かして、肯定の言葉を喉から押し出す。
僕の同意に、由貴さんは小さく安堵の吐息を吐いた。
「そうですか。……良かった。今更だと断られたら、どうしようかと思っていましたよ」
怖くて先に外堀を埋めてしまった、とボソボソと懺悔する由貴さんが可愛らしくて、僕の中でじわじわと実感と喜びがこみ上げる。
あぁ、まさか。
僕の恋は、実ったのか。
「僕、由貴さんのオメガ?由貴さんのモノなの?」
幸せに浮き立ちながら、涙声で尋ねれば、由貴さんは照れくさそうにはにかんだ。
「ふふ。あなたは私のモノで、そして、私もあなたのモノになりますよ。……待たせて、辛い思いをさせましたね」
「ううん。……そ、っかぁ」
こみあげる嬉しさが、瞳からぽろぽろとこぼれ落ちる。
混じり気のない、澄み切った喜びだ。
「ああ。もう。そんな可愛らしい顔で泣かないの。まったく、私のオメガは本当に愛らしくて、危なっかしい。ぼうっとしていたら、悪い奴らに連れ去られてしまいそうだ」
立ち上がった由貴さんは長い人差し指で、僕の頬を伝う透明の滴を拾いながら、悪戯めいた顔で微笑した。
「仕方ありませんから、あなたには発信器でもつけておきましょうね」
「へ?……って、ええええっ」
物騒な言葉の後。
由貴さんが取り出した『発信器』に、僕は絶叫した。
「おや、何を騒いでいるんですか。うるさい」
「だ、だって、だって!」
後退ろうとした僕の体は、左手を由貴さんに取られたために前へつんのめる。
僕の左手は、大きな手で捕まえられ、そして。
「これ、ゆびわっ!指輪!!」
小さな丸い球体のついた、指輪が嵌められた。
「ええ、そうです。石の代わりに超小型の発信器がついています。学生のうちにつけられる装飾品は、限られますからね」
しれっとした顔で言い放つ由貴さんは楽しげで、至極満足げだ。
「ちゃんとした指輪は、またいつか差し上げますから。今はひとまずそれで我慢していてください」
「ゆ、びわ……」
交わしたそばから形になった未来の約束に、僕は呆然とする。
夢うつつのような顔をしているだろう僕を、由貴さんは優しい目で見つめた。
「そう、君が私のモノだという証です」
甘く囁いて、由貴さんは僕の左手をとり、薬指の根本にくちづける。
永遠の愛を誓うような仕草に、僕はぼろぼろと大粒の涙をこぼして泣き出した。
「いいの?僕が指輪もらっても……由貴さんを、レイプしようとしたのに……、僕、あの時のキスが、最後のキスなんだと思ってた……こんなひどいことしたから、もう許してもらえない、って」
「君はあれからずっと、そんなことを考えていたんですか?」
揶揄うように笑いを含んだ声で尋ねる由貴さんに、僕は泣きながらこくりと頷く。
「ふふ、それはそれは、可哀想に」
苦笑まじりの声とともに、優しく頭を撫でられる。
僕はもう、まともな言葉が出てこなくて、えぐえぐと情けなくただ泣き続けていた。
そんな僕を、まるでとんでもなく愛しいものを見るような目で見つめて、由貴さんは笑った。
「ちゃんと、人生最期のキスも私がしてあげますから、安心なさい」
「っ、え」
ちゅ、と優しい音を立てて、柔らかな唇が触れる。
目を見開いて顔を上げた僕に、僕の番はこの上なく綺麗な笑みを見せた。
「私に『運命』を信じさせた君の勝ちですよ」