人生最悪の厄日
その日は朝からついていなかった。
朝食のコーヒーを飲んでいたら急に話しかけられて誤嚥したし、雨が降ってきたと折り畳み傘を取り出せば骨が折れているし、通りがかりのトラックに泥水を跳ねられた。
学校についてからも、先生の思い違いで叱られたり、珍しく成績のことで同級生に嫌味を言われたり、先輩から呼び出されて告白を丁重に断るのに骨が折れたりした。
そんな、朝からアンラッキーをふんだんに盛り込まれた日だったのだから、もう少し警戒して過ごせば良かった。
そうすれば、こんな目に遭うことはなかったのに。
***
「おとなしくしろッ」
「うっ」
ガンッと腹を蹴り飛ばされて、息が止まった。
ゲホゲホと咳き込み、僕はぐったりと地面に突っ伏す。
目隠しをされたまま動かない僕に、男は上の方から心底舐めきった声で僕を蔑んだ。
「ハッ、弱いくせに暴れるからだ」
いつもの帰り道。
部活動のミーティングが長引くという千堂を置いて帰ろうとした僕は、急に背後から殴られた。
咄嗟に叫んで人を呼ぼうとしたところで、口を押さえつけられ、無理やり猿轡を咬まされた。
そして汗の染み込んだタオルのような臭い布で目を塞がれ、僕はどこか……おそらくは校内の外れの、使われていない倉庫のどこかに連れ込まれたのだ。
「おいオメガ野郎、イイ匂いぷんぷんさせて、平気な顔で校内をうろついてんじゃねぇよ」
ペッと唾を吐き捨てて、倒れ込んでいる僕の近くに男はしゃがみ込み、僕の頭を鷲掴んだ。
その拍子に猿轡がずれて、少し呼吸が楽になる。
「目障りなんだよ、このクソビッチめ」
腕を掴む手は固く筋肉質で、先ほどの蹴りもこの男にとっては軽いものなのだろう。
本気だったら、きっと肋骨が折れていただろうから。
そう冷静に判断しながらも、ぐったりと力を抜いて様子を伺っていると、男は苛立ったように僕の髪を引っ張った。
「おい、寝たふりしてんじゃねぇよ、起きろッ」
「いたっ」
髪を掴まれて無理やり頭を上げさせられる。
痛みに顔をひきつらせると、男は楽しげに嘲笑した。
「何が学年首席だよ。どうせ教員に、体で取り入ったんだろうが。小せぇくせに、アソコはさぞ立派な名器なんだろぉなぁ」
この学校の生徒ではない、だろう。
感じるのはアルファの気配ではないし、こんな柄の悪い人間はいなかったはずだ。
それならば、ここの生徒の家が雇ったベータのゴロツキか。
「っ、ははっ」
歴史ある名門校の頂点にオメガが立つことが気に入らない人間は、いくらでもいるだろう。
考え出せばキリがないほど、幾つもの顔が思い当たる。
馬鹿馬鹿しい。
心底馬鹿馬鹿しい。
オメガだからって、なんでこんな目に遭わなければならないんだ。
「へへっ、でもまぁ、確かに綺麗な顔してんな、てめぇ」
薄汚い欲望を丸出しにした男が、僕の顔にベタベタと触る。
ぞっと、背筋が震えた。
「や、めろ!」
「へへ、その怯えた様子、悪くねぇ。そそられるぜ」
悦にいった様子で男が呟き、僕の両手を片手で押さえこむ。
そしてもう一つの手が、僕の体を撫で回した。
「ひぃいっ」
「さて、お楽しみの前に、ご開帳と行くか」
引きちぎるように制服の前を開かれる。
ねっとりとした手つきの気色の悪さに吐き気がした。
「きっれいなカラダだなぁ。苦労したことのない坊ちゃんの、金持ちに抱かれるためのカラダだ」
耳元で囁かれる侮蔑が不愉快で、必死に身を捩って遠ざかる。
「やめろっ、だ、誰かッ、誰かぁあああ!」
あらんかぎりの声で叫ぶが、男は焦る様子もなく鼻で笑った。
「叫んだところで、この辺りは人通りがないんだ。聞こえねぇよ。しかも、この雨だしな」
ザァザァと激しく地面を打つ雨音は、確かに大概の物音はかき消してしまうだろう。
「うぅ……」
絶望的な状況に、僕は唇を噛み締める。
どうすれば逃げられるのだろう。
必死に考えている僕を馬鹿にするように、男は嘲笑った。
「おい、淫売。ボコられたくなきゃ、せいぜいご奉仕しろよ?」
そう宣言し、犬のような荒い息が顔へ近づいて来る気配がする。
必死に顔を背けると、「こいつも邪魔だな」と嘯いた男が、目を覆っていた布を投げ捨てて、僕の髪を鷲掴んだ。
「さぁ、お楽しみの時間だ。まぁ、卑しくてイヤラシイのが売りのオメガくんなら、むしろ楽しめちゃうかな?」
あからさまな揶揄と、濁った目に淀む劣情に、血の気が引いた。
僕を犯そうとする獣を前に、僕はあまりにも弱く、無力だった。
「い、やだ!よせ、ヤメロッ!」
けれど受け入れることなど到底出来なくて、僕は必死に抵抗する。
自分で触れることすら嫌なのに、他の男に、こんな汚らわしい男に触れられるなんて、我慢ならない。
それくらいなら、殴り殺された方がマシに思えた。
「離せっ!……僕に触れていいのは、由貴さんだけなんだ!」
「おや、可愛らしいことを言いますね」
「……え?」
突然聞こえてきた第三者の声に、僕を押さえつけていた男の力が緩む。
「あぁ?」
ザァザァという雨の地面を打つ音が、急に大きくなっていた。
ムワッと湿った空気が肌を撫で、扉が開いたのだと理解する。
「まったく、こんなところに連れ込まれて。危機管理能力が低すぎますね」
うんざりとした顔で現れたのは、由貴さんだ。
まるで映画かドラマのような、計ったかのようなタイミング。
そんな感想を抱いてしまう僕は、千堂を笑えないだろう。
気負いのない足取りで僕のもとに近づいてきた由貴さんは、男の手を払い除けて、僕を立たせた。
「さて。ご両親が心配しています。早く帰りますよ、颯斗くん」
まるで日常の続きのような顔で話す由貴さんに、僕は混乱する。
意表を突かれて固まっていた男も、同じだったのだろう。
「はぁ?てめぇ、突然現れて、勝手なことを」
あっさりと僕を連れて帰ろうとする由貴さんを威嚇し、掴みかかろうとした。
けれど。
「っ、ッテェ」
「屑は屑らしく、地面に這いつくばっていなさい」
片手でいとも容易く男の巨体を放り投げ、由貴さんはその手首を思い切り踏みつけた。
「いってぇええッ、折れるっ、折れるっ」
「ええ、折る気ですからね」
ガンっと勢いをつけて掌を踏み抜くと、男が言葉にならない獣じみた悲鳴をあげた。
そして、ぐしゃりと砕けたであろう指を無視して、地面に這いつくばる男の脛を、横から力の限り蹴り飛ばす。
ボキッ
「あがっ」
嫌な音がして、奇妙な方向に折れ曲がった足を見て、由貴はやっと動きを止める。
「これで逃げられないでしょう。警備員がそろそろ来ますから、おとなしく待っていなさい。これ以上暴れたら、次は喉を潰しますよ。……まぁ、私はそれでも構いませんが」
激情を押し殺す由貴さんから噴き出す、アルファのオーラ。
絶対的強者の威圧に、男は縮こまり悲鳴をあげた。
このままだと目の前で殺人が起こるのではないかと、呆然としながらも僕が懸念を抱き始めたその時。
扉の外から複数の人間が走ってくる足音が聞こえてきた。
「おや、残念……ゴミの回収が来たようですね」
「遅くなりました、久遠様っ」
由貴さんの言葉にかぶせるように、五人の警備員が駆け込んできた。
「お疲れ様です。暴行の現行犯ですから、警察に突き出してください。ああ、あと、裏もきちんと洗っておいてくださいね。後日、久遠と笈川へも、報告をおねがいします」
氷のような微笑を浮かべて圧をかける由貴さんに、ベータと思われる警備員達は顔色を失くした。
「は、はいっ、勿論であります!」
そして警備員は、右手と右足が明らかに変形している男を見て一瞬顔をひきつらせたが、そのまま静かに職務を遂行し、去っていった。
「さて、それでは我々も帰りましょう。早くご両親を安心させてあげなければいけませんよ」
「由貴さん……どうして……」
当たり前のような顔で僕に手を差し出してくる姿に、僕は混乱の中で喘いだ。
「さぁ、どうしてでしょうねぇ。私も不思議です」
困ったような顔で頰を掻く仕草に気が抜ける。
「は、はは、なにそ、れ……」
「……颯斗くん」
張りつめていた糸が切れて、僕はその場ににへたりこんだ。
蹲る僕の隣に屈み込み、由貴さんはそっと僕の背中を撫でた。
「もう大丈夫ですよ。……よく頑張りましたね、颯斗くん」
「う、うぅ、うぁああああっ」
包み込むような優しい声と、温かな掌に、僕はやっと安堵して、泣き崩れたのだった。