淡々と進む日々
遊園地から帰ってきてから、僕は由貴さんとの関わりを綺麗に絶った。
合わせる顔がなかったし、それ以上にこれまで通りに振る舞われるのが恐ろしかったのだ。
僕の行動など、由貴さんには何の影響もなかったのだと、思い知らされるだろうから。
両親は、久遠家への訪問も、パーティーへの出席も避けるようになった僕に奇妙な顔をして、何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。
由貴さんが婚約したという噂が流れたから、察したのかもしれない。
気を遣われているのか、家ではほとんど久遠家や由貴さんの名前は聞かなくなった。
***
中学生活は、それなりに充実していた。
首席入学したオメガということで目をつけられたようだけれど、思ったより被害はなかった。
入学することも難関ながら、それ以上に無事卒業することが困難だと言われている名門校だけあって、生徒のほとんどが良家のアルファだということが大きかったのだろう。
愚かないじめや嫌がらせをするような人間はいなかった。
まぁ、もっとも、知らぬ間に『久遠家と仲が良い笈川の秘蔵っ子』と噂されていたようから、手を出すのはハイリスク・ローリターンだと判断されたのかもしれない。
僕は新たな友人達とともに高度な授業をこなしながら、それなりに楽しい日々を送っていた。
「あ、笈川!もう来れるのか?」
入学後、初めてヒート休暇を取った後。
友人になったばかりのアルファ、千堂が明るい声をかけてきた。
「うん。悪いけど、休んでた間のノート見せてもらえる?」
「おお、もちろん。ってか、お前、もうヒート来てるんだな!早いなぁ」
気の良い返事とともにノートを差し出した千堂は、「そこまで発育良くねぇのになぁ」と言いながら、首を傾げて、まじまじと僕を見る。
そして、さも興味深そうに口を開いた。
「お前、ヒートの時ってどうしてんの?」
「別に。薬飲んで寝てるよ」
「へぇー。ヒートの時のオメガって、アルファ見たら飛びつくって本当か?」
千堂のあまりにデリカシーのない発言に、クラスメイトが騒つく。
クラスのほとんどはアルファだから、僕は保護すべき希少動物扱いだ。
僕が気分を害するのではと心配しているらしい。
「ふふふっ、ばーか」
僕は穏やかに笑って、千堂に向かって大袈裟に肩を竦めてみせた。
『怒っていない』という、周囲へのアピールに、クラスの空気は一気に安堵したものになる。
悪意のない、純粋な疑問に機嫌を損ねるほど子供じゃないのにな、と思いながら、僕は笑った。
「まさか。いくらヒートでも、意識も残っているのに、そんな動物みたいな真似しないよ」
「あははっ、そうだよなぁ。じゃあ、お見舞い行ってもいいのか?」
あぁ、それが聞きたかったのか。
なるほど、と理解して、僕は吹き出した。
突拍子もない、けれども随分と可愛らしい同級生の発言に、クラスメイトは先程以上に騒ついているけれど、僕は特に気にすることもなく答えた。
「悪いけど、遠慮してくれるとありがたいな。インフルエンザで高熱で、ものすごく体調の悪い時に見舞いに来られるみたいなもんだから」
「なるほど、そうなのか」
納得したように千堂は頷いて、「じゃあ、ノートだけはしっかり取っておいてやるよ」と言ってニカっと笑った。
「ははっ、ありがとう」
渡されたノートをパラパラとめくれば、普段の雑さが嘘のように、この一週間はしっかりノートを取っていたらしい。
ありがたい友人だ。
「……はぁ」
僕のヒートは、きっと他のオメガに比べて『軽い』訳じゃない。
普通なら泣きながらアルファを求め、疼く子宮を抱えてのたうち回るのだろう。
抑制剤があっても、発情自体が消えるわけではない。
むしろ薬で無理やり抑え込むために、身体的な不調が顕著になる。
だから僕は、身体中に渦巻く熱に振り回され、ほとんどベッドから起き上がれなくなるのだ。
薬でヒートを受け流すというのは、そういうことだ。
しかも僕は、強い抑制剤を内服して、前も後ろも触らずに、ヒートをただひたすらに耐えている。
それは拷問に等しい苦行で、母にはかなり心配されるけれど、どうしても僕は触りたくないのだ。
由貴さんに抱きしめられた夜を、最後の記憶にしたいから。
***
ある晩。
試験勉強の途中で夜食を取りに降りたら、父と母がワイン片手に寛いでいた。
彼らのつまみを分けてもらおうと部屋に入りかけ、僕は聞こえてきた会話に足を止めた。
「今日のパーティーで久遠様、……あぁ、雅哉様の方だよ、お会いしてね。最近颯斗を見かけないけれど、どうしているかと聞かれたよ」
「あら」
驚いたような母の声と、困惑混じりな父の声。
「あの子も、突然久遠様のお宅に行かなくなったからね、気にかけていらっしゃったみたいだ」
「そう……ありがたいことね」
当たり障りなく返した母の言葉に、父は肯定を返して、疲れたようにため息をついた。
格上の家の相手に対応し、気疲れしたのだろう。
「中学に入って色々と忙しいようで、と言っておいたけれど、本当にどうしたんだろうねぇ。……だって、あの子は由貴さんのことを、運命の番だと言っていたじゃないか」
唐突に核心に触れた父の言葉に、僕は扉の外でびくりと震える。
「そんなものを、諦められるものだろうか。だって、運命の番だぞ?出会うのが奇跡と言われている、あの、」
「……さぁ、分からないけれど」
諦められる訳がない、と言いたげな父を遮って、母が静かに口を開く。
「こればかりは本人次第よ。私たちの出る幕じゃないわ」
「まぁ、そうだけどねぇ。親としては、なんとかしてやりたいものだけれど」
「色恋沙汰に、親がしゃしゃり出るものではないわ。あの子が諦めるというのならば、それが最善なのでしょう」
バッサリと切り捨てる母に、気の優しい父は「そうだけれどもねぇ」と悲しげにため息を吐く。
「由貴さんは、一体どう思っているのだろうねぇ」
「あら、婚約したのではなかったの?」
不思議そうな顔で首を傾げる母に、父は情けない顔で両手をあげた。
「それが、よく分からないんだ。旭の翁の孫娘と婚約したらしい、って噂は聞いたけれど、結婚式の話は聞かないし……」
「まだお若いから、ゆっくり関係を進めようということなのじゃない?……私たちみたいに」
眉を寄せて考え込む父に、母がこともなげに、けれど悪戯っぽい顔で言った。
一瞬きょとんとした顔を見せた父は、一拍置いて破顔した。
「……ふふ、なるほど」
「まぁ、私たちは、大人になってから出会ったのならば、十年はかからないと思うけれどね」
「確かにね。僕らは成人するのを待って夫婦になったわけだものね」
カチン、と二人のグラスが鳴る。
近づいた二つの影に、僕は踵を返した。
恋しい人の聞きたくもない近況を聞いた後に、親のラブシーンなんて、見たくなかったので。
***
「なぁ、お前って、久遠家の由貴様と仲良いんだろ?」
「えっ」
放課後の帰り道。
隣を歩いていた千堂の邪気のない問いかけに、僕はその場で時間を止めた。
「あれ?笈川、どうした?」
数歩先で、後ろに立ち竦む僕に気がついた千堂が振り返り、首を傾げる。
「いや、なんでもない……仲良いって、昔の話だよ」
「ふーん」
「どうして?」
必死に動揺をごまかし、平静を装って問いかければ、千堂は開けっぴろげに話し始めた。
「いや、昨日俺、親父に付いてパーティー行ったんだけどさ。めっちゃ飯のうまい久遠家のお花見パーティー」
「うん」
あぁ、知っている。
僕も去年まで、毎年行っていたから。
今年は、行かなかったけれど。
「そこでさ、なんか、招待客のオメガのお姉さんが、急にヒート起こしちゃって」
「え!?」
呑気な口調からは予想もしなかった展開に僕は思わず息を飲む。
あの、アルファだらけの空間でヒートを起こすなんて、考えただけで背筋が凍る。
けれど千堂は、ことの重大さをあまり理解していないような様子で、平然と語り続けた。
「いやぁ、ヒートってマジ大変なんだな。息苦しそうに座り込んじゃってさ。周りもアルファばっかりだから、下手に近づくと間違いが起きちゃいけないって言って、皆遠巻きで。俺も親に『絶対近づくな』って押さえつけられて助けにも行けなくて」
「いや、それで正解だったと思うよ」
この、あまり理性が育っていないと思われる優しい少年が、その場で狂った獣のようにならなくて良かった、とほっとしながら、僕は何度も頷いた。
「それは、ベータかオメガの使用人が来るのを待つべきだよ」
「そうそう。早くベータかオメガの使用人を呼んでこいって皆が騒いでたんだけど、……なんと、さ」
そう一つ息をためてから、千堂は興奮したような顔で言った。
「久遠家の由貴様が颯爽と現れて、まるでナイトみたいに『大丈夫ですか』って跪いて、そんで、そのお姉さんを抱きあげたんだよ。まるでヒーローみたいだったんだよ!」
「っ、そうなんだ」
目の前でドラマのような一場面を見た、と興奮している千堂の無邪気さに、八つ当たりじみた怒りが込み上げる。
「……きっと、由貴様の婚約者の方だったんだね」
由貴さんが、他のオメガに優しくしている話なんて聞きたくない。
婚約者と仲睦まじい様子なんて知りたくない。
だから、離れたのに。
なんでこんなところで、僕はそんな話を聞かなきゃいけないのだ。
見たくないから、聞きたくないから、知りたくないから。
断腸の思いで、由貴さんの側からせっかく離れたのに。
心の中で恨めしく思い、涙を堪えていると、千堂はあけっらかんとした口調で、「いや、それが、違うんだよ」と言った。
「へ?」
目を丸くする僕に、千堂はケラケラと妙に楽しそうに笑いながら、饒舌に語る。
「全然ハジメマシテの人だったらしいんだけどさ。平気な顔でヒート起こしたオメガを運んでさ、そんで、本当に運んだだけで、手を出さずに、涼し~い顔して戻ってきたんだ」
あんぐりと口を開けて話を聞く僕に、千堂はまるで噺家にでもなったように得意げに、調子良く言葉を続ける。
「周りが皆して『いやぁ由貴さんは、よくヒートを起こしたオメガに近づけますねぇ』って感心してたら、ケロっとした顔でさ。『昔から強めの抑制剤を飲んでいたせいで、鼻が鈍感なんでしょうね』って言うんだぜ?生半可なフェロモンじゃビクともしねぇんだってさ」
その言葉が僕に与えた衝撃など露知らず、千堂は子供っぽい顔で無邪気に笑った。
「あははっ、あの人、すごいお兄さんだなぁ」