壊した関係
多少の流血表現あり。
「……ただいま」
「あら、遅かったのね」
ダイニングの入り口から顔を出し、食後のワインを楽しんでいた両親に顔を見せる。
「可愛らしいTシャツ着ちゃって。久遠様に買って頂いたの?」
僕が朝とは違う、テーマパークの土産物のTシャツを着ていることに目敏く気づいた母が、半笑いで尋ねる。
揶揄うような眼差しに「違うよ、自分で買ったの」と返して、僕は室内に入らず踵を返した。
「はしゃいだら疲れちゃったから、もう寝るね」
「……そう。おやすみなさい」
「おやすみ」
努めて淡々と、感情を込めずに告げて、僕は足早に自室へ帰った。
母はきっと何か感じ取っただろうけれど、追及せずにいてくれることに感謝した。
部屋に入るなり、着ていた服を脱ぎ捨て、寝室の横のシャワールームへ飛び込む。
「ぁ、ぁあああっ、うぁああああッ」
激しく肌に刺さる水流の中で、僕は淀んだ心の中身を絞り出すように泣いた。
一世一代の賭けだった。
勝算はあるはずだった。
欲情したアルファの前に、うなじを晒したのだ。
噛まれないなんて、噛んでもらえないなんて、信じられなかった。
そして。
「あぁ……僕、は……なんてことを……」
僕の行為で、由貴さんを傷つけてしまうなんて、思いもしなかった。
***
「由貴さん、どうしようもないの、すきなの!」
そう泣きながら、僕は苦しげに己の体を抱きしめる由貴さんに抱きついた。由貴さんの体がびくりと震え、僕から発せられるフェロモンに動揺してくれたのだと安堵する。
「嫌っても良いから、僕をあなたのモノにしてよ……っ」
口では切々と愛を乞いながら、僕の体はどんどんと興奮に熱くなる。
僕はキャンディーを飲み下していないから、大して薬の効果はないはずなのに。
この幼い体は、完全に発情していたのだ。
これでは、はしたない獣と言われても仕方ないかもしれない。
いや、本能と感情の赴くままに、アルファを凌辱しようとしているのだから、今更の話か。
なんだ、やっぱり由貴さんは、正しかったのか。
そう思って笑い出したくなりながらも、口から飛び出てくるのは、声変わりする前の子供っぽい泣き声だけだった。
「っくそッ」
耐えかねたように、由貴さんがくるりと体を入れ替えて、僕をシートに組み敷いた。
「由貴さ……っ」
噛み付くように口づけられて、喜びに咽びながら必死に応える。
由貴さんから与えられた欲情に塗れたキスが、嬉しくて悲しくて仕方ない。
あぁ、ごめんなさい。
せっかく優しくしてくれたのに。
ずっと大切にしてくれていたのに。
こんな裏切りをして、許されるはずがない。
もう二度とキスはしてもらえないかもしれない。
心の中でしくしくと泣く夢みがちな僕を、もう一人の僕が嘲笑う。
どうせこのままじゃ、一度のキスもしてもらえずに終わるところだったのだ。
これが最後のキスになっても構わないじゃないか。
二度とこの人に、触れられなくなるくらいならば。
「由貴さん、好きなの……ッ」
泣き叫びながら、一回りも大きい体へがむしゃらに抱きつく。僕の激情とともにぶわりと立ちこめたフェロモンに、由貴さんが震えた。唇を噛み締めて必死に堪えようとする由貴さんを誘うように、形の良い耳に唇をすり寄せた。
「一生のお願いだから……ねぇ、噛んで?」
「っ、な!?」
言葉と共にタートルネックのセーターの首周りを引き下げ、後ろを向く。チョーカーのついていない白い首をあらわにすれば、由貴さんが明確な動揺を示した。
二次性徴を迎えたオメガのマナーとされているチョーカーを僕は朝から付けていなかった。
由貴さんに咎められないように、隠していたけれど。
「ねぇ、噛んでっ!」
もう由貴さんも理解しただろう。
僕は、可愛いお子様なんかじゃない。
媚薬の力を借りて、由貴さんをレイプし、うなじを晒して無理矢理に番になろうとしている、あさましいオメガなのだ。
「っ、ハァッ、……クソッ」
呼吸がさらに荒くなり、由貴さんの苦しさが伝わってくる。噛みたいなら噛んでよ。そんな必死に、我慢なんてしないで。
「ねぇ、お願い、噛んでよ!僕は、それだけでいいんだ……っ」
既成事実さえ作れば、僕たちの『家』の体裁上、きっとこれきりになんて出来やしない。
正式に結婚することは無理になったとしても、妾としてでも構わない。
あなたのモノになれるのならば。
「お願い……僕を、あなたのモノにしてっ」
「くぅっ、はっ、うぐぅ」
僕の首すれすれまで顔を近づけ、火傷しそうな息を吐きかけていた由貴さんは「ううう」と獣のように唸った。
しかし。
「っ、クソッ」
憎々しげに吐き捨てると、僕の首を片手で覆い隠し、そのまま顔を引き離した。そして。
「う、そ……」
僕はただ、獣のような目をして、それでも己を押さえつけようとしている男の顔を、涙に揺れる視界の端で呆然と眺めた。
「ん、くるしッ」
「がっ、くっ」
僕の呻き声も聞こえないのか、きつく後ろから抱きしめられる。強すぎる力に、背骨が粉々になりそうだった。いや、いっそ、体ごと砕け散ってしまいたかった。
「よした、かさんっ、……なんでっ!?」
目の前の発情したオメガのうなじに噛みつこうとする本能を必死に押さえ込み、由貴さんは自分の手の甲に噛み付いて耐えている。
アルファの野性に必死で抗う由貴さんは、間違いなく立派な『人間』だった。
「ねぇ、やめなよ!よしたかさん、手から、血が……ッ!」
「ぐぅぅッ」
首筋を伝う生ぬるい雫に目を向ければ、由貴さんが噛みついた彼の手の甲から垂れてくる赤い血液だった。たらたらと滴る血の涙が、僕を追い詰める。
「僕のうなじを噛めばいいでしょ!?ねぇ!なんで……!」
肉を噛みちぎっても耐え難いほどの衝動でも、由貴さんは。
「う……噛んでよぉ……ッ、うぅ……ああぁ……ッ」
「ぐっ、はぁっはあっ……はぁ……」
次第に落ち着いていく車内に、惨めな子供の泣き声だけが響く。
由貴さんは最後まで耐え抜き、僕のうなじを噛んではくれなかった。
僕は、賭けに負けたのだ。
***
嵐のような官能の熱が過ぎ去った後。
歯形だらけで、肉のえぐれた右手でハンドルを握り、由貴さんは「なかったことにしましょう」と呟いた。
真っ赤に腫れた目で助手席に呆然と座る僕に、由貴さんはため息まじりにシートベルトを装着してくれる。
そして、僕に視線を向けずに、ぼそりと言った。
「今、私は、心底アルファで良かったと思っています」
「……え?」
意図のつかめない言葉に、僕はぼんやりと疑問符を発した。
けれど由貴さんは何も答えず、自然に僕から距離を取り、エンジンをかける。
すっ、と音もなく、滑らかに車が発進した。
無言のまま進む車は、そのまま僕が望んだ通りの『海』に辿り着く。
「降りますか?」
「……ううん」
淡々と問われた質問に、僕は俯いたまま小さく首を振る。
由貴さんは「そうですか」と無感動に言うと、そのままUターンして元の道を戻り始める。
エンジン音しかしない車内は重い沈黙に満ちていた。
息苦しい空気に僕が何か言わなければと思い始めた頃、由貴さんが口を開いた。
「私はアルファで、君はオメガです」
「……うん」
突然言われた台詞はあまりに当たり前で、僕は戸惑いながら頷く。
あまりにも今更の前提に。
「わか、ってるよ?」
「いいえ、分かっていません」
掠れた声で呟くと、由貴さんは「ふっ」と小さく鼻で笑った。
どこか自嘲するように。
「『番』の契約は、アルファがオメガを噛んで成立する……だから、選択権はアルファにあるんです」
ひゅっと、僕の喉が鳴る。
まるで氷のナイフのように、その言葉は僕の心臓を貫いた。
「どれほど興奮状態にあろうとも、わずかな理性さえが残っていれば、番うことを望まぬアルファがオメガのうなじを噛むことはない。……だから、君の計画には無理があったのですよ。颯斗くん」
物の道理を弁えた大人の顔で、由貴さんが小さく笑う。
しょせんは子供の悪戯だ、許してあげますよ、と言わんばかりの顔で。
「ぼ、く、本当に、由貴さんのこと、好きで、欲しくて、……由貴さんのモノに、なりたくて」
途切れ途切れに押し出される僕の言い訳に、由貴さんは「ははっ」と乾いた声で笑って遮った。
「誰かのモノになど、どうやったってなれませんよ」
十数メートルおきの灯だけが光る夜の暗い道の中、道に迷うこともなく静かに車が進む。
「かつて……うちの父は、母を自分のモノにしたくて、無理やりうなじを噛みました」
「っ、え」
唐突に告られた淡々とした由貴さんの告白に、僕は息を飲んだ。
「母は、父を決して許さず、愛しませんでした。けれど抑制剤の効きにくい人だったのか、ヒートのたびに性欲を堪えきれなくなり、父に手を伸ばしたと聞きます。だから、父は信じていたのでしょう。感情が追いついていないだけで、もっと根源的な、本能的な部分では、母に許されていると。…… けれど、それは間違いだった」
ピカッと、すれ違う車のヘッドライトが車内を照らし出す。
由貴さんは、ひどく静かな、落ち着いた顔をしていた。
「まちが、い……」
ぽつりと鸚鵡返しに呟く僕に頷いて、由貴さんは薄く笑った。
「母は何の迷いもなく、父を捨て、昔から想いあっていたという人間と去って行きました。アルファを求めるオメガの本能も、母の心には敵わなかったんです」
由貴さんの母親は、夫も子供も捨てて、愛していた人と去った。
全て、母から聞いていたことだ。
でも、由貴さん本人から聞くと、これほど痛みを伴うのかと思うほど、胸が痛かった。
「父はずっと後悔していました。『運命の番』という言葉を免罪符に、母の意思を無視して無理矢理番にしたことを」
自分の犯した罪を、目の前に突きつけられ、僕は心臓を押さえた。
せっかく得ていた信頼を、僕は最悪の形で握り潰したのだ。
「ご、めんなさいっ、ごめんな、さいぃ……」
かたかたと震えながら泣きじゃくる僕に、困ったように笑って、由貴さんはため息をつく。
「未遂、ですから。君を、そこまで追い詰めてしまった私にも非はありますし」
落ち着いた声で話す由貴さんの言葉を、嗚咽の中で必死に拾いあげながら、僕は絶望していた。
「まぁ、これに懲りたら、今後は、こんな真似はしちゃいけませんよ」
あっさりとした言葉に、もはや泣き声も出ない。
捨て身の求愛も何もかも、由貴さんの中では、そんな一言で終わらせてしまえる程度のことだったのか、と。
ただ僕は、由貴さんと築いてきた関係を失っただけなのか、と。
目の前が真っ暗になる。
目頭は壊れた蛇口のように涙を零し続けているが、もう何が悲しいのか分からなかった。
声もなく泣きながら、ついさっきまで興奮の坩堝と化していた体を抱きしめる。
熱い抱擁を受けたはずのカラダはやけに空虚で、冷えきっていた。