捨て身の求愛
観覧車を降りた僕たちは無言で、人の減った遊園地を歩いた。
子供連れの姿は少なくなり、代わりに寄り添う恋人達が増えてきた。
手を繋ぎ、腕を組み、触れ合いながらゆっくりと歩いている彼らは至極幸せそうだ。
目の毒になる光景から目を逸らし、僕と由貴さんは半歩分の距離を開けて歩く。
中から見る入場ゲートは、ひどく殺風景だ。
夢の世界から現実へ戻る瞬間を、まざまざと実感させる。
「ありがとうございました」
「またのお越しをお待ちしております」
スタッフから掛けられる声に、お礼と会釈を返して、僕らは会話もなく歩く。
だだっ広い駐車場の端に停めてある由貴さんの車が見えてきた。
ごくり、と唾を飲み、僕は震える手を握り込む。
そして努めて軽い口調で、少し前を歩く由貴さんに声をかけた。
「ねぇ、由貴さん。家に帰る前にドライブしたいな。海が見たい」
「え?海、ですか?」
突然の僕の発言に、由貴さんは足を止めて首を傾げる。
「海に行っても夜じゃ何も見えませんよ」
「そんなことないよ、この近くの岬から見る海は、夜も綺麗だって聞いたんだ」
「うーん、でも、もうそろそろ帰路につかないと、家に着く頃には八時近くなりますよ」
渋い顔をする生真面目な由貴さんに、聞き分けの悪い子供の振りでごねる。
「やだ!海に行きたい!」
「しかし……」
しぶる彼に、僕は上目遣いで抱きついて頼んだ。
「今日は、お願いを聞いてくれるんでしょう?」
「……はぁ」
考え込んでいた由貴さんは、諦めたように一つため息をついて了承した。
「仕方ありませんね。少しだけですよ?」
「やったぁ!」
警戒心を抱かせない、無邪気な幼い子供の顔で笑う。
「ありがとう!由貴さん、だいすき!」
「ふっ、まったく、調子の良い」
保護者の顔で呆れる由貴さんに、僕は心の中で「ごめんなさい」と呟いた。
これから僕はあなたを酷く裏切る。
そしてそのことに高揚を禁じ得ないのだ。
あぁ、裏切りというのは、なんて甘い毒なのだろう。
穢れない満面の笑みの下で、狡猾な僕がうっそりと笑う。
年上の美しいアルファを陥れようとするおぞましい行為への背徳感に、背筋が震えた。
僕の頼んだ通りの道筋で、由貴さんは車を走らせてくれた。
海を目掛けて夜の道を走る車の中は、とても静かだ。
周囲には民家もなく、ただ白い車線だけが先へ続いていく。
助手席で何を見るともなく窓の外を眺めながら、ハンドルを握る由貴さんの姿を盗み見る。
本当に、何をしても嫌になる程に様になる人だと思った。
暗い夜を見つめる瞳に迷いはなく、硝子のように透明だ。
色白の肌にシンプルな紺色のセーターがよく映えて美しい。
長い指先で漆黒のハンドルを優雅に操り、危うげなく夜道を滑る。
由貴さんの判断はいつも驚くほど的確で、与える評価はいつだって正確だ。
まだ大学を卒業してもいないくせに、由貴さんはちゃんと『大人』だ。
自分の感情を制御して、最適の人生を理性的に選択する由貴さんにとって、感情の赴くままに走り抜ける僕の行動は理解出来ないことだろう。
そして、今から僕が選ぶ行動は、あまりにも感情的で本能的な、由貴さんにとっては理不尽極まるものだ。
きっと由貴さんは僕の選択を愚の骨頂と断じ、軽蔑するのだろう。
そう自嘲しながら、僕は胸のポケットから、小さな包みを取り出した。
濁ったピンク色のキャンディを、ぽい、と口の中に放り込む。
ガリ、と噛み砕けば、中から科学的な甘味が染み出した。
さぁ、僕らの終わりの始まりだ。
目の前の信号が赤に変わる。
ゆっくりとスピードを緩める由貴さんに、僕は何気なさを装って尋ねた。
「ねぇ、飴舐める?」
「ん?」
停車し、こちらを振り向いた綺麗な顔に、ニッコリと笑いかける。
周囲に車がいないことを確認して、僕は思い切り彼のシャツの襟元を引っ張った。
「口に入れてあげる」
「へ?っん」
無理矢理合わせた唇から、砕いた欠片を押し込む。
驚愕に見開かれた目が、視界の真ん中で二重になっている。
あまりに距離が近いからだ。
嫌がって抵抗する体を、シートベルトの力を借りて必死に押さえつける。
ちっとも色気のない、いっそ暴力のようなファースト・キス。
ごくり、と由貴さんが飲み込んだのを確認して、僕は口を離した。
「信号、青になっちゃった。……ねぇ、どこかで停車した方がいいと思うな」
彼の澄んだ黒目の中で、僕が悲しげに笑っていた。
僕の言葉に目を見開いた由貴さんは、びくりと震えると、即座に車道を逸れて車を止めた。
そんな判断も笑ってしまいたいほど的確だ。
体の違和感を感じたのだろう。
由貴さんは潤み始めた瞳で、僕を睨みつけた。
「はや、とくん、これはっ!?」
「ふふ、効きが良いね、由貴さん」
媚薬と呼ばれる興奮剤が仕込まれたキャンディー。
噛み砕いて砂糖のコーティングを壊したソレを、無理やり飲み込ませたのだ。
効き目はさぞ早いことだろう。
「ハッ、ハァッ、ったく、こどもが、馬鹿な真似を……ッ」
荒い呼吸の中、僕を罵倒した由貴さんは、胸元から携帯電話を取り出す。
震える指でどこかへ連絡しようとする動きを、僕は簡単に封じた。
「だめだよ。……まぁ、ココ、圏外なんだけどね」
「け、んがい?」
呆然とした顔で、由貴さんが呟く。
由貴さんの手の中の小さな精密機器をひょい、っと奪い、僕は後部座席の下に投げ込んだ。
「そう。だから、諦めて?由貴さんの『熱』が治らないと、ここから帰れないよ?だって……僕、子供だから、運転できないもの」
「このっ、悪ガキが……ッ!」
罵る声には力がなく、無理やり引き摺り出された欲に濡れている。
「よい、しょ」
「うわッ」
僕は由貴さんの上にのしかかり、運転席のレバーを引いた。
バタン、と後ろに倒れた座席の上で体を重ね、紅潮した顔を両手で押さえつけた。
「や、めなさい、颯斗くんっ、後悔するぞ!」
「しないよ」
獰猛な目で、けれど必死に忠告してくれる由貴さんは、僕の未来を案じてくれているのだろう。
このままでは僕は、レイプ犯という罪を背負って生きていくことになってしまうのだから。
でも、後悔なんてしない。
この人に二度と触れられなくなるくらいなら、これから先の人生なんて壊してしまう方がマシだ。
「ねぇ、他の人と結婚なんてしないでよ。僕のものになってよ。……それが無理なら、僕もあなたのものにしてよ、由貴さん」
泣き出しそうな声の懇願を絞り出して、僕はすぐ近くの唇に噛み付いた。