夕闇の観覧車
言い争いの後、少しだけギクシャクとしながらも、僕らはそれなりに楽しく遊園地を回った。
ミラーハウスで逸れて瞬間的にパニックになったり、コーヒーカップを回しすぎて乗り物酔いしたり、嫌がる由貴さんをメリーゴーランドに乗せて「リアル白馬の王子様だ」とはしゃいだり、日の暮れてきた遊園地の真ん中を進むパレードに手を振ったり。
「あー楽しいー!」
夕飯のホットドックを頬張りながら両手を空に上げて叫んだ僕に、由貴さんは「それは良かった」と微笑した。
「私も、思ったより楽しめました。遊園地というのは、こういうところだったのですね」
「え!?由貴さん、遊園地来たことないの?」
僕の言葉に由貴さんは目をパチパチと瞬いて、口に手を当てて俯いた。
暫く考え込んだ後、由貴さんは苦く笑いながら首を振る。
「……そうですね。来たことない、かもしれません」
「うっそぉ」
遊園地に来ない子供とか、いるの?
心の中で呟いたはずの疑問が、顔に出ていたのだろう。
由貴さんは、なんでもないことのように「本当ですよ」と言って笑った。
僕は信じられなくて、目を丸くして声を失った。
僕は遊園地が大好きだし、母も姉も大好きだから、年に何度も連れてきてもらっている。
姉が家を出る前は、よく家族四人で駆け回ったものだった。
家族で外出する時の定番だった。
「え、っと、じゃあ久遠家では、おでかけはどこに行っていたの?」
「……ふふ、おでかけ、ですか」
僕の純粋な疑問から溢れた問いかけに、どこか歪んだ笑みを浮かべて、由貴さんは自嘲するように言った。
「うちは、両親が不仲でしたから。家族で出掛けるようなことはなかったんです。小学校の時の遠足も、こんなだだっ広い、警備の不確かな場所には来ませんでしたし。……おそらく、記憶にある限りでは初めてですね」
「あ……っ」
数年前に由貴さんのお母様は、お父様と子供達を捨てたのだと、母に聞いたことを思い出した。
そのことは、社交界では、絶対のタブーなのだと言う。
由貴さんのお母様には昔から好いていた人が居て、その人が迎えに来たから久遠家を出て行ったらしい。
あんなに立派なアルファの番を捨てるとは、剛の者だと密かに話題になったものだ、と母は笑っていた。
いっそあっぱれだ、と。
けれど、僕は思う。
母親が子供を捨てるなんて、あまりにも情がない、と。
躊躇いもなく子供を置いて出ていくような母親だ。
きっと、幼い頃も、由貴さんは愛情を注いでもらえなかったのだろう。
僕の脳裏には由貴さんの子供時代が灰色で描き出される。
きっと由貴さんは、僕のように不満を言うこともなく、親に反抗することもなく、淡々と過ごしたのだろう。
そう思うと、小さい頃の由貴さんが可哀想でしかたなくて、涙がこみ上げてきた。
「あぁ、何を心配しているのか知りませんけど、うちには兄が二人いましたし、父も忙しい人の割には子供のことを気にかけてくれていましたから。私の子供時代は、君が想像しているほど惨めではありませんよ」
俯いて地面を睨みつけている姿に、僕の心情を察したのか、由貴さんは慌てたように言った。
「それに、どちらかと言えば、上流階級では私のような家の方が普通で、君の家の方が変わっているんですよ」
「え?」
苦笑混じりの由貴さんの言葉に僕が首を傾げると、由貴さんは優しい目で僕を見つめた。
「君がとても幸せな子供だと言うことです。……良かったですね」
小さい子供を慰めるように頭を撫でられて、僕はどうしていいか分からなくなった。
「さて、そろそろ帰りましょうか。もう六時近いですし」
ふと腕時計に視線を下ろして、空気を切り替えるように、由貴さんは口を開いた。
「あ。待って!」
地図を取り出して出口の方角を調べだした由貴さんに、僕は慌てて尋ねた。
「ねぇ、……最後に観覧車に乗ってもいい?」
「え?あぁ、構いませんよ。君にしてはマトモなチョイスです」
「デートと言えば、観覧車でしょ?」
お茶目に笑って、不慣れなウインクを送れば、由貴さんもクシャリといつもの顔で笑ってくれた。
「なるほど」
一周するのに十五分かかるという巨大な観覧車の中。
向かい合って座りながら、僕達は静かに夕闇の街を見下ろしていた。
「今日は、一日相手してくれてありがとうね。お仕事の調整、大変だったでしょ」
僕たちの乗る小さな箱が、半分ほどの高さまで来た頃、僕は口を開いた。
「とっても楽しかった。本当にありがとう」
「おやおや、颯斗くんにしては、随分と殊勝な言葉ですね」
「ふふん、僕だって成長してるんだよ。……由貴さんの忙しさだって、分かってるんだから」
三男とは言え、久遠財閥の御曹司としてグループの仕事を手伝っている由貴さんは、それなりに多忙なはずだ。
小学生のお願いに丸一日付き合うなんて、本当はかなり無茶だったはず。
「本当に、成長しましたねぇ」
まるで教え子の成長を見るような目で見てくる目の柔らかさに、僕はむず痒さ……いや、歯痒さを覚えた。
どこまでも僕を『子供』としてしか見ようとしない由貴さんに。
僕は『可愛らしい子供』ではなく、『オメガの性を持つ恋愛対象者』として見て欲しいのに。
「ねぇ、由貴さん。……お見合いしたの?」
「……おや、どこから聞きましたか?」
「ナイショ」
唐突に切り込んだ僕に、由貴さんはかすかに目を見張った。
「なるほどねぇ、だから颯斗くんは、あの日あのホテルに居たのですか。一体どんな経路で情報を入手してるんですか、君は」
情報入手経路については黙秘を通す僕に、由貴さんは慣れたような顔で「まぁ、いいですけど」と呟いた。
「本当ですよ。おそらく近々結婚します」
「その人のこと、好きなの?」
まっすぐに目を見つめて発された、僕の幼稚な問いかけに、由貴さんは「くく」と喉で笑った。
「……家と家の繋がりに、とても良いお相手ですよ」
子供の夢みがちな発言でも、中途半端に誤魔化すことなく答えてくれて、ホッとした。
好きだから結婚するのだ、と言われたら、僕にはもうどうしようもなかったから。
「じゃあ、愛はないの?愛していないのに結婚するの?」
畳み掛けるように訊ねる僕に、由貴さんは芝居がかった口調で「愛?」と呟いた。
「愛なんて不確かなものを婚姻に求めてどうしますか。結婚は法的な契約です」
冷め切った口調で言い切る由貴さんに、僕は必死に言い募る。
「由貴さんは、それでいいの?幸せになれるの?」
「幸せ?ふふ、颯斗くんはお子様ですね」
どこか嘲るよう顔で僕を見て、そして由貴さんは暗くなってきた空を眺めた。
温かみのある橙から、徐々に途切れなく色を変え、藍に変わっていく空は幻想的で、時を忘れさせる。
日常に潜む自然の神秘のような色彩の変化を見つめている瞳には、遠い世界を見ているような暗さがあった。
「自分が愛した人間と番ったところで、幸せになれるとは限らない。愛して求めて番になったって、相手に嫌われて憎まれて、悶え苦しみながら日々を送ることになるかもしれない。それなら最初から、理性的に条件で選んだ方がマシです」
吐き捨てるように言うと、由貴さんは初めて会った日のような作り笑いを浮かべて、僕に言った。
「先日会ったオメガは可愛らしく素直そうな子でね。愛や恋よりも、何事もなく進む穏やかな日常が尊いという思想が一致しまして。良い夫婦になれそうでした」
彼女もいろいろあったのでしょうね、と独り言のように呟く。
由貴さんの声には同情こそ含まれていても、愛情は感じられなくて、そのことが嬉しいのか悲しいのか分からず、僕は眉根を落とした。
「僕、由貴さんのこと好きだって、何回も言ってるのに。それは、考慮する価値もないことなの?」
必死に絞り出した懇願じみた非難は、由貴さんの感情をわずかも揺すりはしなかったようだ。
唇に柔らかな苦笑を載せて、由貴さんは口を開く。
「考慮もなにも……君の『恋』は気の迷いでしょう」
「気の、迷い?」
由貴さんの言葉を鸚鵡返しにして、僕は呆然と固まった。
五年間捧げた僕の心を、一言で切り捨てて、由貴さんは薄い唇から淡々と、僕を殺す言葉を紡ぐ。
「幼い日の曖昧な感覚だけで『運命の番』なんて言って。自分の言った言葉に囚われているんですよ、君は」
由貴さんは、くすくすとおかしそうに笑って、まるでスーパーマンになりたいと夢を語る幼稚園児を見るような顔で、僕に優しく語りかける。
「中学校、高校、大学。君の世界はどんどん広がる。そして出会いも増えるでしょう。そうすればきっと気がつきますよ、自分の言っていた言葉の愚かしさに。人生に必要なのは、理性的な思考と判断です。感情で動けば必ず破綻します」
だから自分の選択は正しいのだ、と言う由貴さんの言葉を僕は歯軋りしながら聞いた。
由貴さんは苦しんだ大人で、僕はシアワセな子供だ。
だから由貴さんは、僕の話をまともに聞こうとしていない。
そう感じても、言わずにはいられなかった。
「そんなことないよ!それに、条件だけで結婚するなんて、相手に失礼だよ!」
「お互い承知の上ですよ。その上で、『穏やかで幸せな日常』を築いていこうと合意したのです」
必死に訴える僕の言葉を全て夜の闇へと投げ捨てて、由貴さんは淡々と話す。
「それで良いのか、って君は言いますが、政略結婚なんて、我々ほどの家になれば、当然でしょう。そもそも個人の幸せなど二の次です。颯斗くんの家も、そうでしょう?」
「……そんなの、しらない」
「そう、君は、知らないだけです。どこも同じですよ」
確かに後継であるアルファの姉には、生まれた時から許嫁がいる。
彼らは幼馴染で育って、早く番になりたいとずっと言い続けてきた。
そして初めての発情期の時にうなじを噛んで番いになったのだ。
早すぎないか、と驚く周囲の反応を軽く受け流して、したたかでしなやかな二人は、何食わぬ顔で笑っていた。
「なんで早く番になりたかったの?」
「『ウンメイ』にするためよ」
幼い僕の問いかけに、姉も義兄も、笑って答えた。
今にして思えば、二人は運命の番ではなかったのだろう。
けれど愛し合っていたから、互いの運命が現れる前に番ったのだ。
推測に過ぎないけれど、僕はそう思っている。
そしてそのことを、とても羨ましく思ってもいる。
二人は二人の間に、堅実な信頼と愛情を築いていた。
姉の成人と同時に入籍した彼らは、家の事情で結婚しているけれど、幸せそうだ。
もうすぐ甥も生まれる。
彼らの幸せは彼らが努力して手に入れたものだ。
与えられた自分の人生を、自分で選んだ運命にするために。
そして自分の望む運命を手に入れ、奪われないために。
彼らは必死に努力したのだ。
「そっか。……分かった」
迷いが消えた。
姉様の言っていたことがちょっとだけ分かった気がするよ、と心の中で呟いて、僕は目の前の大人の顔をしたアルファを見上げた。
「子供っぽいことばっかり言って、ごめんね」
「君が子供っぽいのは仕方ありませんよ、子供なのですから」
「ふふ。……ひどいなぁ」
澄まして言う由貴さんに、僕は心の中で「ごめんね」と告げた。
ねぇ、姉様。
僕も選ぶよ。
僕の運命を。
たとえ嫌われたとしても、僕はこの人のモノになりたい。