口にした賭け
ホテルのラウンジで母とパフェを食べていると、見慣れた姿がエレベーターから降りてきた。
「あ、来た」
「はいはい、いってらっしゃい」
分厚い恋愛小説を読み耽りながら、母はひらひらと僕に手を振る。
食べかけのパフェの横にスプーンを置いて、僕は足早に進んだ。
「あれれぇ?由貴さん、偶然だね!お久しぶりです!」
「……颯斗くん」
どこかうんざりとした顔で振り返った由貴さんは、頭痛がする、と言って眉間を揉んだ。
「えぇ、えぇ、約一週間ぶりですね。確かに久しいかもしれません」
なげやりな口調で同意した由貴さんは、「あぁもう、忙しいのに」と吐き捨てながら僕に向き直った。
なんだかんだ、僕が現れると相手をしてくれる由貴さんは、やっぱり甘い。
「一体君は私のスケジュールをどうやって把握しているのですか。なんで私の行く先々に君が現れるのですか。今日の予定は一昨日決まったんですよ?そもそも今日は平日です。君は小学校をサボっているんですか?私は自堕落と不勉強と不真面目は嫌いですよ!」
「サボってないよ!ちゃんと勉強してるもん!今日は創立記念日で休校なの!」
ぷぅ、と頬を膨らませて抗議する僕に、由貴さんは「はいはい、そうですか」と面倒くさそうに片手を振った。
「私は忙しいんです。用があるなら手短にお願いしますよ」
一応話は聞いてくれるという優しい言葉に、僕はくしゃりと表情を崩した。
由貴さんは本当に、狡いくらいに優しい。
「じゃあ単刀直入に。……ねぇ由貴さん、僕と賭けをしない?」
「賭博など致しません」
「ちーがーう!えっと、勝負しよ!」
つとめて軽く提案すれば、冗談の通じない由貴さんに、バッサリと切り捨てられた。
僕は慌てて言い直し、説明した。
「あのね、僕、今の附属中学じゃなくて、由貴さんの母校を受験することにしたの」
「へ!?あそこはかなり難関ですけども。君、そんなに優秀でしたっけ?いかにも勉強の嫌いそうなお調子者の顔をしていますけど」
「ほんっっとうに最近失礼だよね!」
近頃とみに僕に対して失礼発言が増えてきた由貴さんに、僕は全開の笑顔でツッコミを入れた。
気を許し始めた証拠だから、良い傾向である。
「ねぇ、もしも僕が、中学入試で並居るアルファを押し退けて首席を取れたら、僕と一日デートしてよ」
「は?」
にこ、と微笑んで、由貴さんの目を見つめる。
頼むから受けてくれ、と願いながら。
これは、僕の賭けだ。
受けてくれた時点で、ほとんど僕の勝ち。
「……いいですよ?入るだけでも十分難関ですから、首席はまず無理でしょうけどね」
しばらく黙った後で、由貴さんは了承を呟いた。
そして、ふいと顔を背けて、ポツリと呟く。
「だから、まぁ、……勉強、頑張りなさい」
「ふふっ、うん、ありがとう」
「おかえり」
「ただいま」
僕が席に戻ると、母はパタンと本を閉じて、僕の顔を見た。
「聞けた?」
言葉少なに訊ねる母に、僕も短く返す。
「ううん、聞いてない」
「へ?じゃあ颯斗、あなた何をしに来たのよ」
わざわざ何時間もホテルで待ち伏せをして、結局何も聞かずに帰ってきたのか、と母は非難するような顔をした。
母の横に積まれた文庫本は三冊。
「まったくもう。読書が進んじゃったじゃないの」
呆れきった顔で本を鞄にしまいながら、母はため息をついた。
それだけの時間、僕に付き合ったのだから、その文句ももっともだ。
けれど。
「だって聞かなくても分かるもん」
「え?」
僕の呟きに顔を上げた母から目を逸らし、俯いて大きく息を吐いた。
何度か深呼吸を繰り返してから、僕は涙を堪えながら、言葉を絞り出した。
「多分ね、……お見合いは、嫌になるくらい成功してるよ」
近づいた瞬間に匂った、僕の知らないオメガの匂い。
かなり近くまで寄らないと……それこそ、腕を組むか抱き合うくらいしないと染み込まないはずの、移り香。
「あーあ、嫌になっちゃうなぁ。由貴さんがそんなフシダラな真似するなんて、思わなかったよ」
あの品行方正な由貴さんが、会ってすぐのオメガとベタベタするなんて、衝撃だ。
まったくもう、見損なったよ。
僕とはちっとも仲良くしてくれないのに。
……ひどいじゃないか。
心の中でうじうじと恨み言を連ねながらテーブルを睨みつけていると、頭の上から母のあっけらかんとした声が落ちてきた。
「あら、じゃあ、潔く身を引いちゃうの?諦める?」
面白がるような母の言い方にカチンときて、僕はガバッと顔を上げた。
「まさか!これくらいで諦めるなら、もうとうの昔に諦めてるよ」
「そうよね、かれこれ五年も相手にされてないんだもの。落ち込むのも今更よ」
きっと激励しているつもりなのだろうが。
励まし方がひどい。
もう少し言葉を選ぶべきだ。
……でも、確かに落ち込むのは今更だし、落ち込む時間が無駄だ。
「僕が先に見つけたのに、急に出てきたよそのオメガに奪られるなんて、許せない。断固として立ち向かうよ」
拳を握りしめる僕の肩を叩き、母は満足げに頷いた。
「ふふ、それでこそ、噛み付いたら離さない『スッポンのオメガ』の息子よ!」
「スッポン!?」
唐突に告げられた言葉に、僕は思わず吹き出した。
「あははっ、何それ!?母様、昔ホントにそんな渾名で呼ばれてたの?」
「ええ、実の父親にね」
「お祖父様に!?」
まさかの実父からの評価だった。
僕を猫可愛がりする祖父を思い出しながら、目の前の母をまじまじと見つめてしまう。
スッポンとは似ても似つかない、人形のように繊細な美貌を。
「そうよ。『お前に好かれてしまった甥がもはや哀れだ』『死ぬまで逃げられまい』って言ってね、厳格なあの父が謝って頭を下げたのよ。『諦めて婿に入ってくれ』って。失礼しちゃうわ」
パチン、と手慣れたウインクとともに教えられたのは、若き日の父と母のラブ・コメディの一幕。
確かに、欲しいものを手に入れるためには手段を選ばない母の前で、気弱な父はほとんど無力だろう。
「ふ、はははっ。でも、母様だけじゃなくて父様も、今幸せだよね」
「ええ、もちろん。そしてあなただって、当然幸せになるのよ?」
「ふふ、……うん」
分かりにくいけれども、母は父をとても愛しているのだ。
そしてこれは、母から僕への、分かりにくいエールなのだろう。
「絶対諦めない。僕の幸せには、由貴さんが不可欠だから」
下らないプライドもロマンもモラルも、何もかも捨ててやる。
「……そのためなら、なんでもするよ」
僕は、由貴さんのモノになれれば、それで良いのだから。