発情の気配
「ねぇ由貴さん、そろそろ僕と結婚してくれる気になった?」
「なりませんよ。なるはずないでしょう」
お家訪問するまでに仲良くなった僕は、毎回同じ問いを繰り返している。
そして、にべもなく切り捨てられるのもいつものことだ。
「えー、もう適齢期なのにー」
「適齢期なのは私で、あなたはまだ児童でしょう」
「つれないなぁ」
文庫本に視線を落としながら、砂糖もミルクも入れないコーヒーを飲むのは、二十を過ぎた大人だ。
目の前の体から匂い立つ成熟したアルファの香りに、僕の未熟な子宮がずくりとうずく。
あぁ、僕も早く大人になりたい。
早く大人にして欲しい。
そんな欲望まみれの内心を子供の顔で包み隠して、無言で文字を追う由貴さんの横顔をじっと見つめる。
綺麗なその目で僕を見てよ、と念じながら。
すると。
チッ
「……え?」
不意に、綺麗な顔に似合わない、苛立たしげな舌打ちが聞こえた。
うっとりと見つめていた横顔は、いつの間にか眉間に深い皺を何本も刻んでいる。
「……っ、颯斗くん、その妙な匂いをさせるのをやめなさい!」
「へ?」
どこか焦ったように、強い口調で告げられて、僕は初めて気づいた。
自分が『発情』しかけていることに。
「え?え?なにこれ」
欲情に連動して、どうやら放出されてしまったらしいフェロモンに、僕は慌てた。
フェロモンを垂れ流すなんて、あまりにもはしたない。
下手をすれば、『オメガによるアルファのレイプ未遂』だと捕まってしまうかもしれない。
「ご、ごめんなさい!」
「…… 颯斗くん、君、薬は?」
由貴さんが手の甲で口と鼻を覆い、厳しい目で戸惑う僕を見る。
「も、持ってない!だって僕、まだ、声変わりもしてないし、毛も生えてきてないし、まだずっと先だって……っ!」
ヒートが来るのは、二次性徴の終盤。
男子なら精通が、女子なら初経が来た後のはず。
それなのに。
「あ、……はぁっ」
必死に深呼吸しても、体はじわじわと訳の分からない興奮に侵されていく。
なんとかコントロールしようとしても、焦るほどに涙腺と体は熱くなり、吐く息の温度も上がっていく。
「ど、どうしよう……」
まだ二次性徴は来ていないから、ヒートが来るはずないのに。
近くにいるのに触れられない目の前の人間に焦がれ過ぎて、脳と体が勘違いをしたのか?
欲求不満すぎて、とうとうヒートに似た状態になってしまったのだろうか?
「ぼ、僕帰る!」
下半身が濡れてきているような気がして、慌てて上着を脱いで腰に巻いた。
おねしょを隠そうとしていた昔を思い出す。
「はぁっ、ふ」
まるで高熱を出した時のように呼吸が荒い。
どんどんと体が熱くなってきて、目が潤んでくる。
あぁ、どうしよう。
家に帰るまでもつだろうか。
途中で襲われたりしたらどうしよう。
半泣きになりながら、少しでも熱を冷まそうと自分をパタパタと扇いでいると、ハァ、と呆れたようなため息が聞こえてきた。
「まったく、まだ子供のくせに、一丁前に……」
不機嫌そうに眉を顰める由貴さんに、ふしだらだと思われたのかと不安になる。
「うぅ……ひっく……」
「まったく、仕方ない子ですね」
どうしていいか分からず泣き出した僕に、不愉快そうな、けれどどこか諦観したような顔をして、由貴さんは柔らかいため息をついた。
そしてどこかから一粒の錠剤を取り出して、立ち尽くしている僕に渡した。
「ホルモンを整える薬ですよ。市販薬だから、医者が処方する抑制剤ほどじゃありませんが、思春期のホルモンの乱れくらいなら、これでも治まるはずです」
その言葉に、慌てて水で流し込むと、確かに徐々に体から熱が引いてくる。
決壊していた涙腺も復旧して、濡らしてしまったと焦ったズボンの湿りも汗だったと気づいた。
「よ、かったぁあああ」
安堵のあまりへたり込んだ僕に「思春期の年頃にはままあることです。気にしないように」と由貴さんは落ち着いた大人の顔で淡々とフォローしてくれた。
優しい。
ジーンとしている僕をチラリと見ると、由貴さんはアッサリと机に伏せてあった文庫本を再び手に取り、元のようにソファに腰掛け直した。
「これからは薬を持ち歩くようにしなさいね。……まぁ、颯斗くんには、ヒートはまだ早いと思いますけど」