少しずつ近づく距離
僕は毎日由貴さんへ手紙を書いた。
ほとんど日記のようなそれを、彼が読んでいるのか捨てているのか、僕は知らない。
けれど、どちらでも良いと思っていた。
僕が毎日由貴さんを思い、ラブレターを綴っているということが大切なのだ。
由貴さんに僕の恋が本物だと信じてもらうために。
そんな健気な努力を続けた年の暮れ。
母がふと僕に尋ねた。
「颯斗、あなたも由貴くんに年賀状書く?」
「え?」
「あなた、まだ一度もお返事もらえてないでしょう?」
唐突な提案に首を傾げる僕に、母はなんでもないことのように告げた。
「お手紙の返事は来ないかもしれないけど、年賀状は『お付き合い』だから。礼儀を重んじる久遠家のご子息なら、返してくれるかもしれないわよ?」
「うーん……」
僕としては、策を弄しすぎて由貴さんに嫌われたくはなかったから、おとなしく手紙を書くだけでも十分だと思われた。
けれど、そんな僕の心情を見抜いたかのように、ぴらぴらと年賀状専用の葉書を揺らしながら、母は愉快そうに笑った。
「由貴くんが書いた颯斗の名前、見てみたくない?」
「っ、見たい!僕も年賀状書く!」
果たして小細工は成功して、僕は由貴さんから年賀状のお返しを手に入れた。
「うふふっ、由貴さんのお返事……!」
年賀状にはいつものようにたくさんの愛の言葉とそして一つだけ、質問を載せていた。
『由貴さんはどんな子が好きですか』
年賀状に書かれた返事は、由貴らしい端正に整った楷書で一文。
『私は馬鹿は嫌いです』
その一文を何度も読み返し、「くぅううっ」と唸った僕は、感動に耐えかねて拳でベッドを叩いた。
「まったくもうっ、由貴さんてばツンデレなんだからっ」
まだデレられたことはなかったけれど、僕はそう確信して、雄叫びをあげながら悶えた。
「待っててね!僕、誰よりも賢くなるから!」
その後、手紙には一切返事をしてくれないくせに、毎年年賀状だけは律儀に元旦に届くようになった。
嬉しい反面、家族公開での質問が出来なくなり、僕が舌打ちしたのは内緒の話だ。
***
「あっ、見つけた!由貴さぁーん!」
「あぁもうっ、いつもいつも、君は声も動きもうるさいんですよ!」
「えへへー、久しぶりに会ったから嬉しくて」
犬なら千切れるほど尻尾を振っているだろうな、と思いながら、僕は由貴さんに飛びついた。
久遠家の花見の宴に招かれた両親に強請りに強請って、僕はついてきたのだ。
「やっぱり由貴さんは綺麗だから、桜が似合うね!」
さらさらの黒髪に、切れ長の二重、通った鼻筋、薄い唇。
桜が象徴する日本的な美と、由貴さんの硬質な美しさはとても相性が良い。
「由貴さん、桜の木の精みたい!」
「……はぁ。自分こそ、黙っていれば妖精みたいな綺麗な顔をしているくせに」
ぼそりと呟かれた言葉は、あまりにも僕に都合がよすぎて幻聴だと思った。
「え?ちょ、も、もう一回言って!」
「いえ、なにも言ってませんよ」
「うそだ!」
しれっと流そうとする由貴さんに、僕は教えて教えて、としつこく粘った。
どうしても口を開こうとしないので、僕が最終手段として地団駄を踏もうかと足を振り上げると、由貴さんがとうとう諦めた。
「まったくしつこい……だから、美の才能を持っているオメガに言われると複雑だ、っと言ったんですよ。君の方が桜は似合うでしょう。黙っていれば、ですけどね」
「んふふ」
由貴さんの悔しげな言いぶりに、どうやらぽろりと溢した本音だったらしい、と思って僕はすっかり機嫌が良くなる。
「由貴さん、黙っていたら、僕は綺麗?僕の顔は好み?」
「……君は黙っていないでしょう。だからその仮定は無意味です」
容姿については否定をしない由貴さんに、僕は「そっかぁ~」と呟き、俯いて顔のにやつきを隠した。
オメガの特徴とされる線の細さも、華奢な手足も、全体的に繊細すぎる作りの目鼻立ちも、由貴さんとは似ても似つかないから好きじゃなかったけれど、由貴さんが綺麗だと思ってくれるなら、悪くない。
「よし、僕、この顔と体に磨きをかけるから!期待しててね!あと由貴さんの好みも教えてくれると助かるな!なるべくそこを目指していくからね!」
「……君とマトモに会話しようと思うことが間違いなのだと、やっと気がつきました」
重たいため息をついて、由貴さんが僕を眺める。
その目に浮かぶのは呆れと諦めと、少しの苦笑。
「とりあえず静かにしていなさい」と言ってぽん、と頭に乗せられた手は温かくて、僕は嬉しくて仕方なくなった。
「ねぇ、由貴さんは頭の良い子が好きなんでしょ?僕、たぶん割と頭悪くはないよ?どう?お買い得だよ?」
桜の下を歩きながら、すれ違う人々に優雅に挨拶をしていく由貴さんの周りを、僕はくるくると回りながら語りかけた。
周りの大人達は、僕を見て微笑ましそうにクスクスと笑っている。
これはもしや、公認の関係、というやつじゃないだろうか。
「私は『馬鹿が嫌い』だと言ったのです。ある程度の知性がないと、会話すら成り立ちませんからね。君は頭の回転は速いけれど、突飛なことを言ってばかりで、会話が成立しません。だからアウトです」
「ちぇー」
唇を尖らせて不服を訴えれば、行儀が悪い、と叱られた。
「私は無礼な人とマナーの悪い人は好きませんよ」
「僕すごく礼儀正しくてお作法もちゃんとした人になるよ!」
由貴さんの言葉に、僕は彼の前に飛び出して、拳を握りしめて宣言した。
僕の猛アピールに一瞬戸惑った後、由貴さんはプイと他所を向いて歩き出す。
「……それは良いことです」
「うん!頑張るから、見ててね!」
由貴さんに好かれるため、僕はお行儀良くアプローチすることに決めた。
***
僕は由貴さんと、順調に距離を縮めていった。
毎日愛の手紙を書き、パーティーなどの機会には必ず出向く。
由貴さんが家の仕事を手伝うようになってからは、由貴さんのスケジュールを入手して、あちらこちらで偶然に出逢うようにした。
その甲斐あって、しだいに僕は由貴さんと軽口を叩き合う程度には親しくなった。
十歳を過ぎた頃。
会えばすぐに飛びついて、纏わり付き続ける僕に、由貴さんは「もう大きくなったのだから、もう少し節度を持ちなさい」と叱った。
既に僕の身長は小柄な女性よりは大きく、周囲の目も『無邪気な幼い子供』を見るものではなくなってきていた。
『憧れのアルファを慕う幼いオメガ』ではなく、『将来有望なアルファに付き纏うはしたないオメガ』を見るような蔑みの目が、現れ始めていたのだ。
そして、ある日。
「君は良家の子息で、かつ自分の容姿がそれなりに美しく人目を引くということを、もう少し自覚すべきです」
道端で偶然出逢った由貴さんに、僕は喜びのあまり反射的に抱きついてしまった。
その結果、大いに周囲の注目と顰蹙を買い、通りがかりの厳格そうなお爺様に「最近の若者は人前で求愛をするのか!破廉恥にも程があるぞ!」とお叱りを受けたのだ。
「はい……面目ありません……」
そして今、僕は由貴さんに本気で叱られ、打ちひしがれている。
返す言葉もない、と僕は由貴さんの怒りが収まるまで、おとなしくお説教を聞いているつもりだった。
けれど。
「まったく、慎みのない……。オメガがあからさまな求愛行動をするなど恥じらいがないと思いませんか」
「なっ」
由貴さんの言葉が信じられなくて、僕は目を見開いて絶句した。
当然のように告げられた言葉の根にあるのは、『動物のように』発情期を有し、『本能的に好色』で『生物的にはしたない』オメガこそ、禁欲的に己を律し、慎み深くあらねばならない、という、上流階級の常識的価値観だ。
それは、笈川の家で育てられた僕には到底受け入れ難いもので、僕は初めて由貴さんに反発した。
「そんなのサベツです!性別で行動を変えるべきだなんておかしいよ!」
「颯斗、くん?」
顔を真っ赤にして主張する僕のあまりの勢いに、由貴さんは怒りも忘れてキョトンとしていた。
由貴さんにとっては、あまりにも当然の考えで、きっと僕が何に怒っているのか分からなかったのだろう。
戸惑ったように僕を見つめていた。
黒曜石のような瞳を睨むように見返しながら、僕は堂々と言い切った。
「さっきのお爺様が言っていたみたいに、人前で破廉恥なことするな、って話なら分かるよ。でも、オメガだからはしたないって、そんなの変でしょ!性別で常識や道徳やマナーが変わるなんておかしいよ!」
幼い子供の、闇雲な反論だ。
賢い由貴さんなら、言い負かすことことなど容易だっただろう。
けれど由貴さんは、口に手を当てて、考え込むように僕の言葉を聞いていた。
「僕はベータでもアルファでも、絶対由貴さんに全力で求愛するし、全力で抱きつくよ!オメガだからやめなさいなんて、絶対やだ!……だって大好きなんだもん!」
「……なるほど」
いっそ屁理屈のような僕の主張をきちんと聞き終わり、由貴さんは頷いた。
そして何度か目を瞬いた後に、「確かに、そうですね」と呟いて、恥ずかしげに視線を下げた。
「今のは失言でした。申し訳ありません。オメガであることは、あなたの行動を制約する理由にはなりません。…… TPOを弁えるべきだ、という苦言に留めましょう」
苦笑して肩をすくめながら、由貴さんは「本当に君は賢いですねぇ」と目を細める。
そして、どこか嬉しそうな顔でヨシヨシと頭を撫でてくれた。
「…… 自分で考え、判断するのは立派で、難しいことです。颯斗くんは偉いですね」
由貴さんは躊躇わずに間違いを認め、正面から子供の僕に向き合ってくれる。
そんなことが、たまらないほど嬉しくて。
僕は由貴さんを、ますます好きになった。