求愛喜劇の幕開け
笈川颯斗、十二歳。
つい最近初めての発情期で目を回したばかりの、男性体オメガだ。
安定志向で優しく気の弱いアルファの父と、呑気で明るく豪快なオメガの母から生まれた僕は、ポジティブで打たれ強くて諦めの悪いオメガである。
父と母はいとこ同士だ。
本家嫡男の一人娘であるオメガの母は十歳の時に、従兄弟のアルファの中から夫を選べと言われ、気の優しい父を選んだ。
理由は『アルファらしくないから、オメガらしくない私のことも受け入れてくれそうだと思って。……あと単純にいつも泣き出しそうな顔が好みだった』から、らしい。
我が親ながら、なかなかイカしている。
親族から「性別が逆だったら良かったのに」と散々言われ続けて辟易していたらしい彼らは、子供には『自分らしく生きろ』としか教えなかった。
だから僕は、自己肯定感がエベレスト級の素敵な少年に育った訳だ。
僕は世界中の人のことが好き。
だから、世界中の人も僕のことが好きだ。
ちょっと恥ずかしがり屋さんで、素直じゃないから言えないだけ。
僕が愛情を抱えて正面から突っ込めば、みんな諦めて僕のことを好きになるのさ!
……それくらいのノリで生きてきた。
その幻想が崩れたのは、五年前のパーティーの日。
一世一代のプロポーズを断られた時だ。
五年前のあの日。
パーティー会場を追い出された僕は、翌日から熱烈な求愛を開始した。
と言っても、七歳の僕に出来ることなど限度がある。
せいぜい、親伝いにラブレターを渡してもらうくらいだった。
「おはよう父様!これ、くどうさまにわたして!」
「はぁ!?っ、ごほっ、ゴホッ、う、ゲホゲホ」
目覚まし時計が鳴るよりも早くに飛び起きた僕は、出勤前の優雅なコーヒータイムを楽しんでいた両親の元に駆け込んだ。
一瞬固まった父は、飲みこむはずのコーヒーを喉に詰まらせて、むせ返りながら目を白黒させた。
「ごほっ、なっ、お前、まだ諦めてなかったのか!?」
「当たり前じゃん!ラブレター書いたから、渡して!」
満面の笑みで分厚い封筒を押し付ける僕に、父は真っ青になって「そんな真似、久遠様に出来ないよ!」と叫んだ。
「くくく、あっはっはっはっは!なんでそんな面白いことになってるのよ!あぁー、私も昨日行けば良かったぁー!」
「ちっとも良くないよ!僕は寿命が縮みそうだったんだから!」
そんな僕らを見て、昨夜の顛末を父から聞いていたらしい母は、「発情期前だから控えたのに」と心の底から悔しがっている。
高い位置で結ばれたチョコレート色の癖毛を揺らしながら楽しげに笑い、母は悪戯っぽく父を見た。
「いいじゃないの、どうせ今日も夜は飲んで騒いでの馬鹿な集まりでしょ?その隙に、久遠のご当主に渡せばいいじゃない。うっかり絆されてくれたら、あそこと縁続きになれるのよ?悪くないわ」
「馬鹿って言うな!こっちは大物ばっかりの中で胃に穴が空きそうになりながら、苦手な人付き合いを頑張ってるんだからね!?そもそも久遠様が『うっかり』絆されてくれるものか!!」
気軽な母の言葉に地団駄踏まんばかりに言い返す父は、社交的で人と話すのが何より好きな母とは対照的に、家が大好き家族が大好きの人見知りな引きこもりだ。
胃が痛い、と呻いて鳩尾を押さえる父に、母は呆れた顔でため息を吐く。
「あのねぇ、あなただってそれなりに『大物』なのよ?というか、ウチと久遠様のお宅なら、まぁ向こうの方が家格は上だけれど、そこまで差もないし、悪くない縁談なのではないかしら?」
頬に片手を当てながら暫し考え込んだ母は一つ頷くと、父の両肩に手を置いて言った。
「歳の差も十歳くらいでしょ?イケるイケる、イこう」
「何がだい!?君、交渉は僕の役目だから他人事だと思って!」
にやりと人の悪い笑みを浮かべながら親指を立てて見せる母に、父が泣きそうな顔で詰る。
「中は私、外はあなた。そう決めたのはあなたでしょう?……いいの?私がホイホイと外に出ても?私のこの美貌に有象無象の雑魚アルファどもが群がっても?」
「ぅううううう、イイワケないでしょうううぅ!?それに君、アルファだけじゃなくて、色んなトラブルも連れてくるでしょうが!」
明るいトラブルメーカーの母にベタ惚れの父は、情けなく絶叫しながらも、頭を抱えて机に突っ伏した。
「どうしよう、久遠の御当主、冗談通じない人なのに……」
「冗談じゃないから良いんじゃないのかしら?」
コーヒー片手にあっさり返した母に、父はガバリと身を起こして叫んだ。
「余計問題だよ!なんて言えば良いのさ!あの方に『うちの愚息があなたのご子息の運命の番だと言うのですが、婚約させませんか?』とでも!?……逆鱗に触れて全面戦争になったらどうするのさ!」
「げきりん?」
きょとんと首を傾げた僕を横目に見て、母が苦笑いする。
僕の疑問には気づかぬふりをして、母は父に助け舟を出した。
「普通に『一目惚れしてしまったようで』で良いでしょう。颯斗が『運命の番』だと騒いでたと知ったところで、子供のすることよ、許してくれるわ」
母の言い方に、僕はますます首を傾げる。
なぜそんな遠回しの言い方をするのだ。
もっと簡単で、スムーズな方法があるのに。
「なんで?運命の番って言えば、それで通じるんじゃないの?」
それは求愛、求婚と同義だ。
なにせ、結ばれることが定められた二人なのだから。
僕と彼が運命だと知れば、その怖い『くどうさま』も、きっとすぐに分かってくれるに違いない。
そう訴える僕に、両親は困ったように目を見合わせた。
そして一つため息をつくと、母は言葉を探しながらゆっくりと口を開いた。
「あそこの家に『運命の番』は禁句よ。……久遠様は、運命の番だったはずの前の奥様と離縁しているから」
「……え?」
あまりにも衝撃的な言葉に僕は声を失った。
だって、運命だ。
『運命の番』だ。
出会うことが奇跡とされている、魂の片割れ。
会えば一目で恋に落ち、離れることなど考えられなくなるという、互いのために作られた愛の器。
それが運命の番のはずだ。
それなのに。
呆然とする僕に、母は声に感情を乗せることなく、淡々と続けた。
「詳しくは知らないわ。今はもう久遠様も再婚されているし。その話題はタブーだもの」
「タブー……」
理解が追いつかなくて鸚鵡返しに呟いた僕に、オメガである母は皮肉な笑みを浮かべて言った。
「だって、アルファがオメガに捨てられる、なんて、ありえない……彼らにとって、そんなこと、あってはならないでしょう?」
でも、本当のことよ、と母は小気味良さそうに言い切った。
オメガが運命の鎖をひきちぎって、アルファを捨てたのよ、と。
いっそ晴れ晴れとした顔で、母は僕を見る。
「だからね、颯斗。久遠家の方に『運命』なんてマヤカシは通用しないわ。あなたはそんなものに頼らず、欲しい男を撃ち落としなさい。オメガのフェロモンなんてモノに頼らず、あなた自身の魅力で」
物騒な言い方で僕を煽り、母は若々しい美貌に、とてつもなくイイ笑顔を浮かべた。
「あなたの選んだ『運命』を、ね」
母のその言葉で、僕の懸命な求愛喜劇の幕が開けたのだった。