一週間のはじまり
俺たちは愛し合っている。
それは確かだった。
***
「修一、もう帰れる?」
クラスメイトが騒めくのと、幼い頃から耳慣れた声が俺の名を呼ぶのは、ほとんど同時だった。
「貴志」
振り返れば、やはり見慣れた顔が、教室の後ろの扉で首を傾げている。
山奥の夜空みたいに綺麗な黒髪がさらりと揺れて、くりりとしたつぶらな瞳の前を横切る。
「帰れる。行こ」
ガタンと音を立てて席を立つと、俺はカバンを肩にかけて、教室を出た。
貴志に注がれる視線を遮ることのできる自分の体格に感謝しながら。
俺の通う高校は、とても平均的だった。
アルファが通うにはあまりにレベルが低く、オメガが入るには少し難しい。
だから、アルファはもちろんいないし、オメガもとても少ない。
たいていはベータだ。
その中で貴志はとても珍しいことに、オメガだった。
そして俺は、その他大勢と同じく、ベータだった。
ただ、少しだけ人より体格が良くて、時にはアルファと間違われることもあるくらいには、容姿が整っていた。
それはきっと、幸運なことだったのだろう。
道行く途中で貴志に目を止めたアルファは、たいてい隣の俺を見て、「あぁ、番か」と呟く。
彼へ注がれる欲望の眼差しは、俺で少し足止めされる。
俺は、貴志を庇うことが出来る自分の外見に感謝していた。
そしてもし襲われたとしても、どうか貴志を守れるように、彼が意に添わぬ選択をせずに済むようにと、日々トレーニングを欠かさなかった。
物心つく前から隣にいる貴志は、俺の何よりも大切な宝物だったから。
「コホッ、あーもう、体調悪い」
籠る熱を押し出そうとするように軽く咳き込んで、うんざりしたように額に手を当てる貴志に、俺は苦笑する。
「発情期、もうすぐだっけ」
「あー、やなこと思い出させるなよ、馬鹿」
貴志は発情期の前に、決まって体調を崩す。
まるで自身の性への拒否が、彼に自家中毒を起こさせているようだと、俺はいつも思っていた。
「大丈夫か?」
そっと体を寄せると、普段より高い体温を感じて、眉を顰めた。
「……熱あるだろ」
「へーき。発情する前は、いっつもそうだから」
「でも」
せめて抑制剤を飲めば、少しは発情期前の症状も緩和されそうなものなのに、薬嫌いの貴志はよほどでないと飲もうとしない。
「熱があるってことは、もうフェロモン出てるんじゃないのか?……襲われたりしたら、どうするんだ」
ため息交じりに言えば、貴志は片方の口角を上げて悪戯めいた表情を浮かべた。
「だから修一と一緒にいるんだろ。しっかり追い払ってよね」
「……はぁ」
俺はしょせんベータだから、アルファが本気で襲ってきたら、きっとひとたまりもない。
それでも貴志が俺を頼る限り彼を守るために俺は体を鍛えるのだろうし、貴志が願う限り俺は誰を相手にしても死に物狂いで戦うのだろう。
それは多分とても、幸せなことでもあった。
「なぁ、映画見て帰ろう」
「おい、走るな」
楽し気に駆け出す貴志を追いかけながら、俺はこの日常が続いていくことを心から願っていた。
貴志の発情期は軽い。
まだ発情期が始まって一年ほどだが、発情していても貴志は人間的な会話が可能だ。
もちろん、自室に籠って出てはこないが、俺が訪れれば部屋に迎え入れてくれる。
だから俺にとって発情期の貴志は、ちょっと熱を出して具合が悪くなって、我儘になっている程度の感覚だった。
だから、両親や弟さえも部屋に入れないと聞いたときは、心底驚いた。
貴志の父親はアルファで母親はオメガ、弟はアルファだ。
「母さんのヒートを誘発しちゃうのも嫌だし、弟に襲われるのも怖いから」
そう言って、両親とも弟とも、顔を合わせることなく一週間を過ごすのだ。
貴志の父親は親の決めた許嫁のオメガを捨てて母親と駆け落ちしたため、アルファにしては質素な生活をしている。
目立たないことを第一にしているからだと聞いているが、株やら何やらでそれなりに儲けていることも知っている。
ベータにしては裕福であっても、全員がベータの自分の家とは、やはりレベルが違うのだ。
「っはぁ、やばいかも」
エンドロールが流れる頃、隣から熱い息が苦し気な言葉を発した。
慌てて横を見ると、荒い呼吸の貴志が胸を押さえて必死に深呼吸をしていた。
「お前、完全に発情してるだろ。映画とか言ってる場合じゃなかっただろうが」
「だってこの映画、今日までだったから……」
慌てて抑制剤を飲ませようとしたが、往生際悪く嫌だと首を振る貴志を抱えて、俺はオメガの運転手を指定してタクシーを呼んだ。
映画を見終わった頃に少し赤い顔程度だったはずの貴志は、家にたどり着く頃には真っ赤になっていた。
映画館ががら空きで、周囲にアルファがいなくて幸いだった。
この状態で襲われたら、おしまいだっただろう。
そう思って、俺はそっと冷や汗を拭った。
「うぅ、熱い……」
「馬鹿、ほら水」
「ん」
ベッドに倒れ込んだ貴志の枕元に水を運んでやり、薬を手渡す。
「飲め」
「ぅう、それ飲むと、変な感じするんだよな」
小さな錠剤を嫌そうに眺めて、貴志は熱い溜息をつく。
「本能に負けてしまいたい俺と、負けたくない俺が喧嘩してる感じになるからさ」
「どういうことだ?」
「体の中で熱と吹雪が渦巻いているっていうか、燃えようとしてる炎を無理やり氷ぶっかけて抑えてるみたいな」
「……ふぅん」
貴志の白い手の中で転がる真っ白の薬剤を眺め、なんとなく落ち着かない気分になる。
ベータである自分は一生知ることのない感覚だ。
「今日、おばさんは?」
話題を変えようと、普段なら家にいるはずの貴志の母親の所在を尋ねれば、貴志は赤い顔のままで興味なさそうに口を開いた。
「あぁ、母さん、誕生日だから。夫婦水入らずで旅行だよ。母さんのヒートに合わせて、さ。いい年して、やんなんちゃうよな」
「……あ、そ」
その言葉の意味するところを察して、思わず顔を赤らめてそっけなく返せば、貴志は平然と肩をすくめた。
「ちなみに俺と弟は空気読んで不参加。弟は友達の家で夜通しゲーム大会するってさ」
「え、じゃあ、お前、家に一人じゃんか」
「そうだけど、何か問題あるか?」
「……食事、とか」
「冷凍でいいだろ」
「でも」
何かあったら、どうするんだ。
ヒート中のオメガは、まともな思考力を持たない。
どれほど貴志が冷静に見えても、やはり危険だ。
うっかり外に出たり、誰かが入ってきたら、一瞬で襲われてしまうだろう。
「……」
無言になった俺を笑って、貴志が体を起こした。
「そんなに心配してくれなくてもいいんだけど」
「でも……」
「ったく、心配性だよな、修一」
はぁ、と零した吐息が熱い。
けれど、どこか嬉しそうな、安堵したような顔に見えて、俺は一瞬、貴志の瞳に見惚れた。
「なんならお前、家に泊まる?護衛として?」
くすりと笑って誘ってくる貴志に、俺は驚いた。
「え?いいのか?」
「いいのかって、俺のセリフだけど。飯とか出せないけど、それでいいなら」
「いいよ、そんなの。なんならウチから持ってくる」
「たしかに、隣だしな」
納得したような顔で、貴志はくすくすと笑った。
「そうと決まったら、泊まる準備してこいよ」
俺を追い立てるように部屋から出し、貴志は眦を赤く染めたまま、ゆるりと目を細める。
「オッケー、何か欲しいもんあるか?」
「アイス、スポドリ、チョコレート」
「そんなもんかよ」
呆れた俺に、弾けるような笑い声を返して、貴志は視線を落とした。
「……あと、早く一人にしてほしい気がしなくもない」
「え、あっ、悪ぃ!」
貴志の視線を追ったら、そのまま布団で隠された下半身に目をやってしまいそうちなり、俺は慌てて視線を外した。思わず自分の欲情も誘発されそうになり、必死に深呼吸をした。そんな感情は、荒れ狂う熱を苦しみながら抑え込もうとしている貴志に対する冒涜だ。
「買ってくるから、絶対玄関も部屋も開けるなよ。鍵、持ってくから」
「ん、任せた」
力尽きたようにバタリとうつ伏せに倒れた貴志を置いて、俺は家を出る。
外に出れば、太陽がやけに白く輝いていて、思わず目を覆った。
俺たちの意思とは、きっと無関係に。
忘れられない一週間が、始まろうとしていた。