冒険者、トイレで失敗する
「……壊したら、なんらかの呪いが発動するというのは、あくまでも俺の推測でしかない……」
「ここまで来たら私にすら分かりますよ、あれ、ぜったいに私達に破壊させようとしてるじゃないですか」
「しかし、あくまでも可能性で――」
「私だって我慢してるんですよ!? いいんですか? 私がそうですね、やっちゃいましょうって言い出しても!」
階段を降りていたアルノートは額に手を当てた。
自身の頭を冷やすためだった。
「――そうだな、たしかに、そうだ、俺の理性が崩れていた」
「分かればいいです」
「しかし、怖いところだ、日本という場所は……」
「それは、同意します」
二人の目的は食料調達である。
だが、その目的を消し飛ばすほどの魅力が、当たり前に転がっていた。
「いま手元に大金があったら、俺は自分を止められる気がしない」
「奇遇ですね、私もです」
「止めれる人間がどこにもいないじゃないか……」
「あ、待ってください」
「なんだ」
「あのマークってなんです?」
「あー……」
特徴的な、人の形を模した赤と青の図形だった。
「たしか、トイレだったな」
「そですか」
「いや、行きたいなら一人で行けよ、俺ひっぱって連れて行こうとすんな」
「なに言ってるんですか、アルノートさん、モンスターがどこに隠れてるかわからない場所で、一人きりになるのは――」
「そうだな、問題外だわ、俺が間違ってた」
トイレ中とは、奇襲を受けやすい時間と空間だ。
動きにくい格好で、とっさの対応もできない。
恥ずかしいだのなんだの以上にそれは、『モンスターの襲撃が起きやすいタイミング』だった。
「なので連れションです」
「そこまで言う必要はないからな?」
言って赤いマークのある方に引き連れた。
トイレとは思えない清潔感を感じられる場所だったが、たしかに冒険者視点では危険地帯だった。
「……狭い、逃げ道一箇所、床が滑りやすい――たしかに見張りくらいはいるな」
「アルノートさん、マジで傍にいてださいよ」
「とっとと済ませてこい」
「えーと、一応は確認をして――」
半開きになってた扉を開けて確認をしたが、当たり前のように座っていた。
マネキン悪役令嬢人形が、きゃ、っという声が聞こえて来そうなポーズを取っていた。
聖女は拳を硬く握り、振りかぶる。
「ソフィア、抑えろ、こっちが攻撃しなきゃいいんだから……!」
「私、わりと限界なんですよ、こんなときにこんな真似されたらぶん殴っても許されますよね……」
「いいから隣に、あー、いや、念のため二個隣に行け、コイツは俺が見張っとくから」
「マジで頼みますよ――」
ギリギリなのは本当なのか、そそくさと行く。
アルノートは人形を睨む。これは目を離した瞬間に動くような性質がある。逆を言えば、見ている限りは動くことがない。
両手で胸を覆うような体勢で、トイレの座面に座ったままだ。
豪奢で悪趣味な衣服はつけたまま、よくよく見れば、趣味こそ悪いが高級品のようだ。
「……というか、悪役とはいえ『令嬢』か――これだけ豊かな国でも、そういうのはいるんだな……」
アルノートは魔術公国で学んだ身だ。
知識を尊ばれたが、身分や富も幅を利かせていた。
首席の座が、不可解な理由で覆されたことが何度もある。
そうやって奪った相手は、大抵の場合は『ご令嬢』やら『ご子息』と呼ばれていた。
知恵と知識以外の手段で手に入れたことを恥じず、当然という態度で首席証明証を受け取った。
「理想通りの国なんて、どこにもないってやつなのかね?」
令嬢とはいえ『悪』としての役割を担うらしい人形に問いかける。
答えを期待してのものではなかった。
その代わりというように、小鳥の鳴き声がした。
忙しない音は、二個隣の個室トイレから発生していた。
位相世界では、人間や生物はいない、もちろん小鳥もいないはずだった。
「ッ! ソフィア!」
迷ったのは一瞬、すぐさまそちらへ向かう。
魔術的な準備を即座に整える。
短い距離を全力で駆け、扉に手をかけ――
「待ったあ!」
「お――」
鍵のかけられていないそれを開く直前で、なんとか止まった。
「た、たぶんですけど、これ、このトイレの機構です、こんびに入口と同じやつです、モンスターじゃありません……!」
「そ、そうなのか?」
「はい、ですから、ええ、そのまま下がってください、戻るのです、ピンチを助ける場面じゃないのです、アルノートさん」
「わかった……あー、本当に危険だったら言えよ?」
「はい……」
忙しない小鳥の声に紛れてしまうような「はい」だった。
それ以外の音は聞かないように、アルノートは下がり、元の場所へと戻る。
当然のように、動くマネキン悪役令嬢人形はいなかった。
「……」
見ていない間に、動いていた。
他の個室トイレに移動しているということもなかった。
「あー……」
安全策を取るのであればソフィアに忠告するべきだ。
最悪なのは、「ふと気づいたらソフィアの後ろに人形が佇んでいた」という状況だ。
そうなったら反射的に攻撃する。
少なくとも、アルノート自身であればそうしてしまう。
背後から息を殺して接近するような奴は、即座の反撃が相応しい対応だ。
だがまあ、急ぐ場面でもない。
アルノートは、ソフィアのいる個室トイレの壁を叩いた。
扉部分では開いてしまうため、仕切りとなって固定してある壁を強めに何度かノックした。まだ小鳥はうるさく鳴いている。
「ソフィア、例のマネキンが目を離した隙に消えた、念のために注意してくれ」
「あ、はーい」
それは当然の選択で、妥当な行動だった。
ミスと呼べるミスではなかった。
ここが位相世界の日本で、あるいはこの場所でなければ。
このデパートは改装されたが元は学校だった。
大半は建て替えられて元の形を残してはいないが、水捌けの関係上、トイレの位置だけは変わらなかった。
ノックした個室トイレは、マネキンのある位置から二個隣、つまりは三番目だった。
三番目のトイレを三回ノックすると現れる――そのような都市伝説がある。
奇しくも条件をアルノートは踏んでいた。
『それ』を呼び出すための手順を満たしていた。
ソフィアの返答からわずかに間を開け、声がした。
「はぁい」
そんな、幼い声が。
ソフィアのすぐ傍から、聞こえた。