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鎮火  作者: 凪司工房
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 庭園で花をつけている赤い薔薇(ばら)は十一月末の寒風を受け、凍えるかのように震えている。その前でじっと立ち尽くしている小豆色のショールを羽織った女性は、頭の後ろで綺麗にまとめた髪に青い花柄のバレッタを付けていた。


琴海(ことみ)


 背後からチョコレート色のコート姿の男性に声を掛けられたが、彼女は聞こえないのか、じっとその目を赤いそれに向けている。


「琴海さん?」


 男性は彼女の隣までやってきて、その右肩に手を置く。


「あ、雄吾(ゆうご)さん」

「また、遠くに戻されそうになっていたんだね」

「いえ。少し考え事をしていただけです」


 水野琴海はそう答え、唇を尖らせて見せたが、別に怒っている訳じゃない。普段はそんな姿、夫にも娘にも見せないが、彼の前だけはあの頃の、子どものままの自分でいたかった。ただそれだけのことだ。


「そういえば娘さん、日奈子(ひなこ)ちゃんだったかな。来年は高校生か。どこか受験は考えているの?」

「家族についてはお互いあまり話さないようにしようと仰ったのは、雄吾さんの方だったかしら」

「ああ、そうだった。すまない。君といるとつい、心のベルトが緩んでしまう」

「その言い方、なんだか下品です」


 二人はお互いを見て、笑った。

 おそらく傍目には仲の良いカップルだと見えることだろう。それぞれ左手の薬指にはリングが光っている。だが色が微妙に異なっていた。


「薔薇というのはずっと人類を魅了してきた花で、その原種は二百とも云われているが、どの原種も北半球にしか見つかっていない。今でこそどこでも栽培され、色鮮やかな花を咲かせているけれど、棘もあるし最初は危険な植物としてそっと遠くから見ているだけだったのだろうね」


 保村雄吾はつるりとした顎を撫で、ゆっくりと歩きながら琴海に語る。こうなると満足するまで話が続いてしまうから、琴海はいつも「ええ」とか「はい」とかのささやかな相槌を返すだけに留めていた。


「有名なクレオパトラも薔薇を愛した女性の一人だ。薔薇の花を浮かべた薔薇風呂や薔薇の香水、薔薇を絨毯(じゅうたん)のように敷き詰めた薔薇の床で多くの英雄をもてなしたと云う」


 春ならもっと沢山の種類が綺麗に咲いているのだけれど、と彼は少し残念そうに(しお)れた白い薔薇を見て、苦笑を浮かべる。


「それでも人類が薔薇の品種改良に本格的に乗り出したのは随分(ずいぶん)と遅くてね。十九世紀、あのナポレオンの妻であるジョセフィーヌ王妃が大の薔薇好きで世界中から薔薇を集め、育てさせた。その過程で人工交配の技術が確立され、観賞用の薔薇の基礎が作られた。その後、自然界に存在しない品種『ラ・フランス』がギョーによって生み出され、これがモダンローズの第一号となった」

「でもそんなに熱心に品種改良がされていたのに近年まで青い薔薇は生まれなかったのでしょう? かつては不可能の象徴とまでされた青い薔薇。でもそれすら人間は作り出してしまったわ。私はその強欲の果てのなさが時々恐ろしい」

「思い描いた場所には誰だって一度くらい立ってみたいものだよ――それがたとえ、悪魔との契約だったとしても」


 不意にさらりと恐い言葉を口にする。そんな時の雄吾は子どもの頃のように無邪気な笑みを作り、得意げに琴海を見た。


「それじゃあもしあなたが何でも叶えてくれる悪魔を目の前にしたら、一体何をお願いするのかしら」

「そうだな」


 いつも即断即応の彼が、珍しく腕を組んで考え込んだ。それでも五秒ほどで「ああ、そうだ」と頷き、こう、琴海に笑いかけた。


「二十年ほど前に戻って、君を探し出したい」

「探して、どうするの?」

「手を(つな)ぐ、かな」


 手を? ――と琴海は自分の小さな手を見て、苦笑する。


「ああ。君と手を繋ぐ。それもまだその指輪のない左手だ」


 彼との会話はいつも楽しい。それに、琴海のことをよく理解してくれていると感じる。だからこそ、いつもいけないと思いつつも、寄りかかってしまうのだ。


「どうして私たちは、こんな風になってしまったのでしょうか」

「こんな風か。未だに君も“赤”が恐ろしいかい?」

「少しなら慣れましたけど……」


 琴海はロウソクの炎ですら身震いをしてしまう。それでもこうして真っ赤な薔薇の前に立っても卒倒しなくなったのは、彼のお陰だった。雄吾がいてくれる。その存在が、家族以上に琴海の心の支えになっていた。

 けれど今から琴海が分厚いワンピースの奥から取り出そうとしているものは、大切にしていたものを破壊する刃のような言葉だった。


「ねえ雄吾さん。私たち、別れましょう」


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