可憐な花たちの罠
エイデンの予想通り、私たちは三日後にイグニス皇国の皇都フランマへたどり着いた。
「高い壁ね……」
思わず口から感想が漏れ出る。
城壁都市だと聞いてはいたけれど、聞くのと実際に見るのとでは大違い。
街をぐるりと覆い囲う壁の迫力に圧倒されて、言葉が出てこなくなってしまう。
こんな国と祖国アクアは戦争をしているのかと、悪寒が走った。
「この壁、すごいだろう? 防御力も抜群! でも、日当たりが悪くて敵わないと南側の家からは大不評。こんなご時世なのに、のんきなもんさ」
あははと、声をあげてビオラは笑う。
冷たく巨大な石壁に緊張が高まったけれど、すぐにほっと息を吐き出した。
こんなとき、彼女の明るさは救いだ。
幌馬車はやがて、巨大な門をくぐって街へと進む。
幌の隙間からあたりを見回すと、戦地から遠いこともあってか行き交う人々は皆、穏やかな顔をしている。
照れたような顔で花を選ぶ青年に、子どもをあやす父親と母親。
腕を組んで幸せそうに歩く老夫婦。
街並みは違えど、アクア王国で見てきた景色と何も変わらない。
明るく賑やかな街の様子に、きゅっと胸が苦しくなって外を見るのを止めた。
子どもたちが走り回る足音と笑い声とに、かつて『アクア王国に勝利を』と願ってしまった罪悪感が募る。
アクアが勝てばきっと、あの子達の笑顔は消えてしまう。
花を選ぶあの青年も、彼の想い人も、あの家族も老夫婦も皆、無事に生きていられるかさえわからない。
こんなことなら、噂通り野蛮な者たちが集まった国であって欲しかった。
『そんなだから、敗けるのだ』と、正義感に浸って裁けるような相手であって欲しかった。
あんな民の姿を見てしまっては、もう祖国の勝利を願うことなんてできるはずがない。
左手首に巻きつけた、エイデンの剣飾りにそっと触れる。
悔しいけれど、いま戦争を止められる可能性があるのは、あの人だけ。
途方もない夢だとはわかっているけれど、彼の夢を私も共に叶えたいと強く願った。
◇
馬車は裏門から城内へと進んでいく。
ビオラと私は庭で降ろされ、そこからはビオラが案内してくれることになったのだけれど……
「ビオラ先生!!」
慌てたように声を出し、赤いドレスをまとった令嬢が向こうから駈けてきた。
「そんなに慌てて、どうしたんだい?」
ビオラが尋ねると、息も絶え絶えに令嬢は「リリィが階段から足を滑らせて……」と言う。
「頭でも打っていたら、すぐに行かないとまずいね……だけど……」
ちらとビオラは私に視線を送ってくる。
ビオラは、元腕利きの医者だとエイデンは言っていた。
きっと、駆けつけたいのに足を踏み出せないのは、私の護衛を任されてしまったから。
ビオラはしばし迷う姿を見せ、「少し遠くて悪いが、医務室に……」と言いかけたところで、私が口を開く。
「私なら、この庭の端に隠れているから大丈夫。ドレスでもないし、貴女の兵服を着ているぶん目立たないから平気よ」
「だけど、ひめ……いや、アンタは……」
思い悩むビオラの背中をトンと押す。
「いいからお行きなさい。貴女は医者でしょう?」
その言葉に、ビオラは「ありがとう」とうなずき、「落ちたヤツはどこだい!?」と令嬢と共に走り去っていった。
しんと静かになった庭に取り残されて、不安が募る。
隠れておいたほうがいいわよね、と隠れ場所を探し始めると同時に、カサっと葉が擦れる音がした。
「あらぁ、今日はずいぶんと大きなネズミがいるわねぇ」
悪意に満ちた声に振り返る。
するとそこには、豪華なドレスと宝石を身にまとう令嬢が五人。
「いいえ、ボナール候爵令嬢。あれはきっと、発情した情けない雌犬ですわ」
「そう? 私には、醜く汚らしいブタに見えますけれど」
令嬢たちは扇子を扇ぎながら、鈴を転がすように笑っている。
けれど、話す内容は醜く、私に向けてくる視線も怒りに満ちたようなもので、少しずつ恐怖が募る。
「私に何か御用ですか?」
じり、と後ずさりして尋ねると、ボナール伯爵令嬢と呼ばれた女性がドレスを引きずりながら私のもとへやってきて、無言のまま勢いよく右手を振りかぶった。
……一瞬何が起こったか、わからなかった。
高らかに音が鳴り、視界が揺れて地面に倒れ込む。
頬がジンと痛んだことに気づいてようやく、顔を平手で叩かれたのだと知った。
痛みに顔を歪めながら座り込む私を、令嬢たちは見下すように見つめてきてからからと笑う。
「貴女方は、私がアクアの者だから、憎いのですか……? 戦争でアクアが大切なものを奪ってしまったから、こんなことをなさるの……?」
もし、そうであるならば、彼女たちの怒りは尤もなこと。
殴られても、蹴られても、仕方がないと思った。
私の祖国が、国王がそれだけのことをしてしまったのだから。
けれど、令嬢たちはきょとんと目を丸くしたのち、愉快で仕方ないとばかりに笑う。
「戦争? そんな野蛮なもの、わたくしたちには関係なくってよ。他に心当たりがあるんではなくて?」
「そうよ。あの方から諢名をいただいて寵愛を受けるだなんて、許されることではないわ!」
令嬢たちは私を囲うように立ち、口々に罵ってくる。
立ち上がることも許されず、五人の令嬢の怒りを一身に受けて、わけもわからないまま混乱することしかできない。
わんわんと響き渡る悪意ある声に頭を抱える。
すると女たちは私の左手首の剣飾りを見つけ、その瞬間目を吊り上げて、顔を真っ赤にさせた。
「どうして、そんなものを持っているのよ!!」
「それは、あの方の紋章! 雌犬が持っていていいものじゃない!!」
令嬢たちはそれを奪おうとしてくるけれど、ビオラの様子からすると、これはエイデンにとって大切なもの。
奪われるわけにはいかない。
必死で抵抗するけれど、五対一。
すぐに両腕を掴まれてしまい、自由を奪われた。
「あらぁ、ボナール候爵令嬢。こんなお庭を歩いたものだから、お履物に汚れが」
取り巻きの一人が言う。
「本当ね、嫌だわぁ。ねぇ、早く舐めとって綺麗にして頂戴」
侯爵令嬢は私に向かって靴を向けてきて、取り巻きの令嬢は私の身体を上から押さえつけようとしてくる。
アクア王国王族である私が、他人の靴を舐めるなんて、あってなるものか。
私がここで屈したら、アクアの民まで嘲笑の的になる。
顔を背けて抵抗していると、「手を離せ!」と怒りに満ちたような声が聞こえてくる。
その声に令嬢たちは私を解放し、すぐさま深々と頭を下げ続けた。
彼女たちの横顔は例にもれず蒼白で、だらだらと汗が垂れているのがわかる。
ふと顔を上げて、声の主と目が合って、息が止まった。
輝く金の髪に、真紅の瞳の美しい男。
いつもとは違う白地に赤と金の差し色が入った軍服をまとう彼は、イグニス皇国の将軍エイデンだった。
エイデンは無言のままこちらに近づいてきて、ボナール候爵令嬢の前で立ち止まる。
そのままエイデンは彼女のあごを右手で掴んで、乱暴に上を向かせた。
キスをするような格好に、ボナール令嬢はうっとりと熱を孕んだ表情を見せる。
けれど、エイデンは反対に氷のような瞳で彼女を見下ろし、唸るような低い声を発する。
「貴様、イグニス第二皇子の紋章を身につけた者に何をした? ボナール家没落も覚悟しろ」
その言葉にボナール侯爵令嬢の顔は瞬時に青ざめて震えたままへたりこみ、一方の私はエイデンのわけのわからぬ発言に、頭が破裂しそうになっていた。