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おやすみ

 唇は、一度だけ重なり離れていく。

 柔らかで温かなキスに幸せが溢れて、涙が一粒頬をつたってこぼれ落ちた。


「あの、皇子殿下……」

 優しいキスをされた上に穴があいてしまいそうなほど見つめられて、顔が赤く熱くなっていくのが自分でわかる。


 恥ずかしさのあまりうつむくと、抱きしめられながら耳元にそっと唇を寄せられた。


「スティーリア、愛している」


 秘密の話をするかのように囁かれ、エイデンの低い声が身体中に響く。

 自分の心臓の音が潮騒のように聞こえ、ふわふわと足元が揺れた。


 こんな感覚、いままで一度だって感じたことはなかった。

 温かくて安心できるのに、胸がどうしようもなく高鳴って。

 なんだか少し怖いのに、子どものようにもっともっとと心がねだってしまうなんて。


 自分に起こったおかしな変化に動揺しながら、『私もちゃんと言葉にして伝えなければ』なんて考えた途端、廊下への扉が開く音がした。



「うぅっ……オデット姫さまぁ……ぐすっ……」

 泣き濡れた声に視線を送る。


 するとそこには大好きな侍女がいて。

 とろんとしたタレ目から零れ落ちる涙を、何度も何度も指でぬぐっていた。


「お別れの、言葉も……っ、お伝えできないなんて…………って、えっ……?」

 ノエルが顔を上げた途端、私達と目が合う。


「えぇええええ!? なっ、えっ、ひひひ姫様、どどどどうしてですか!?」

 ノエルは驚きのあまり後ずさりをしていたけれど、すぐにハッと何かに気づいたような顔して姿勢を正し、深々と礼をした。


「お邪魔をして申し訳ございません。失礼いたします」

 慌てて去ろうとするノエルを見て、いまの状況を改めて認識する。


 国へ帰ったはずの敵国の王女と、自国の皇子とが部屋で二人きり。

 しかも皇子が王女を抱きしめて、王女も皇子に身体を預けている状況で。


 キスより先に進んでいなくとも、こんなのスキャンダルもいいところだし、相手が信頼できるノエルとはいえまずい。

 優しい彼女に余計な心労をかけてしまう。



「ノエル、戻ってきていいの! 気にしなくて大丈夫だから!」

 慌ててエイデンの腕からすり抜けて、ノエルを呼ぶ。

 どうにか誤魔化す方法は……なんて、必死に考えてみるけれど、何も思いつかずに途方に暮れてしまう。


 そんな焦る私とは対照的に、エイデンは楽しそうに笑った。


「スティーリアも、今後を不安に思う必要はないさ。いまがどうであれ、未来はいかようにも変えられるし、平和が訪れれば全て解決する。そうだろう?」


「ですが……」


「大丈夫。俺を信じてくれ」


 楽天的なエイデンに呆れ笑いをしながらも、彼の言葉や表情に、不安や恐れがすっと消えていくのが不思議で。

 アクアの将軍たちがエイデンの首を渇望している理由が、なんだかわかる気がした。



「とはいえ、俺が長居すればいらぬ噂が他から出るかもしれない。侍女を呼んでおくから、ここで待っていてくれ」


「はい。でしたら、扉までお見送りだけさせてください」

 歩き出すエイデンを追いかけて、扉の前までついていった。


「皇子殿下、今日は本当にありがとうございました。おやすみなさいませ」

 廊下に出ようと扉を開けたエイデンを見上げて微笑み、挨拶をする。


 するとエイデンはふと何かを思い出したような声をあげて、廊下に出ることなくまた扉を閉めた。


「どうされましたか?」


「一つ忘れ物。スティーリアもおやすみ。良い夢を」

 その言葉とともに、頬にそっと手を添えられて唇にキスを落とされた。


「――っ!?」


「いまばかりは互いの立場が憎いな……まだ君に触れていたくて仕方がないのに」

 骨張った手に、優しくすくようにして髪を撫でられる。

 それがなんだかくすぐったくて、恥ずかしくて。

 まともに顔が見られない。


「また明日」

 柔らかく微笑みかけられてドギマギしながら私も口を開く。


「はい……おやすみなさいませ」

 エイデンは扉の向こうへ出ていき、私はぱたんと扉を閉めた。


 ダメだわ、もう心臓がもたない……


 へなへなとその場に座り込む。


 燃える真紅の瞳、低くて甘やかな声、私とは違う骨ばったたくましい手や、硬い胸板、それにシトラスムスクの香り。

 エイデンの全部が、私の心をこんなにも搔き乱して離してくれなくて。


 あんなふうに愛を囁かれて、キスをされて。

 明日、どんな顔で彼に会えばいいのかしら……


 そんなことを考えていると、扉を叩く軽い音がした。

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