貴方のもとへ
「さようなら、マルク。どうか、元気で」
マルクの大きな手を両手で包みながら言うと、マルクはいつものように優しく微笑んだ。
「二国の平和と、殿下の幸せを心より願います」
最後に見つめ合った私たちはどちらからともなく手をほどいて身体を反転させ、別々のほうを向いて歩きだす。
私が選んだ道はきっと一番困難で、誰からも望まれない道。
だけど、もう決めたの。
自分の心に従い、エイデンと共にこの戦争を終わらせてみせる、と。
だから……絶対に振り返らない。
満月の下、一人きりで庭を行く。
衛兵たちに城の扉を開けてもらい、エントランスに入った途端、ぽろぽろと大粒の涙が溢れ出した。
衛兵たちは戻ってきた私を見て心配そうにしていたけれど、「大丈夫だから」とだけ告げてまた歩み出す。
一歩、また一歩と進むうちに、私の足は次第に速さを増していく。
気がつけば、ヒールの音を響かせながら駆け出していた。
後で着替えるつもりだったから、私の服はまだドレスのまま。
動きにくい格好だし、裾を持ち上げて走るなんてはしたないとわかっていても、そうせずにはいられなかった。
マルクとの別れが寂しくて、悲しくて、苦しくて。
二国のことや自分の地位のことを思うと、重圧に圧し潰されてしまいそうで。
でも、また貴方の声を聞くことができて、そばにいられることが嬉しくて……
少しでも早く、エイデンに会いたかった。
ようやく私の部屋だった貴賓室の前について、キィと扉を開ける。
窓のそばにもたれかかったエイデンは、一人で満月をぼんやり眺めていた。
「悪いが、いまは一人にしてくれないか」
こちらを見もしない彼は、小さくため息をこぼして呟くように言う。
「エイデン……皇子、殿下……」
必死に息を整えながら愛しい人の名を呼ぶと、エイデンは大きく身体を震わせ、驚いた様子で振り返ってきて。
「姫、どうしてここに……?」
丸く見開かれたエイデンの目が私の左手を見て、彼は再び口を開いた。
「ああ、紋章を返しにきたのか。冷静に送り出したつもりでいたんだが、本当にどうしようもないな……手をわずらわせてすまない」
エイデンは自嘲気味に笑って私のもとへ近づいてきたけれど、私は首を横に振った。
「紋章をお返ししたほうが良ければ、いますぐお返しします。ですが……私はそのために戻ってきたのではないのです」
ようやく息が整ってきて、エイデンを見上げながら言うと、彼はなぜか悲しげな顔で笑った。
「そうか、イグニスが不利になると気にかけて戻ってきてくれたのだな……マルクと引き離してしまい、本当にすまない……」
ああ。この人は、あんなにも策で人を動かして翻弄するのに、私の気持ちにはとことん疎いみたいだ。
「あの、皇子殿下。私は……」
「辛い想いをしたな……ここに涙の跡がある」
エイデンは手を伸ばして、私の目の下をそっと指の腹で拭ってきて。
シトラスが香るほどの近い距離に、どくんと心臓が強く跳ねた。
「俺のそばでは泣きづらいだろうし、侍女を呼んでこよう」と、エイデンは一歩足を踏み出す。
けれど、彼はすぐにその歩みを止めた。
私が軍服の袖を摘んで、呼び止めたから。
「姫……?」
「私は、侍女ではなく……貴方様にそばにいていただきたく存じます」
うつむきながら、震える声で伝える。
身分をわきまえろと思われるだろうか。
面倒な女だと、呆れられるだろうか。
緊張から恐る恐る顔を上げると、エイデンと視線が重なった。
熱を孕んだ真剣な瞳に、鼓動が高鳴る。
「そのような顔でそんなことを言われては、貴女を国へ帰してやれなくなる……」
その言葉に了承の意味を込めて小さくうなずくと、エイデンは私の背に手を伸ばし、私の身体をその腕の中に閉じ込めてきて。
自分の心臓の音が、うるさいくらい耳に響く。
エイデンの胸に顔をうずめると、彼の心臓も同じように高鳴っているのがわかった。
「スティーリア」
エイデンはきゅっとわずかに抱きしめる力を強め、耳元で私を呼んでくる。
かすれた甘い声に身体が疼き、頭がくらくらとしてしまう。
感じたことのない感覚から、とっさにすがるようにして彼の軍服を握りしめた。
エイデンがつけた、私のもう一つの名前。
もっともっと、何度だって呼んでほしい。
懇願するように顔をわずかに上げる。
すると、すぐにあご先に手を添えられ、くいと上を向かせられて。
覆いかぶさるように唇を奪われたのだった。




