満月
はじめてキスをしたあの日から数日が過ぎ、エイデンの態度はこれまで通りに戻っていた。
それはきっと、私が返事を保留にしたからで、プレッシャーにならないよう気を使ってくれているのだと思う。
けれど、もっと彼のそばにいたい、触れてほしいと願ってしまう自分がいて……
いつから私は、こんなにもわがままで欲張りになったのだろう。
それと、肝心のアクアとイグニスの戦況について。
こちらは、いまも膠着状態が続き、軍議室にいつものメンバーが集まって悩むばかりの状況で。
アクア王の誤解に加え、二国とも異文化理解を拒み続けてきた歴史があるぶん歩み寄りも進まず、停戦の交渉は困難を極めた。
「お疲れ様でございました。いつもよりお早いですね」
へとへとになって軍議室を出ると、ノエルがにこやかな笑顔で迎えてくれた。
「ありがとう。でも、残念ながら収穫はなかったの。皇帝陛下とエイデン皇子殿下が、城を尋ねてきた武器商人にお会いになるからと、それで早く終わっただけで……」
「えっ、武器商人……!?」
「全て断るとおっしゃっていたから、大丈夫。話だけお聞きになって、アクアに流さないように説得してくださるみたい」
「あぁぁ、よかったです……」
おばあさまがアクアにいるノエルは青ざめて不安そうにしていたけれど、すぐにホッと息を吐き出した。
「きっと、もうじきこの戦争は終わる。心配しなくていいわ」
手をとって微笑みかけると、ノエルは嬉しそうに微笑み返してくれた。
私の手の中にあるノエルの手は滑らかで柔らかく、女性らしくて。
あの日、私に触れてきたエイデンの手とは大きく違う。
彼のはもっと大きくて、骨ばってたくましく、温かかった。
プロポーズをされたあの夜から何日かたったのに、エイデンの唇の感触や、腕の中の温もり、香りや声がふとした瞬間に浮かんできてしまい、またこうやって心が乱されてしまう。
「オデット王女殿下……?」
ノエルは突然固まってしまった私を心配そうに見つめながら首を傾げていて。
あぁ、だめね。
幸せな想い出のまま終わらせたほうがいいのは、ちゃんとわかっているはずなのに。
それに何より、いまはアクアとイグニスにとって大切な時期で、考えなければいけないことなんて山ほどあるのだから、しっかりしないと。
雑念を振り払うために、ぶんぶんと首を横に振って、いつものような笑顔を無理やり作った。
「ごめんなさい、少し考え事をしてしまって。武器商人の件は、もしものことがあれば私も進言するし、エイデン皇子殿下もいらっしゃるから、きっとどうにかなるわ」
「俺がどうした?」
「ひゃあああっ!!」
後ろから聞こえてきたエイデンの声にびくりと身体が跳ねて、思わず口から奇声が飛び出てしまい、慌てて自分の口を押さえた。
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだが……」
申し訳なさそうにするエイデンの顔が直視できない。
もうあの日からずっと彼のことを意識しすぎて、会議の時以外、顔を見られないままなのだ。
「い、いえ、少しぼうっとしておりまして、申し訳ありません」
深々と頭を下げると、なぜかエイデンはノエルのほうを見て、二人は確かめ合うようにうなずいた。
「ノエル・ラフォレ、やはり君の言うとおりだ」
エイデンの深刻そうな声に、首をかしげる。
わけもわからずノエルに視線を送ると、彼女は不安げな顔で深く息を吸い込み、話し始めた。
「どうやらここのところ、王女殿下がお疲れのように私は感じておりまして……心ここにあらずというか、どこか緊張されているようなご様子もおありで。エイデン皇子殿下にそれをお伝えしました。勝手をして申し訳ございません。」
「あぁ、気を使わせてしまったわね……でも、大丈夫よ、身体は本当になんともないの」
疲れているのは確かだけれど、ぼんやりしてしまうのはそのせいじゃない。
でも、まさか当の本人を前にして、理由なんか言えるはずもなく……
「ですが、ここ数日の王女殿下のご様子を拝見していると心配で」
「オデット姫、大丈夫なのか? 辛ければ、しばらく会議は欠席でも……」
「いえ、本当に大丈夫ですから!」
ずいっと前に出て、エイデンの顔をまっすぐ見つめた。
「本当に?」
炎に似た赤い瞳にじいっと見つめ返されて、またあの庭のことを思い出してしまい、恥ずかしさが募る。
途端、自分の目がじんわりと潤んでくるのを感じ、顔も熱く火照ってきた。
いけない、きっとこれは頬だけじゃなくて耳まで全部真っ赤になっている。
「……っ」
こんなみっともない顔を見られたくなんかなくて、慌てて顔を背けた。
「その顔、参ったな……」
エイデンの深いため息に、ちらりと目線を上げると彼は頭を抱えて困ったような顔で笑っていて。
「停戦協定までこれが続くとは、なかなかキツイものがある」
意味深なセリフと熱に浮かされたような目にどくんと強く心臓が跳ねる。
私たちの間に何があったか知らないノエルは不思議そうに首をかしげていたのだけれど、やがて何かを察したのか、にこにこと嬉しそうに微笑んだのだった。
◇
「では、おやすみなさいませ」
一日が終わり、寝る前の支度を全て済ませたノエルが一礼して部屋を去っていく。
一人になった部屋でふとカーテンを開けてみると、夜の空に丸い月が浮かんでいるのが見える。
アクアで見ていたのと何も変わらない、淡く輝く綺麗な満月だ。
マルクも、アクアからこの月を見ているの?
貴方はいま、何を想っている?
私が敵の皇子にも恋心を抱き始めたなんて知ったら、きっと幻滅するでしょうね……
そんなことを考えながら月を見ていたのだけれど、心がざわついてしまい、ぴしゃりとカーテンを閉めた。
故郷に帰ってかつての穏やかな時を取り戻したい気持ちと、このままエイデンの隣に居たい気持ちとがひしめき合って、心が苦しい。
祖国とマルクを裏切ることなんかできないし、私は王女で、自分の恋心を優先できるような身分じゃない。
全部終わったらアクアへ帰らなければいけないのに、飽きもせずこうやって同じことを悩んでばかり。
こんなウジウジと悩み続ける私を見たら、マルクは何て言うかしら……
「オデット王女殿下、こちらにいらっしゃるのですか?」
ああ、もうだめね。
マルクのことを考えていたせいか、彼の声の幻聴さえ聞こえてきて……
って、いまのは本当に幻聴?
ずいぶんとはっきり、扉の方から聞こえてきたような。
「貴方、誰……? もしかして……」
恐る恐る扉に向かいながら尋ねると、廊下から「よかった……」と、安心したような声が聞こえてくる。
優しく穏やかな声は、間違いなく――
「王女殿下、私はマルク・ルヴェルです。どうかここをお開けください」




