荷馬車の中で
エイデンに抱えられ、下ろされた場所は幌付きの荷馬車の中だった。
「ここで少し待っていてくれ」
それだけ言ってエイデンは去っていき、やがてビオラという体格のいい女性の衛生兵が中に入ってきた。
「はいはい、遅くなってゴメンよ。ウチの男どもが何か悪さしなかったかい?」
ビオラは大荷物をどっかと下ろし、薬壺や包帯といった処置物品を次から次へと取り出していく。
笑顔で気さくに話しかけてくるけれど、この人も敵国の兵士。
油断はできない、と無言を貫いた。
「まさか、本当に暴力でも振るわれたかい!? 一体どいつに!? あとでアタシがそいつを絞めてやるよ」
ビオラは顔を真っ赤に染め上げて、本気で怒っているようで。
男性顔負けの身体と腕で本気で締め上げられたら、死んでしまうかもしれない。
相手は敵兵とはいえ、私のせいで人が死ぬのは夢見が悪すぎる。
「……大丈夫、何もされていませんから」
呟くように言うと、ビオラは安心したように息を吐き出した。
「はぁ〜よかったよぉ。でも災難続きで怖かっただろう、可哀想に」
揺れる馬車の中、ビオラは私の泥まみれのドレスを脱がして、手際よく身体の汚れを拭き取り、手当てをしてくれる。
ビオラが言うには、汚れこそひどいものの深い傷も骨折もなく、これはもう奇跡としか思えない、とのことだった。
『天が望まない結婚の場合、相手のもとへたどり着けない』
この迷信はあながち間違いではなかったのかもしれない。
それならば、天は誰との結婚を望んでいるのかしら。なんて考えた時に、マルクの優しい笑顔が浮かんできて、胸がきゅっと切なくなった。
アクア王国へ……あの人のところへ、帰りたい。
「姫さん、大丈夫さ。何も心配いらないよ。エイデン将軍はきっと、悪いようにはしないから」
ビオラの大きな手が優しく背中をさすってくれるけれど、『敵兵に心配されるようではいけない』と、唇を強く結んで平静を装った。
「はい、終わったよ! しばらくは安静にね」
ビオラはこの隊唯一の女性らしく、シャツとズボン、下着まで私に貸してくれた。
どれもサイズが大きすぎて合わないけれど、全て彼女が厚意で貸してくれたもの。
そんなことを気にしていては、だめね。
「……貴女は、どうしてこんなに良くしてくれるの。私は敵国の王女よ?」
栗色の瞳を見つめられないままか細い声で尋ねると、ビオラはからからと明るく笑う。
「確かに戦場で姫さんと会えば、こんなことはしないね。でも、ここはイグニス領で戦地じゃない。不必要な殺しなんて、したくはないもんさ。外の兵士らだって、きっと同じ思いさね」
意外すぎる返答に、自然と目が大きく見開かれたのが自分でもわかった。
お父様や臣下たちが教えてくれた話とずいぶん違っていて、困惑が止まらない。
「姫さん、少しでもいいから寝ておきな。不安なら、アタシがここで見守っておいてやるから」
ここは敵国、警戒しなければ。
そう思う一方で、優しく温かな声に自然とまぶたが閉じていく。
ねぇ。イグニス皇国は、人の心を失った野蛮な者たちの集まりではなかったの?
奴隷制度や生贄の儀式など、悪しきしきたりも多く残っていて、危険だから決して近寄ってはならない、と……そう教えられてきたのに。
何がなんだか、もうわからない。
◇
「ビオラ、代わってくれ。アクアの姫と話がしたい」
外から男性の声が聞こえてきて、まぶたを開ける。
どうやら少し眠ってしまっていたみたい。
起き上がって、幌馬車の出入り口から外を覗くと、ビオラとエイデンが言い争いをしていた。
「話したい、だって? 呆れてものも言えないよ! いま、姫さんに必要なのは休息。余計な心労かけさせるもんじゃない。まったくアンタってば、いーっつもそうだ。人に自分の都合ばかり押し付けてさ。せっかくの綺麗な顔なのに、全然嫁が来ないのはそういうこったね!」
「あぁもう、うるさい。お前はいつから俺の母親になったんだ」
心底鬱陶しいとばかりにエイデンは眉を寄せていて、一方のビオラは自慢げに大きな胸をまたさらに大きく張らせた。
「母親みたいなもんだろ!? アタシがアンタを取り上げたんだから!」
そんな二人の言い争いを見つめていると、エイデンと視線が重なった。
「アクアの姫、体調はどうだ?」
その問いかけに無言のままうなずいた。
声を出さないのは、いまの私にできるささやかな抵抗だから。
敵の兵士に絆されて屈するなんて、そんな情けないことはしたくない。
「もう二日も眠っていたようだし、腹も空いたろう。話をしがてら、共に食事でもいかがだろうか」
その言葉に耳を疑った。
少し眠るつもりが、二日も寝ていたなんて。
どおりで、体調が良くなったと感じるはずだ。
「姫さん、嫌なら断っていいんだよ。この身勝手将軍はアタシがどうにかするから」
ビオラが心配そうに言ってくれるけれど、私は首を横に振った。
「いえ、構いません。私の処遇も知りたいですから」
◇
「王族が乗るような馬車ではなく、すまない」
エイデンは私の斜め向かいに、ゆっくりと腰を下ろしながら言う。
「お気になさらないでください。こちらも来たいと思って来た国ではありませんし、これから皇都に行きたいとも思いません」
「ははは、違いない」
エイデンは大きく口を開けて楽しそうに笑う。
穏やかで静かに微笑むマルクとは、正反対。
少し嫌味を言えば、将軍も本性を現し、彼らの狙いだってわかるかもしれない……なんて思って刺激したつもりだけど、彼は怒ることもなく、心底面白がっているように見える。
「なぁ、アクアの姫よ。やはり名を教えてはくれないだろうか?」
聞こえないふりをして、視線をそらした。
名前を聞きたいだなんて、報告書にでも記載しなければいけないのかしら、なんて考えていると、エイデンは再び口を開いた。
「このままだと、なぁ、とかおい、と呼ぶしかない。俺の品性も疑われてしまう」
「幾度尋ねられようとも、敵国に伝える名はありません。私の名が必要ならば、好きなようにお呼びになってください」
突き放すような、刺々しい声で言う。
私は敵国の王女で、相手はあのイグニスの男。
奴隷や犬、ブタなどと悪意を持った名で呼ばれるでしょうけど、『オデット』と本当の名を口にされるよりは何倍もマシだもの。
好きに呼んでくれという私の提案に「そうか、そういうことなら……」と、エイデンはあごに手をあてて考え込む様子を見せてくる。
やがて何か思いついたのか、満足げに笑った。
「俺は貴女を、スティーリアと呼ぼう。凛と研ぎ澄まされた水が作り出す氷の刃。氷柱の意だ」






