王太子と、戦のきっかけ
「アクアに手紙を送らせてください。謝罪と賠償、治水のやり直しを求めます……」
震える声でエイデンに伝えると、彼は穏やかな表情で首を横に振ってきた。
「すでに水に関する争いの対応は済んでいて、想定を遥かに超える賠償も、丁重で誠意ある謝罪もされている」
エイデンは、被害が小さな村二つのみで、死人や重病人が出なかったことや、二国ともに地図や地形図の不備があったこと、村周囲の森にクマが増えていて民が外に出るのを恐れていたという事情なども話し、謝罪と賠償によって民たちの怒りもある程度はおさまったと言った。
信じられない返答に思わず瞬きを繰り返す。
お父様は、ずっとイグニスに対して偏った見方をしていて。
そんな真摯な対応をするとは、とてもじゃないけれど思えなかったから。
「その謝罪は、国王自らが動いたのですか?」
エイデンに尋ねると、彼は苦笑いを浮かべながら泥まみれの村を見つめて、口を開いた。
「いや。運がいいのか悪いのか、アクア王が城をあけていて。留守を任されていた王子がやけに頭の回るやつだった。こちらが書簡を送ってものの数日で治水のやり直し工事から、水の配分調整、王子本人がわざわざ村に謝罪に出向いて賠償まで。完璧以上とも言えるほどの対応をされて。俺はアクア王を失脚させる計画まで練っていたのに、毒気を抜かれた気分だったよ」
楽しげに笑ったエイデンは、やがてアクア王国の方角を見て、苦々しい表情で歯噛みした。
「アクア王が『武器を持った民の侵攻だ』などと帰国後騒がなければ、あとは時が解決してくれていたのだろうに。こんな惨状にされて直談判をしに行く民の心を理解できないものか……あの王子のしたことが水の泡だ」
「お父様、なんてことを。そして、その王子はきっとフェルナンド兄様かと思います。詳細は教えてくれなかったけれど、急いで城を出ていったことを、うっすら覚えているから……」
「フェルナンド……アクアの王太子の?」
エイデンの問いに、こくりとうなずく。
いつも冷静沈着で正しい答えを導き出すフェルナンド兄様は私の憧れであり、誇りだった。
あまり笑わないし、冷たい雰囲気が恐ろしいのか、人に囲まれるようなタイプではなかったけれど、兄様の優しいところや責任感のあるところは、私が誰よりもよく知っていた。
「お兄様はよくお父様と衝突していたんです。戦は一度始めたら引き返せない、と。でもお父様は先に王家とアクア王国を侮辱してきたのは向こうだ、と言い張っていて……」
「侮辱とは?」
エイデンに問われて、違和感に気づく。
民たちが関所に詰め寄ってきて、それを侵攻だと捉えられたことは、進軍のきっかけの一つでしかない。
お父様の心を動かしているのは恐らく、侮辱されたのだという思い。
けれど、よくよく思い返してみれば、私が幼い頃国王はあんなふうにイグニスを目の敵にするようなことはなかった。
女性の政治参加についても、あそこまで口うるさく言うような人ではなかったはず。
きっと、どこかでなにかがあったはずなのに、それが全くわからない。
「もしや、十年ほど前に、なにかあったのではないだろうか?」
エイデンがどこか不安げに尋ねてくる。
「どうしてです?」
「イグニスの皇帝陛下は、俺が幼い頃よりアクアとの関係改善をはかろうとしていたんだ。だが、十年ほど前からアクア王を突然疎むようになり、国交を断絶するようになった」
エイデンの言葉に、私も思いあたるふしがある。
ノエルも十年ほど前から、警備が厳しくなったと話していたし、お父様が強硬的な態度をとるようになったのもその頃。
十年ほど前の出来事……
私がまだ十に満たない頃のことよね?
もしかして。
「お母様が亡くなった頃が、ちょうどその頃です」
お父様や家族からだけではなく、民からも愛された、優しくて穏やかで、でも意志が強かったお母様。
お父様はお母様のことを誰よりも愛していたから、お母様が亡くなってから荒れに荒れて。
あまりの変貌ぶりに、お父様は別の人に変わってしまったのだと恐怖感を抱いた日のことを思い出す。
幼い心に大きな傷を残していたからか、いまのいままで記憶の奥底に沈みこんで忘れていたんだわ。
お父様がイグニスとの戦を望んでいるのは、お母様の死になにか関係があるのかしら……
無言のまま考えていると、エイデンが途端に顔をしかめて頭を抱えだした。
「この争いの火種を蒔いたのは、愚かな“イグニス皇帝”なのかもしれない」と。




