シトラスの香りと川下の村
「あぁ、そうだ。スティーリア、明日はあいているだろうか?」
帰り際、思い出したようにエイデンが尋ねてくる。
部屋を与えてドレスを着せて、この人は私が人質としてここにいるのを忘れているんじゃないかしら。
「明日も特に用事はありませんが……」
「それならば、侵略の元凶を見に行こう。明日、日が昇ったら厩に来てくれ」
表情こそ穏やかなもののエイデンの声色はどこかピリッとしていて。
どこに何を見に行くかを口にしてくれないぶん、不安と恐れが静かに募っていった。
翌朝、日が昇らないうちからノエルに起こされ、身支度を始める。
目的地には馬で行くらしく、乗馬服に着替えさせてもらい、髪も邪魔にならないように結ってもらった。
「シトラス調と相性がいいフローラル調の香りが良いと思うので、甘く華やかなジャスミンの香水を振りますね!」
最後にノエルはイキイキした様子で、香水を吹きかけてくれる。
希少性の高いジャスミンの香りは確かにいい香りなのだけれど、恋人同士でもあるまいし、わざわざエイデンに合わせなくてもと思って、苦笑いをした。
ノエルに連れられて城の端にある厩に行くと、まだエイデンはおらず、ビオラと兵士二人がいて。
ビオラは私の姿を見つけるやいなや駆け寄ってきてくれて、嬉しそうに笑った。
「姫さんは将軍の馬と相乗りだ。少し待っていておくれね」
将軍呼びということは、今日エイデンは皇子としてではなく将軍として外に出るみたい。
もしかしたら、視察という扱いなのかもしれない。
「相乗り? 私も、一応乗れますよ?」
貴族の嗜みとして乗馬は習っているし、軽く遠出するくらいなら一人ででも行けると思う。
だけどビオラは、あははと大きな笑い声をあげた。
「将軍もわかってはいるんだろうが、心配なのさ。それに、イグニスの男ってのは情熱的でね。惚れたらもう一直線。少しでも側に置いておきたいんだろう」
「惚れ……っ!?」
飛び出てきた単語にびくりと身体が跳ねる。
エイデンが私を好きなんて、いや、まさかそんなことは絶対にない。
だって、エイデンは好きな人がいると以前話していたし、何より私たちは敵国の皇子王女なのだから。
万一私のことを好きだとしても、彼は賢い人。
こんな高い壁の恋を前に、ひるまずぐいぐいとアプローチするなんてできるはずがない。
それをなんだか寂しいと思ってしまうなんて、最近の私はやっぱりどこかおかしい気がする。
小さくため息を吐き出すと、ビオラは私の憂鬱に構うことなく明るく肩を叩いてきて。
「あの人は、こうと決めたら何言っても聞きゃしないから、今日はもう諦めて相乗りするしかないね」
「ビオラ、何を話している」
その声に私たちは同時に身体を震わせた。
背後からやってきたのは、黒い軍服をまとうエイデンだ。
「いいや、なぁんにも」
「どうせ、また余計なことでも言っていたのではないか?」
悪びれる様子のないビオラを横目に、エイデンはテキパキと馬に装備をつけていく。
「あの、エイデン将軍。私、乗馬はそれなりにできますので……」
駆け寄って話しかけると、エイデンは首を横に振ってきた。
「森の中や悪路を駆けたことがなければ、単独での騎乗は許さない。野盗やクマに遭遇する可能性もあるのだから」
「ですが、さすがに皇子殿下の馬には乗れません」
「いまの俺は“将軍”。何の問題もない」
ちらとビオラに視線を送ると『ほら、言った通りになった』とばかりに笑っていて。
結局観念した私はエイデンの馬に乗った。
温かな馬の身体が心地良く、視界も高くて風が気持ち良い。
そっと、馬の首元を撫でると嬉しそうに目を細めてくれた。
「コイツもスティーリアを気に入ったみたいだ。さぁ、行こう」
エイデンは楽しげに笑い、私の後ろに乗ってきた。
手綱が私の真横にあって、後ろから抱きしめられるような体勢になり、なぜか胸が高鳴ってしまい、顔が熱くなっていくのがわかる。
昨日の今日で、これはだいぶ恥ずかしい……。
「スティーリア、逃げるな。背は伸ばしたほうが安全だ」
前かがみになろうとした途端、囁くように私の名を呼んできて、左手で身体を抱き寄せられて。
ふわりと柑橘とムスクの甘酸っぱい香りが鼻をかすめ、心臓がうるさいほどに脈を打つ。
「スティーリアの首元からだろうか。甘い花の香りがする」
香水がいい匂いだと言われているだけなのに、声にどこか艶っぽさが含まれている気がして。
ゾクゾクと身体が甘く震えてしまい、縮こまる。
やっぱり最近の私は、どこかおかしい。
そこから休憩を挟んで、ビオラの馬に乗り換えたりもして、昼頃には目的のアビエス村にたどり着いた。
否、もはやそこはもう村ではなく、村だったところと化していた。
家々は土砂で埋もれ、木々はへし折れて、泥や木材が腐ったのかひどい臭いがしている。
とても人が住める状態ではなくなっていたのだ。
「ひどい……」
あまりの惨状に言葉が出ない。
「だが、これがアクアのしたことだ」
淡々と語るエイデンの言葉に、目を見開く。
「どういうことです……?」
「イグニスを流れる川のほとんどは、水源地がアクアにあるんだが、アクアはいくつかの川の治水に失敗した。被害に遭った二つの村の民は怒りにまかせて、直接アクアの関所へと向かったんだ」
エイデンは遥か遠く、イグニスとアクアの関所があるあたりを指さして、再び口を開いた。
「二つのうちの一つはここ、アビエス村。ラーゼン川の氾濫を防ぐため、アクアは川の流れを変えてしまった。川上側はそれで良かったのだろうが、流れをほんの少し変えたが故に、川下の流れは大きく変わってしまい、嵐も相まってこの村が打撃を受けた」
「――っ!」
治水は川が多くあるアクアにとって、大きな課題の一つ。
だけど、自分たちの国を守るために川下の民を犠牲にしていいわけがない。
土砂にまみれた村の姿から目を背けたくなるけれど、ぎゅっとこぶしを握りしめてまっすぐ見つめる。
私たちは加害者。逃げるなど、許されないことだわ。
エイデンは、そんな私を横目で見てきながら、ゆっくりと口を開く。
「もう一つの村は、海にほど近い川沿いの村。アクアが大量に水を引いたおかげで、雨不足となった昨年、川の水が足りずに海水が逆流し、川魚が死に絶え、穀類を育てる水も引けなくなったと報告を受けている」
「あぁ……なんてこと。これでは民が怒るのも当然だわ……それを侵略と捉えるなんて」
気が遠くなって、頭を抱えながら地面にへたり込む。
全身の震えが止まらない。
城の庭の噴水も、城下町に張り巡らされた水路も、水害を避けられるようになった国境付近の村も、全てイグニスの悲しみや苦しみの上に成り立っていたの?
「報告書ではなく、実際に目にしないと惨状はわからない。国政に参加していないスティーリアに話すのもどうかとも思ったんだが、イグニスの民の怒りがそうさせたことを知ってもらいたかった。すまない」
申し訳無さそうに話すエイデンの言葉が胸に刺さる。
本来なら謝らなければならないのはアクア王国で、罵られたり怒りに任せて殴られたりしたって仕方がないはずなのに。
聞いていた話とはあまりにかけ離れていた事実に衝撃を覚え、壊れた村を呆然と見つめることしかできなかった。




