運命の人
「今宵、私を抱いてくださいませんか」
二人きりの庭園で、独り言のようにぽつりと告げた。
はしたないことを口にしたとわかっている。
一国の王女が放っていい言葉ではないことも、お父様に知られたら国を追放されるであろうことも、全部わかっている。
だけど、どうやったって言わずにはいられなかった。
国境も憎しみも越えてしまったこの恋が、あと数日で終わりを迎えてしまうかもしれないから。
私の懇願に、彼は目を見開いて無言のまま。
お願いですからと手を組んで目を閉じ、微かに震えながらキスをせがむ。
すると、ひたいに柔らかなものが触れて、軽い音をたてながら離れていった。
「オデット姫。いまは、まだその時期ではないだろう? 俺は、貴女の想い出の中の男になる気はない」
燃え盛る炎のような赤の瞳が、私を捉えて離さない。
「ですが……」
「大丈夫。不安に思わずとも停戦協定は結ばれるし、必ず……迎えに行く」
彼は両手を伸ばし、私を腕の中へ閉じ込める。私はシトラスムスクが香る胸板に頬を擦り寄せ、彼との日々を想う。
はじまりはそう、私の婚約相手が決まったあの日――
◇
「オデット、お前の嫁ぎ先が決まった」
淡々とした声が降ってきて、心の奥底まで凍りついた。
「……どの国でしょうか」
顔を上げて、国王を見やる。
ためらう様子で言われたのは「テルム国だ」という短い言葉だけ。
わざわざ謁見の間に呼びよせてきたから、そういう話なんだろうと覚悟はしていた。
だけど、さすがにこれは、あんまりだわ。
「それほど戦況が芳しくないということでしょうか? テルムはアクア王国の王女が嫁ぐような相手では……」
「うるさい!! 飽きるほどに言うておろう! 王女は王を敬って労い、支えることが最大の仕事だ。第三王女のお前が戦のことなど、知る必要もない」
耳がキンと鳴るほどの大声に身をすくめる。
お父様はいつだって、こう。
『女は政治と戦に口を出すな』
戦争が始まるまでは、こんな人ではなかったのに……。
「承知いたしました。仰せのままにいたします」
きらびやかなドレスを握りしめて、深々と礼をした。
テルム国の王、か……。
一度会ったことはあるけれど、ほとんど記憶に残っていない。
覚えているのは『波のような青の髪と緑の瞳が好みだ』という手紙をもらったことだけだ。
王族のさだめとはいえ、そんな人に嫁ぐのね。
謁見の間からの帰り道、窓越しに空を仰ぐと輝く満月が浮かんでいる。
いつもなら喜びと幸せで満たされる日なのに、今日ばかりは苦しくて辛くて仕方がない。
ため息を一つこぼし、侍女を連れたまま重い足取りで庭へと向かった。
「ここで待っていてね」
侍女に告げて、生け垣の森をたった一人で抜けていく。
月明かりの下、きらきらと輝く噴水のそばにいたのは、焦げ茶色の髪に、柔らかなオレンジ色の瞳の男性。
そばかすが純朴な雰囲気を醸し出す彼は、王国騎士のマルクだ。
穏やかに微笑みかけてくれるマルクに安心感を覚え、足早に彼のもとへ向かう。
そして、私たちはいつものように噴水のへりに並んで腰掛けた。
満月の夜は逢瀬の日。
大仰な呼び方をしているけれど、実際は逢瀬なんて言えないようなもので、半刻ほどとりとめのない話をして終わるものだったりする。
幼なじみでもあるマルクは、年頃になってからというもの、私の身体に触れようとしなくなり、甘い言葉さえ囁いてくれなくて。
そんな彼の誠実なところが好きだったのだけれど、少し寂しく思ったりもしていた。
だって、もしも自分が王女でなかったら、この男性は逢瀬の日に愛を囁いてくれたのかもしれない、なんて考えてしまうから。
こんなにも近くにいるのに、私達の間には果てしない距離がある気がしてならなかった。
二人で無言のまま月を眺めていると、不意に右手が温かくなる。
見ると、ひと回り大きな手が私の手の甲に重ねられていた。
未だかつてない出来事に、丸く目を見開く。
マルクに視線を送ると、彼は真剣な表情を浮かべてまっすぐに私を見つめていた。
熱っぽい瞳にどくんと強く鼓動が跳ね、恥ずかしさのあまり視線をそらす。
「オデット王女殿下……幼い頃より私は貴女様のことを……」
ゆっくりと紡がれる言葉に、緊張と喜びが高まっていくのが自分でもわかる。
ザァザァと噴水の流れる音だけが響いて、続きの言葉は聞こえない。
マルクを見やると、彼の手は静かに離れていき、物悲しげに視線も落ちていった。
ああ、やっと触れてもらえたと喜んだ自分がバカみたい。
過去に王女と臣下が結婚した例がないわけではないけれど、それは茨の道。
国に多大なる貢献をして、王が認めるほどに爵位を上げるしか方法はない。
一貴族、一兵卒で、優しく保守的なマルクが、そんな道を進みたいなんて、思うはずがないでしょう?
そんなの、ずっとずっと前からわかっていたことなのに。
「ねぇ、マルク。私、とうとう結婚のお相手が決まったの。武器生産が盛んな、テルム国。十番目の公妾ですって。正妃ならまだしも、愛妾として嫁ぐのよ」
自嘲するように、クスクス笑う。
テルムの王は女好きで、跡継ぎも両手両足では数えられないほどいると聞いた。
国が認めた妾である公妾として嫁ぐとはいえ、十番目では深く愛してもらえるとは到底思えない。
きっとこれは、戦争という状況下で、王族が『愛する人と結ばれたい』なんてお気楽な夢を見てしまった罰。
無言のままうつむくマルクを横目に立ち上がって、作り笑顔で微笑んだ。
「出立は今月末。マルクとここで会えるのも最後になるわね。楽しい思い出をありがとう」
私は誇り高きアクアの王女。
自らの身体を価値に変えてでも、アクアに勝利をもたらさなければ。
憎き戦争相手、イグニス皇国と戦うために私ができることなんて、これくらいしかないのだから。
こぶしを強く握りしめ、振り返らずに生け垣の森へと進む。
曲がり角のところで、かすかに私を呼ぶ声がした。
「オデット王女殿下。共に国を出る気はありませんか?」
「え……?」
マルクの声に振り返る。
いまのは、幻聴?
それとも……
「……いや、すみません。気になさらないでください」
疲れ切ったような笑顔に、また胸が苦しくなった。
◇
水源豊かなアクア王国と、川下に位置する火山の国、イグニス皇国は一年もの間、戦争をしている。
隣国なのに昔から折り合いが悪かったイグニス皇国がアクアに侵略を始めてきたことが、戦争のきっかけみたい。
戦況は……わからない。
お父様も臣下もマルクも、誰も何も教えてくれないから。
誰よりも慎ましく、余計なことは言わず、王を癒やし支えることだけが私に求められる役目だから。
でも、こんなのほとんど何もできないのと同じ。
大好きな祖国や民を想う気持ちを、私はどこにもっていけばいいの?
ぐるぐるとやるせない想いとマルクのことが巡っているうちに、運命の日は、やってきた。
お父様に感謝の言葉と別れを告げると、切羽詰まった表情で「必ずやアクアに援軍を」と強く願われた。
様子から察すると、劣勢、なのかもしれない。
そのまま私は侍女と共に豪奢な馬車に乗り込み、民に見送られて神殿へと向かった。
直接テルム国に向かわないのは、嫁入りの儀式を終えなければならないからだ。
結婚を目前に控えた王女が、国内にある神殿を一つ選び、祈りを捧げること。
それがアクア王女結婚のしきたりで。
もしも天が望まぬ結婚の場合、結婚相手のもとへたどり着けない、なんて迷信もあったりする。
ただ、護衛が何十人もついて来て、大げさなほどに守ってくれるものだから、そんなことは絶対に起こり得ない話で、期待するだけ無駄なこと。
護衛の兵たちの中にはマルクもいたけれど、嬉しくもなんともなくて、彼と言葉を交わす気には到底なれなかった。
五日目の朝、カムビ川の滝が遠くに見えてきた。
私が選んだ神殿は、この川をこえたところにある。
理由は、敵国であるイグニス皇国に最も近いところにあるから、だ。
神の力が本当にあるのなら、イグニス皇国の侵攻が止まるように、と願いたくてここを選んだのだ。
「チッ、あの空、まずいな……」
馬車の外から、舌うちをした兵士の声がする。
カーテンと窓を開けると、外は夜のように暗く、風が冷たい。
なびく髪を押さえながら見上げると、どす黒い暗雲が垂れ込めていた。
おかしい。さっき朝食をとった時には、こんな空じゃなかったはず……。
「王女殿下。おそらくすぐに嵐が来ます。しきたり上、道を引き返すことは許されません。ここはすでに川のそば。危険度も高いため、足を速めます」
護衛隊長の言葉に、こくりと頷いた。
それから、みるみるうちに大粒の雨が降り出し、暴風吹き荒れる嵐となった。
恐ろしいほどの風音に、震える侍女と身を寄せ合っていると、突然馬車の扉が勢いよく開く。
そこにいたのはマルクで、彼は切羽詰まったような顔をしていた。
「殿下、お逃げください!」
マルクが侍女を投げ捨てるように外へと放り投げ、私に手を差し伸べてくる。
訳もわからないまま彼へと手を伸ばし、互いの手が触れかかった瞬間、耳が壊れそうなほどの轟音が鳴り響いた。
「土砂崩れだ!」
誰かの声がしたかと思うと、私の乗る馬車はものすごい勢いでどこかへ流されていく。
土砂に飲まれる馬車を追おうとするマルクを、他の兵士が必死になだめている姿だけが、窓から微かに見えた。
◇
優しい音がする。
私の大好きな川の音。
うぅ、と痛みに唸って、まぶたを開ける。
見えたのは、眩い太陽に、広大な川。
土砂に飲まれたと思っていたけれど、カムビ川に落ちて流されていたのね。
だけど、下半身が水に浸かっているせいか、寒くて震えが止まらない。
それなのに、力が入らなくて起き上がることさえできない。
きっと、水を吸ったドレスが重いせいもあるのでしょう。
このまま動けないと、私は……。
近づく死の気配にさらに震えがひどくなっていく。
そんな時、遠くから複数ののんきな男たちの声が聞こえてきた。
「おねがい、助け、て……」
かすれた声で呼ぶと、運良く気がついてくれたようで、足音が近づいてくる。
だけど、この音って。
……金属?
鎧と剣の音だわ!
カムビ川の川下にある国なんて、幼い子どもだって知っている。
迂闊だった、と下唇を噛みしめた。
「おおい、どうした。大丈夫かぁ〜?」
現れたのは、軽装の鎧をまとった男たちだ。
イグニス皇国の国章である『炎の獅子』のエンブレムが目に飛び込んできて、全身の血の気が引いた。
「貴族の女? どうしてこんなところに」
「怪我はしてないか? 痛むところは? 可哀想に、憔悴している」
「おぅい、誰かビオラ先生を呼んでくれ」
近づいてくる兵士から逃げたいのに、少しも身体が動かない。
「おや、これは?」
兵士の一人が私の隣に落ちていたペンダントを拾い上げて、軽く泥を払う。
「水龍のペンダント……? おい、これ見ろ!! アクアの王族の紋だ!」
その一声で、彼らの目つきが変わった。
人を人と思わないような、鋭く冷たい瞳に、ぞわりと背筋が凍りつく。
「コイツをどうする?」
「泥で汚れちゃいるが、上玉の女じゃねぇか」
兵たちは頭から足の先まで舐め回すように見つめてきて、ごくりと喉を鳴らしたのがわかった。
イグニス皇国には奴隷制度があると聞く。
このまま、敵国の奴隷として飼われるくらいなら、いっそのこと……。
舌を噛み切ろうと口を開けた瞬間、兵士たちのざわめきが収まり、大気がピリついたのがわかった。
「そこで何をしている!」
聞こえてきたのは、怒りに満ちた男の声。
兵士たちはからくりのおもちゃのように勢いよく背筋を伸ばし、ぴしりと敬礼をした。
向こうから現れたのは、輝く金の髪に、燃える炎のような赤い瞳の男。
二十代半ばほどに見えるけれど、きっとこの男が将なのだろう。
「おい、聞こえないのか? 何をしていた、と聞いているんだが」
「申し訳ありません! ですが、この女は……」
先程の兵士がペンダントを差し出すと、男はそれを受け取り、太陽の光にかざして笑う。
「なるほど、アクアの姫……。ようこそイグニス皇国へ。命乞いでもしてみるか? 他国へ媚びるのは得意だろう?」
小馬鹿にしたような笑いに苛立ちが募り、小石を一つ掴み取って、力の限り投げつけた。
けれど、そんな精一杯の攻撃も将の前では無力同然で。
小石は当たるどころか、男の手の中に収まってしまった。
「将軍様!!」
「この女、よくも!」
兵士たちが剣を抜こうとするのを、将軍は「やめておけ」と制して、言葉を続ける。
「何やら言いたげな顔だな」
起き上がれないままの私は、まっすぐに将を睨みつけながら口を開いた。
「そう、ね。聞きたい、ことなら……一つ、ある。イグ、ニスは……なぜ、こんな……くだらない戦争を続け、るの」
息も絶え絶えに尋ねると、将軍はきょとんと目を丸くしたのち、呵々と笑った。
「理由など、俺のほうが聞かせてもらいたい」
「答えに、なって、ない……! 民たちが、どれほど苦しんで……」
怒りで自分の身体にムチを打ち、起き上がって座り込む。
攻撃できる武器なんてないけれど、アクアの王女として、侮辱されたまま寝てなんかいられない。
「うぅむ……どうやら俺は思い違いをしていたようだ。前言を全て撤回し、訂正しよう。誇り高きアクアの姫よ。俺や部下が貴女に無礼を働いたことは悪かった。許してくれとは言わないが、いまは視察後で皆、気が立っているんだ」
将軍は質の良さそうなマントで水龍紋のペンダントの泥を拭い取り、目の前で片膝を立てて跪いてくる。
綺麗になったペンダントを私の首にかけてきたあと、身体を抱えてきて、そっと川から引き上げてきた。
「俺の名は、エイデン。姫の名は何と?」
名乗られたら名乗り返すのが、貴族の礼儀。
そんなことはわかっているけれど、この男は敵の将だ。
汚らわしいイグニスの男から、大切な名を呼ばれたくなんかない。
無言のまま顔を背けていると、エイデンは怒ることもなく、呆れたように笑った。
「まぁいい。いずれ俺を信用できた時にでも、貴女の名を聞かせてくれ」
エイデンは私を抱えたまま、踵を返して口を開く。
「視察は終いだ。皇都へ戻るぞ」
第一話だけキリよく長めにとりましたが、次からはもっと短く区切っていく予定です。