第三十話『勇者』
この世界には四つの大陸がある。東のバルサーラ大陸、西のパシュフル大陸、南のイルイヤ大陸、そして、北のポティファル大陸だ。
勇者はバルサーラ教会から派遣された者達と共にポティファル大陸を訪れていた。
「……ここより先の地図は御座いません」
一人の男が世界地図を広げながら言った。
その世界地図はどこか奇妙だった。ポティファル大陸とイルイヤ大陸の全体像が描かれていないのだ。
不自然に上と下が途切れている。
「炎王レリュシオンが北を守り、竜王メルカトナザレと妖王ルミナスが南を守る事で人類の生存圏は維持されております。しかし、彼らはあくまでも防波堤。その支配領域から先は人界に紛れ込む魔人達とは比較にならない強魔達の領域です」
人類の三大禁忌。その一つは王と呼ばれる者に対する不敬である。
彼らの怒りを買えば人界は瞬く間に蹂躙されてしまうから、というのは理由の一つに過ぎない。
彼らは極地に蔓延る魔族による侵攻を防いでくれているのだ。彼らがその責務を放棄した時、世界は地獄と化す。
実際、極地から現れた初代魔王の暴虐は人の空想を遥かに上回る地獄を顕現させた。
「勇者様。どうか、御武運を……」
教会の者達がひれ伏すと、勇者は言った。
「……感謝する」
勇者は聖剣を鞘から引き抜いた。
「行ってくる」
彼は大地を蹴り、炎王の支配領域を超えた。
同じ世界にありながら、そこはまさしく異界だった。
人は自らの生存圏を人界と呼んでいる。そして、極地に広がる魔族の領域を魔界と呼んでいる。
「これが魔界か」
人界では感じる事のない強大な魔力が無数に点在している。
そして、その魔力の一つが勇者に襲い掛かって来た。
それは巨大な植物のようだった。無数の荊棘に取り囲まれ、見上げた先には巨大な花弁が広がっている。その花弁には禍々しい文様が浮かび、その中央には眼球がある。
「石化の魔眼か……」
勇者が咄嗟に張った結界が石に置換されていく。
結界は魔力によって編まれている。魔力とは無形の力だ。形を整えて物質のように扱う事は出来る。けれど、魔力を物質に変換する事は一流の魔法使いにも不可能な奇跡の御業だ。
その奇跡を事も無げに起こした魔樹に対して、勇者は目を細めた。
「……なるほど」
勇者は聖剣を振るった。一息の内に百の斬撃が放たれ、魔樹はバラバラになって崩れ落ちていく。
そして、落ちた花弁が地面に到達すると共に無数の魔樹が地面から湧き出してきた。
死に瀕した魔樹は種子をバラ撒いたのだ。そして、その種子は瞬く間に芽を出し、成長した。
百を超える魔樹が一斉に石化の魔眼を放つ。勇者は結界を展開し、聖剣に力を注ぎ込んだ。
眩い光を帯びた聖剣で魔樹を薙ぎ払う。光の刃はどこまでも伸び広がり、触れたもの全てを消滅させていく。
全ての魔樹を消滅させると、今度は虚空に黒い棘が次々に現れた。
「触れるのは不味いか」
恐らくは剣や魔法で触れても不味い。
これは魔界の細菌だ。それも魔力を汚染するタイプのもの。
勇者は直感に従って魔菌を回避しながら後退した。
すると、いきなり暗闇が広がった。夜が来たわけではない。見上げると、そこには巨大な足の裏が見えた。
巨人だ。山よりも巨大な人形が勇者を踏み潰そうとしている。
勇者は聖剣を振り上げた。巨人を一刀両断する。左右に別れた巨人は倒れるかと思いきや、無数の蟲となって勇者に襲い掛かって来た。
どうやら蟲が群体となって巨人に擬態していたようだ。
蟲を薙ぎ払おうと聖剣を振り上げると、再び魔菌が襲い掛かって来た。
咄嗟に移動すると今度は彼方から太陽が飛んで来た。
「……これが魔界か」
太陽を思わせる巨大な火球を勇者は斬り裂いた。すると、その炎に蟲達が焼かれていく。
そして、勇者は自分を見つめる一頭の馬に気がついた。
山よりも巨大な馬だ。その蹄がいきなり頭上に降って来た。
信じがたい速度による速攻を勇者は凌ぎ切る。そこへ鬼人が襲い掛かって来た。
鬼人を片腕で投げ飛ばすと、今度は別方向から太陽が飛んで来た。かと思えば目の前にボロ布を纏った奇妙な存在が勇者に触れようと腕を伸ばした。
「あまり殺したくないのだが……」
そう呟くと、勇者はすべてを斬り裂いた。
山よりも大きい馬、無数の蟲、亡霊の如きもの、そして、太陽。
しかし、魔菌を斬る事は出来なかった。
「……とりあえず、収穫はあったな」
そう呟くと、勇者は炎王の支配領域まで後退した。魔菌は支配領域の境界線まで勇者を追ってきたが、そこから先には入って来なかった。
勇者は剣を鞘に戻した。
「あれが生物を魔族に変えるものか」
正体は不明。ただ、アレに触れたものは魔性を得る。
剣は魔剣と化し、人は魔人となり、竜はエルダー・ヴァンパイアに変貌する。
嘗て、先代勇者メナスが魔界から持ち帰った情報の一つだ。
その正体を探る事こそ、勇者が魔界に挑む最たる理由だった。
「ゼロ地点へ向かうには準備が必要だな」
願わくば、一刻もはやく魔菌の正体を探りたい。
それは長い歴史の中で多くの悲劇を生んできた。
誰かが泣けば胸が苦しくなる。
誰かが笑えば胸が暖かくなる。
だから、みんなに笑って欲しい。
それが勇者の意思であり、原動力だ。
哀しみの種を取り除く為ならば如何なる死地へも躊躇いなく飛び込んでいく。
故に――――、彼は『勇者』と呼ばれている。