第十八話『アイリーン・ベルブリック』
ノックの音で目が覚めた。また、今日も淑女の教育が始まる。休みがないから辛くなってきた。
だけど、うだうだしていても仕方がない。
「どうぞ」
ベッドから起き上がって返事をする。
今日も家庭教師のシェリー・ブロッサムの厳しい視線に晒される。
「はぁぁぁ……。早く帰ってきてよ、アイリーン……」
せめて、アイリーンが居てくれたら心が休まるのに……。
「はい、お嬢様」
「……おろ?」
聞き馴染んだ声がした。慌てて顔を向けるとアイリーンがいた。
「ア、ア、ア、アイリーン!!」
居ても立っても居られない。オレはアイリーンに飛びついた。
「遅いよ、アイリーン! めっちゃくちゃ寂しかったじゃんか!!」
「……お嬢様。申し訳御座いません」
アイリーンに抱き締められて、オレは久しぶりに安息を得た。
「これからはずっと一緒に居られるんだよな!?」
「はい、お嬢様」
アイリーンは微笑みながらオレをそっと下ろした。そして、跪いた。
「お嬢様。一つ、お願いがあります」
「お願い? なに? アイリーンの頼みなら何でも聞くぜ!」
アイリーンのお願いなんて初めてだ。なんだか、すごく嬉しい。
いつもオレの世話を焼いてくれるアイリーンには恩返しがしたいと思っていた。
「……お嬢様。わたくしに永遠の忠誠を誓わせて頂きたいのです」
「永遠の忠誠……?」
オレは首を傾げた。
■
アイリーン・ベルブリックはベルブリック伯爵家の長女として生を受けた。
ベルブリック伯爵家はアイニーレイン伯爵家と共にアガリア王国の二本槍と呼ばれ、国防の要として王家から重用されて来た。
王家の剣槍となる事を誇りに思い、ベルブリックは代々息子と娘に厳しい鍛錬を課して来た。
ベルブリックの名の下に生まれた者に女として生きる事など許されない。王家や公爵家の女性の守護者となる。その為に生きる事を定められている。
それを不幸と嘆かなかったわけではない。他家の令嬢達が蝶よ花よと育てられ、可愛らしいドレスを身に纏い、美しくなっていく姿を羨まなかったわけではない。
並の男よりも太くなってしまった腕や足を見る度に叫び出しそうになった。顔も無骨になり、大人の男に怖がられた時は息が出来なくなる程に悲しくなった。
だから、アイリーンは女である事を諦めた。こんな化け物に恋してくれる男など居る筈がない。
いつか男に抱かれる日が来たとしても、それは才能ある戦士を生み出す為の義務によるものだろう。その時の相手の顔を想像した。きっと 牛や馬を犯すような顔をしている筈だ。こんな女を抱かなければいけない事を嘆くはずだ。
―――― アイリーン!
フレデリカ・ヴァレンタイン公爵令嬢の守護者となる事が決まり、初めて顔を合わせた時の事を昨日の事のように覚えている。
初めはポカンとした顔をしていた。子供はみんなアイリーンを恐れる。だから、少しでも安心してもらいたくて笑顔を作った。
すると、父親に『不満そうな顔をするな』と小声で叱られた。笑顔を作った筈なのに、父親には不満そうな顔に見えたらしい。
泣きそうになった。
『……君、アイリーンって言うんだね? よろしくね!』
公爵令嬢には相応しくない口調だったけれど、そんな事はどうでも良かった。
フレデリカはアイリーンに笑い掛けた。弟にも怖がられてばかりで笑顔を向けてもらえた事など殆ど無かったアイリーンにとって、それは衝撃だった。
それからの日々はアイリーンにとって幸福なものだった。なにしろ、フレデリカはアイリーンを怖がらない。それどころか深く信頼して甘えてくれた。
いつの頃からか、あるいは初めからかもしれない。アイリーンはフレデリカの世話をする事が楽しくなっていた。毎日の服のコーディネイトを考えたり、彼女の好みと栄養バランスを考えてヘッド・シェフに献立を考えさせ、寝る前には本を読み聞かせた。
初めに言われた職務内容以上の仕事を率先して行った。フレデリカの兄であり、領主代行であるロベルトからは幾度か働き過ぎないように注意された。けれど、頭を下げて続けさせてもらった。
それが不敬である事を承知している。それでもアイリーンはフレデリカを娘や妹のように愛した。
誰かの恋人や愛妻には成れないと諦めていた。けれど、フレデリカは母や姉にしてくれた。
「……父上」
アイリーンは伯爵領に戻って来た。それは力を得る為だ。
「わたくしはお嬢様に幸せでいて欲しいのです。お嬢様に笑顔でいて欲しいのです」
アイリーンは涙を零しながら父親に懇願した。
「どうか……、お嬢様を守れる力をわたくしに」
アイリーンにとってフレデリカは宝物だ。
メルカトナザレの襲撃後、気丈に振る舞っていたフレデリカがロベルトに縋り付いて泣きじゃくる姿を見た時は胸が張り裂けそうになった。
あの子を二度と危険な目になど合わせたくない。護る為の力が欲しい。
それが自分を更なる化け物に変える事だとしても構わない。命を削る事になっても構わない。
例え、それが一年に満たない時間の為であっても……。
「アイリーン。お前の役目は来年までとなっている。それまではフレデリカ様が公爵領を出る事も無いだろう」
「心得ております。それでも……、わたくしは……」
アイリーンの父であり、王宮騎士団長のヴォルス・ベルブリックは娘の姿に感嘆していた。
女の身で主君の為にここまで身を捧げる覚悟を持てるとは考えていなかった。
その姿はまさしく騎士であり、ヴォルスは少し考えた。
「……アイリーン。お前の覚悟を問う」
「なんなりと」
ヴォルスは言った。
「お前はフレデリカ様の為にすべてを捧げる事が出来るのか? これからの人生のすべてを」
「捧げる事が出来ます。わたくしの人生のすべてを!」
アイリーンは顔を上げた。その瞳に宿る決意は本物だった。
「ならば、一つある。だが、これはお前の人生を決定づけるものとなる。今のお前ならば別の人生を歩む事も可能だぞ」
「別の人生など要りません! わたくしはお嬢様の為に生きたいのです!」
「女としての人生も諦められるのか?」
「構いません!」
その言葉を受けて、ヴォルスは再び考える。
アイリーンが筋肉に覆われた自分の体の事を嘆いている事は知っていた。
己が施した教育が娘にとってどれほど酷い仕打ちであったか理解していた。
それでも王家の剣槍として役目を果たす為にアイリーンを鍛え上げた。
「……分かった。ならば、お前にベルブリックの秘奥を伝授しよう」
「秘奥で御座いますか……?」
「そうだ。『忠義の騎士』というスキルがある。ベルブリックの者が心より主君に対して忠誠を誓う時、発現するスキルだ」
「『忠義の騎士』……」
「このスキルを得た者は己のすべてを主君に捧げる事となる。そして、主君の為ならば大いなる力を振るう事が出来る。だが、それ以外の為には力を振るう事が出来なくなる。加えて、主君を変える事は出来ない。フレデリカ様の専属使用人の立場を失っても、お前にとっての主君はフレデリカ様ただ一人となるのだ。仕える事の出来ない主君の為の存在で在り続けなければならない。それは苦痛に満ちた人生だ」
「構いません。わたくしの主君はフレデリカ様で御座います!」
「……考えは変わらぬか」
ヴォルスは言った。
「ならば、スキルを得る為の前準備が必要となる。だが、私も多忙の身だ。少し時間が掛かる。一月程待て。それまでは公爵領に戻らず、ここで己を鍛え上げるのだ」
「……かしこまりました」
一ヶ月もの間、フレデリカの下へ帰れない。それはアイリーンにとって苦痛だった。それでも頷いた。
その姿を見届けてヴォルスは王宮へ戻って行った。
本当はスキルを得る為の前準備など必要ない。ただ、心から永遠の忠誠を誓い、主が受ければ成立する。
だから、この一ヶ月はアイリーンに己を見つめ直させる為のものだ。そして、ヴォルスが王や公爵を説得する為のものだ。
「……アイリーン」
騎士である事を優先し、父親である事を放棄した。娘に対して酷い事をしてきた。
そんな娘が涙ながらに懇願して来た。
それは騎士としても叶えてやりたい願いだった。だから、ようやくヴォルスはアイリーンの父親として動く事が出来た。
国家存亡の危機の真っ只中にある状況で公爵と王に暇な時間などない。それでもヴォルスはなんとか時間を工面してもらえるよう働きかけた。
あるいは不敬として処断されかねない提案であり、状況を考えれば最悪なタイミングだ。
騎士としての自分だけならば立ち止まっていた。けれど、父としての自分が背中を蹴飛ばした。
「陛下、公爵閣下、どうか……、アイリーンにフレデリカ様へ永遠の忠誠を誓う事を御許し頂きたい。そして、願わくば未来永劫、フレデリカ様の側仕えに……、どうか」
あり得ない提案だと却下される。そう思っていた。それでも食い下がって、何とか説得する為の言葉を必死に考えていた。
けれど、王と公爵の答えは予想を裏切るものだった。
「許可しよう」
「……陛下」
アッサリと許可が降りた。
「……フレデリカが望むならば好きにするがいい。アイリーンは少し甘いが……、しかし、彼女以上に信頼を置ける者もおるまい」
罰せられる事もなく、承諾を受ける事が出来た。
あるいは一月後にアイリーンの考えが変わっているかも知れない。だから、正直を言えば快諾しないで欲しかった。
これではアイリーンが意見を翻しても……。
「か、感謝申し上げます」
アイリーンの意見を確認してから話を通せば良かったと、ヴォルスは今更になって気がついた。
残念ながら、彼は脳筋だったのだ。
◆
そして、一ヶ月の時が経つ。
ヴォルスはアイリーンに今一度覚悟を問う。
「考えは変わっていないな?」
「はい、変わりません」
ヴォルスは深く息を吐いた。
「……この件はお前自身の口からフレデリカ様に話せ。フレデリカ様が否と言うならば諦めろ」
「はい!」
■
アイリーンから『忠誠の騎士』というスキルについて教えてもらった。
それで漸く思い出した事がある。
ゲームの中でそのスキルを持つ存在がいた。だけど、その存在は人では無かった。
フレデリカ・ヴァレンタインの従魔だ。漆黒の毛皮の虎のような魔獣。その名前もアイリーンだった。
「……ね、ねえ、そのスキルを手に入れたらアイリーンに何か悪い事が起きたりはしないの!? そ、そうじゃなくても、アイリーンはいいの!?」
「肉体が多少変化する可能性があると聞いております。ですが、わたくしはそれでもお嬢様を御守り出来る力が欲しいのです。どうか……、お嬢様」
「アイリーン……」
もしかしたら、アイリーンは魔獣になってしまうかもしれない。その事は彼女も分かっているらしい。
それでもオレを守りたいと言ってくれた。
永遠の忠誠を受ければ、これからもずっと一緒に居られる。来年以降もずっと傍に居てくれる。
「……アイリーンは不幸にならない?」
「はい。わたくしの幸福はお嬢様のお側に居られる事で御座います」
「アイリーン……」
アイリーンは頭を垂れた。
「わたくしはお嬢様に永遠の忠誠を御誓い申し上げます」
アイリーンと一緒にいたい。だけど、それは彼女を縛る事になる。オレの為に人生のすべてを捧げる事になる。
悩んだ。迷った。考えた。
彼女は覚悟を示してくれている。だったら、オレも覚悟を示さなければいけない。
覚悟には覚悟で応える。彼女がオレの為に生きてくれるというのなら、オレも彼女の為に生きていく。
彼女がオレの幸せを願ってくれるように、オレも彼女の幸せを願う。そして、その為に尽くす。
「アイリーン・リズラィヒ・レヌール・ウル・ラリアンテス・ベルブリック。貴女の誓いを受けます。そして、わたくしも誓います。貴女の忠誠に答えられる者となる事を」
もう二度と弱音なんて吐かない。淑女の教育だって、笑顔で乗り切ってみせる。そして、立派な公爵令嬢として、立派な皇太子の婚約者として歩んでみせる。
「ありがたき幸せに御座います」
その直後だった。アイリーンの体が輝き始めた。どうやら『忠誠の騎士』のスキルが発現したようだ。
「アイリーン!」
「……大丈夫です、お嬢様」
不安になって駆け寄ろうとしたらアイリーンは言った。
光に包まれていく彼女の顔は笑顔だった。
「アイリーン……」
やがて、少しずつ光が弱まっていく。アイリーンの体が顕になっていき、そして、残った光はアイリーンの前で剣のような形に変化した。
その不思議な光景よりもオレはアイリーンの変化の方に度肝を抜かれた。
「ア、アイリーン!?」
「……体が」
アイリーンの体が縮んでしまった。鍛え抜かれた筋肉が消失して、年頃の女性の体つきになっていた。
彼女自身も戸惑っている様子だ。
「だ、大丈夫!?」
「は、はい。問題御座いません」
アイリーンは微笑みながら目の前に浮かぶ光の剣を掴んだ。すると、光が一気に破裂して、後には黒い剣が残されていた。
「その剣は……?」
「……これは、恐らくはわたくしの力の結晶で御座います」
アイリーンの剣を見てみる。柄の部分には虎のような獣の彫刻が施されている。
「お嬢様」
アイリーンは傅いた。すると、ぶかぶかになってしまったメイド服の隙間から彼女の素肌が見えてしまった。
彼女の体には無数の傷痕があった。それらは厳しい鍛錬の中で刻まれてしまったものなのだろう。
そうして得られた肉体が変化してしまった。その事に彼女が何を感じているのかオレには分からない。
「これからも何卒よろしく御願い申し上げます」
「此方こそ、アイリーン、よろしくお願い致します」
◇
フレデリカが気づいた通り、フレデリカ・ヴァレンタインが従えていた黒い魔獣の正体はアイリーンだった。
メルカトナザレ襲撃時に暴走してしまったフレデリカに殺された彼女の魂はそれでもフレデリカを守ろうとした。
その時、『忠誠の騎士』のスキルが発動した。人としての肉体を失った彼女は新たなる肉体を再構築した。
そうして愛する宝物を護る為、黒き獣は永遠に彼女の守護者となったのだ。