記憶は何処へ?
救急搬送された祥次郎は、翌日、病院からバー「メロス」に、1人でトボトボと戻ってきた。
果物ナイフで傷つけられた腕や腿は、しっかり包帯で巻かれていた。
入院も勧められたが、それほど深い傷ではなかった上、店のこと、そして秋音と若葉のことがどうしても気になり、応急処置だけ受けて早々に戻ってきた。
重いドアを開け、店内に入ったものの、人の気配はほとんど無かった。
「お~い、秋音ちゃん!戻ってきたぞ。どこにいるんだ?若菜ちゃんもいるか?」
しかし、返事は一向に無かった。
祥次郎は首を傾げ、店内をくまなく探すことにした。
特に荒らされた様子はなく、祥次郎が担ぎ込まれる前と同じ状況であった。
しかしその時、カウンターの真下から、女性のヒールが飛び出していることに気づいた。ヒールの先を目で追っていくと、そこには背中の半分まで長い髪で覆われた若い女性が、うつぶせの姿勢で倒れていた。
「秋音ちゃん!?どうしたんだ!おい!」
祥次郎は、女性の上体をそっと起こし、真横から顔を覗くと、目を閉じたままぐったりとしている秋音であった。
「秋音ちゃん!一体どうしたんだ!目を覚ませ!」
祥次郎は秋音の体を起こすと、おしぼり1本を額に当て、もう1本のおしぼりを取り出して顔を拭きとった。
すると、秋音は少しずつ瞼を開け、口元が開き始めた。
「ようやく、目覚めたようだね」
祥次郎は、ホッとした表情で秋音を見つめた。
「あれ?私、一体どうしたの?」
秋音は、か細い声で、祥次郎に尋ねた。
「どうしたのって、何も、覚えていないのか?」
「あれ?なんで、私、ここに、いるの?」
「秋音ちゃん・・・・・・」
「ねえ、マスター。私、頭がすごくボーっとする。おまけに気分が悪いの。お水、いただけるかしら?」
「あ、ああ。ちょっと待ってな」
祥次郎は、水道水をコップに注ぐと、秋音の口元に近づけた。
秋音は、コップにそっと手を添え、水を口の中に注ぎ込んだ。
いきなり水を飲んだせいか少しむせったが、何とか全てを飲み干した。
「大丈夫か?」
「うん、少しだけ、落ち着いた、かな?」
秋音は、目を閉じ、深呼吸した。
「一体どうしたんだ?こんな所に寝転がって」
「それが……なぜだか、思い出せないのよ。一体何があったのか、全然思い出せない。二日酔いなのかな?」
「え?二日酔い?本気で言ってるのか?」
「違うの?」
秋音は、呆然とした表情で祥次郎の顔を見つめた。
「だって、俺がこの店から連れ出された後、君と若菜ちゃん、そして野口の三人が残されたんだぞ。まさか、その後三人で酒盛りしてたとでもいうのかい?」
「え?昨日、お店に来てたの?若菜ちゃん。野口さんも?」
「それも覚えていないというのかい?」
「うん。覚えてない」
祥次郎は驚いた。
秋音は本当に二日酔いで、昨日のことはすべて忘れてしまったのだろうか?しかし、昨日の緊迫した状況を考えると、急に仲直りし、酒盛りしたことは考えにくい。そうなると、記憶障害の可能性も捨てきれないと感じた。
しかし、一体なぜ、記憶が飛んでしまったのだろうか?
その時、祥次郎は、カウンターのテーブルの上に、果物ナイフが置き忘れてあったことに気づいた。
ナイフの刃先に少しだけ血がこびりついており、おそらく昨晩若菜が使ったナイフと同一のものである可能性は高いと感じた。
「ナイフがあるのに、秋音ちゃん、無傷なんだ?」
祥次郎は、あっけにとられた表情でナイフを見つめながらつぶやいた。
その言葉を聞き、秋音は体中を触ったものの、血の痕は確認できなかった。
その時、秋音は後頭部をさすりながら、あれ?といいたげな表情を浮かべた。
「ねえ、マスター、私の頭の形、何だか変かも。この辺りかな?少し痛みも残ってるの」
すると、祥次郎は秋音の後頭部をそっとさすった。
「あ!何かにぶつかってできた『たんこぶ』だね、これは」
祥次郎は、秋音のたんこぶの大きさを確認すると、その大きさに見合う凶器があるかどうか、見渡した。
店内にはゴルフパットや箒、ギターなどが置いてあるが、いずれもこの大きさのたんこぶは作れないと感じた。
その時、祥次郎は自分が手にしていたナイフを見つめ、手にしたまま秋音の後頭部に出来たたんこぶに、ナイフの束の部分を合わせてみた。
「あれ、大きさが見事に一致するな」
祥次郎は、犯人がナイフの束の部分を使って思い切り秋音の後頭部を突いた可能性を見出した。
「これで、切りつけたんじゃなく、殴ったんだ。しかも、後頭部を」
昨日、若菜は店に入るなり祥次郎と秋音の2人にナイフを近づけてきた。
その時の若菜は、すぐにでも2人を刺し殺そうとする素振りを見せていた。
実際、止めに入った祥次郎は若菜に腕や腿を切りつけられた。
その若菜が、秋音にはナイフの柄で殴るだけで止めてしまったのが理解できなかった。
「秋音ちゃん、何か思い出せるかい?俺が出て行ったあと、君と若菜ちゃん、野口の三人以外、誰かこの店に居なかったかい?」
しかし、秋音は頭を抱えたまま動かず、終始無言であった。
「ごめんね、何も思い出せないんだ。どうしてだろ?何も、思い出せない……」
「え?ほ、本当か?」
「本当だよ、この店に来たのは覚えてるけど、そこから先が、何も・・・・・・。一緒に誰が居たかも覚えてないの」
「秋音ちゃん・・・・・・」
秋音は、何者かにナイフの柄で後頭部を殴られた後、衝撃から軽度の記憶喪失になってしまった様子である。
おそらく、秋音は犯人の姿を見ているはずである。
しかし、その部分の記憶がすっぽり抜けてしまった様子である。
「ごめんマスター、私、何も覚えてないのよ。どうしてここにいるのかすら、覚えていなくってさ」
秋音は、頭を抱えたまま、うつむき加減の姿勢ですすり泣いた。
祥次郎は包帯を巻いていない方の手で秋音の背中をさすると、秋音は祥次郎の胸の中に顔を沈めた。
「俺が探すからさ。犯人のこと、絶対見つけ出すからさ。俺たちにこんなひどい目に会わせておいて逃げ出すなんて、絶対許せないからさ」
祥次郎は、かすかな声で、秋音の耳元でささやくように語った。
片手で、祥次郎を傷つけ、秋音を殴打したナイフをギュッと固く握りしめつつ……




