悪魔の牛丼
今日の晩飯は、どんぶりによそったあつあつでつやつやの白米と、その上にこれでもかと乗せられた少し甘辛い香りが食欲をそそる、薄い輝きを放つ牛肉のマリアージュを堪能しようと思う。
そう、とどのつまり牛丼と呼ばれる食べ物である。
『海外の人に聞きました。日本食のイメージといえば?ランキング』。
寿司、ラーメンとここまでは読者の予想通りだろうが、実は次いで牛丼がランクインする程度に、それが日本食として深く浸透していることをご存知だろうか。
牛丼チェーン店も数多く存在し、その歴史、牛丼の歴史も語り始めるとそれはそれは長くなり、本筋とかけ離れてしまうためここでは割愛させていただこう。閑話休題。
今日これからいただく予定の牛丼も、チェーン店の一つ、すき家のものであるのだが、今回のお目当ては通常の牛丼ではなかった。
それは期間限定メニューの一つであり、悪魔の名を冠する、通称『悪魔の牛丼』を戴こうと言うのだ。
「(その力がどれ程のものか、この私が直々に試してやろう。くふふっ、今から楽しみだ。 この為だけに、昼を抜いて万全の状態で臨んでいるのだ、そう簡単に倒されてくれるなよ?)」
そんなことを考えながら、店員を呼び出しボタンで呼びつけると、「この悪魔の牛丼をとやらを戴こうか、勿論つゆだくでな」
「カシコマリマシタ、ツユダクデスネ」
チェンと名札を掲げた店員は、片言ながらも慣れた様子でオーダーを取る。
「(ふむ、こやつ出来る。 しかし、出来るといえここまでは流石に気が回らなかったようだがな)」
「あぁ、それとお冷やのおかわりも頼む」
「カシコマリマシタ」
「(そう面倒そうな顔をするでない。私も喉が渇いて仕方がなかったのだ、許してくれたまえ。)」
声には出さずそう心の中で告げると、川のせせらぎのような音を立て満たされていくグラスを気の抜けた表情でポーッと眺めていた。
グラスへお冷やが適量くらいまで注がれるとチェンがカウンターへと向き直ったのだが、それは彼のフェイントだった。
もう一度要求される可能性を危惧したのだろう、チェンが更に追加でその場で半回転しこちらに向き戻ると、適量であったはずのグラスにその手にしたピッチャーの中身を再度注ぎ足し始め、あわや大惨事寸前の臨界点でやっと注ぐことを辞めたのだ。
「(試されている……。 この私を、すき家ニストとしての矜持を……。)」
だがここで慌ててはいけない。
慌てるのは二流ーー、いや三流のやることである。
落ち着き払った様子でそっとグラスを持ち上げると、それを一口啜り、適量まで戻った水位に人心地つきテーブルへグラスを戻す。
「(まさかこの私を試そうとはな。 面白い。 チェンよ、貴様はいつまでも私を飽きさせんな)」
まさにエンターテイナーだな、などと考えていたら注文から一分もしないうちにそれが現れた。やつだ。
「(配下であるチェンに自らを運ばせるとは……やはり悪魔の名は伊達ではないようだ)」
「オマタセイタシマシタ」
チェンの口から告げられる強がりに思わず笑みがこぼれる。
しかしそうも言ってはいられないようだ。
「(嗅覚だけでも、こやつが相当な手練れであることなど容易に理解が出来るわ)」
通常の牛丼の上に白髪ネギと揚げ玉がのせられ、特製ダレが既に掛けられていたが、鰹節と温玉は別添えであった。
「(この私の手を煩わせようと言うのか、流石は悪魔。汚い手をつかいおるわ。 だが、そうでなくては)」
揚げ玉の真ん中に窪みを作り、たまごポケットを形成する。
そこに温玉を落とし入れると、直ぐに鰹節を全体に散らす。
「(見ろ、この私の力に恐れおののき鰹節が躍り狂う様を、これぞまさに阿鼻叫喚!それではお手並み拝見といこうか)」
手を合わせると、「いただきます」と回りには聞こえない程度に口にする。
「(私はつゆだくの時はスプーンでいただくと決めているからな、今回も例に漏れずだ。 まずは温玉のどたまからかち割ってくれるわ!)」
右手に持った匙でど真ん中に落とされた温玉を真っ二つに割ると、白身と黄身がドロッと溢れるように揚げ玉の間からネギと肉、そしてご飯目掛けて染み込んでいく。
匙としては少々細口なそれで軽く混ぜ込み、たまごを満遍なく行き渡らせると、辺りに立ち込める香りが一層強くなり、最早暴力的とも言える匂いに一瞬意識が朦朧とする。
「(ーーもう、我慢ならぬ)」
香りだけでトリップしそうになるのを鋼の意思で堪えると、未だに湯気の立ち上るそれを一息に口へと押し込んだ。
瞬間、口の中が爆ぜた。
否、それはただの錯覚。
しかし、それほどの衝撃だった。
まずガツンとにんにくの聞いた特製ダレの風味が先陣を切ると、追って鰹節とネギの香りが口一杯に広がる。
あつあつのご飯に絡んだ少し辛めの先程の特製ダレと牛肉の甘味、揚げ玉のサクサク感、それらをたまごが優しく包み込み一つに纏める。
全てが舌の上で絡み合うように緻密に計算されたそれは、まさに悪魔の名に恥じぬ、いや相応しい逸品と言えよう。
一口、二口と猫舌であることすら忘れ、かなり熱いそれを掻き込むようにかっ食らっていく。
が、しかしまだ何か足りないーー。
完成には限りなく近いのだが、まだ決定的なピースが一つ足りていない。
少しひりつく舌を一度水で清め流し込むと、そこで私は気付いた、いや気付いてしまったのだ。
目の前にある紅生姜の存在に。
何故これに気付かなかったのか。
気付いてしまえば簡単なもので、紅生姜にしては少々多すぎるくらいの量、実に丼の三分の一程度が赤く染まったところで、その手を再び食べ始めることにシフトする。
新たに加わったそれで最早赤い悪魔としか呼べなくなってしまったものを口にする。
嗚呼、これだ。
舌が、脳が、身体が歓喜し震えているのがわかる。
『優 勝』
その二文字が脳裏をよぎる。
その時チェンがこちらへ親指を立て、にこやかに笑っていた気がしたーー。
口の中に広がるハーモニーは、まるで白米を指揮者とした、舌の上で奏でられるオーケストラのようであった。
しかし、そう舌鼓を打った直後から私の意識はなくなっており、気付いた時には代わりと言ってはなんだが、目の前には既に空になったどんぶりと勘定の済んでいないレシートだけがそこにあった。
これは悪魔なんて言葉で比喩している場合じゃない。
これじゃ、これじゃあまるでーー、
「食べる麻薬じゃないかーー」
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