100m男 後編
二日後、僕は先輩と二人で街中を歩いていた。
時刻は夕方。今日も変わらず快晴であったため夕日に染まる空は赤く美しい。
「行きましょうか」
「ああ、そこの角を曲がればすぐだ」
100m男の居場所はこれまでの目撃情報から一定の法則を持っていることを先輩が突き止めた。
先輩曰く、
「その日最もコンディションが整っている地面のある場所」
らしい。それでいて目立たない、路地裏に限るから実はそこまで多くの場所を探すことはない。
尤も、僕にはその整っている場所というのが分からなったが、先輩には分かるらしく、僕は大人しく先輩に着いて行くことにした。
「私も着いていってもいいのかな?」
「ええ。100m男が許可してくれるのなら大丈夫です」
走る時は通行人が一切いなくなるらしい。それが先輩にも適用されてしまうのか分からないが、先輩にも見ていてもらえるなら僕が勝つところを見ていてほしい。
路地裏の角を曲がると、そこに彼はいた。
見た目はそこまで特徴を挙げることもないだろう。
スポーツ刈りにした短い髪。鍛え上げられた下半身にそれを包むランニングユニホーム。
顔はイケメンの分類に入るだろう。無骨だが、整っているところは整っている。
周囲を少し睨みつけるように見ているため、臆病な者であればこの時点で帰っていそうだ。
「お、お前らが次の挑戦者か?」
彼は僕を見つけると、途端に笑顔になってこちらに声をかけてきた。
これまでの仏頂面が嘘みたいな笑顔だ。
「あ、ええと……」
不意打ち気味に放たれた笑顔に僕は出かけていた言葉を失う。
その僕の様子に、挑戦者ではなくただの通行人だと勘違いしたようで。
「なんだ、違うのか……」
と、明らかにがっかりした様子を見せる。
こちらが申し訳なるくらいに落ち込んでいる。
「あ、いえ。驚いてしまいましけど、あなたと一緒に走りたいと思って来ました。100m男さんで間違いないですか?」
「なんだ、そうだったのか!」
と、再び彼は笑顔になる。飛び上がらんばかりに。
……おかしい。これまで聞いてきたイメージと違いすぎる。
いや、先輩が言っていた、野球部のキャプテンでもしていそうな爽やかなイメージには合っているかもしれない。
だが、勝負に負ければ生気を奪うような、そんな悪質な者には見えない。
「それと、俺は100m男なんて名前じゃねえぞ。誰が付けたか知らないが、俺にはちゃんとした名前がある。十瓦砕造だ。よろしくな!」
と、握手を求めてきた。
「あ、よろしくです。僕の名前は――」
と、僕も自己紹介を交えながら握手を返そうとしたが、
「お、そっちにいるのはこの間の姉ちゃんじゃねえか! この前は熱い戦いだった。また機会があれば走ろうな!」
すぐに十瓦さんの手は引っ込んだ。
まだ握り返してもいなかった。
「……うん、体調はバッチリのようだな。んじゃ、走るとしようかね」
十瓦さんは僕を頭のてっぺんからつま先までをみると満足げに頷く。
やはり視診のような能力があるのだろう。
「今日はこの線からあの白線までだ」
十瓦さんが差したのは足元の白線。
何に使われていたのかは分からないが、同様のものが向こう側にも見える。
「横断歩道用のものだが、安心しろ。車は通らねえからよ」
落ち着いた声で十瓦さんは言う。
彼が言うなら、と本当に安心できてしまう。
何だろう……面倒見の良い兄と話している気分だ。
「じゃあ並ぼうかね」
「はい。って……あの、願いは?」
十瓦さんがさっそく走ろうと準備しているので忘れかけていたがそうだ、願いを言うのを忘れていた。
「ああ、願いね願い。そういえばそんなのもあったな……」
「ちょっと……」
「いやいや、忘れてただけでちゃんと聞くさ! うん……」
何だか願い事に関しての信憑性が途端に薄まってきた。
本当に叶えてもらえるのだろうか。
「僕の願いはただ1つ。先輩の願いである、僕と先輩が何時までも一緒にいられるように、だ!」
恥ずかしげもなく言ってやった!
だって恥ずかしがっているのは先輩だけだしね。
これは先輩の願いだから。
「ほうほう。そいつはお熱いことで……熱すぎて準備運動もしていないのに俺の体が温まってくるぜ」
「僕も準備は終わっています。早速走りましょうか」
「ああ、勝負だ!」
白線に僕と十瓦さんは並ぶ。
白線の傍には信号のようなものがある。
「これが赤から青になったらスタートだ。まあ音も鳴るから見なくてもいいけどな」
一度、オリエンテーションとして音を鳴らしてくれた。
どうやら青になるとブーと鳴るらしい。何から何まで親切だ。
そして信号は赤になる。
僕はスタンディングスタート。
十瓦さんはクラウチングスタートである。さすが短距離の選手なだけはある。
僕がスタンディングスタートを取った理由はクラウチングスタートがよく分からないからだ。タイミングを掴みづらい。どうせ走るなら最初から立っていたほうが良いだろうという理由だ。
そもそも足の速さに自信があるかと言われたらそこまでない。
先輩にさも足が速いように語っていたが、小学生の頃にリレーの選抜メンバーに選ばれたくらいだ。クラスで3番目。
その程度で誰も勝てない100m男に挑むのだからさぞ滑稽なことだろう。
しかしあえて僕は言おう。
100m男に勝つには足の速さは関係ない!と。
スタンディングスタートになった僕に十瓦さんは何も言わない。
このスタートで問題ないのだろう。
「んじゃ、お互い準備できたという事で……位置について……」
信号が点滅していく。
赤から黄に。
しかし信号が赤になり車に轢かれてしまった十瓦さんがスタートの合図に信号を選ぶなんてどんな皮肉なのだろう。
そんなくだらないことを考えている間に、
信号は青になった。
そして走り出す。十瓦さんと、同時に走り出した僕が。
……速い。
走りながら思う。十瓦さんは速い。フォームが綺麗なだけではなく、走ることに躊躇いがない。
ここに十瓦さんが僅差で勝つ理由があるのだろう。
同じだけの速さで走れるなら、理想のフォーム、そして一切の余力がない方がいい。
挑戦者より少しだけ速いわけじゃなかったんだ……。
共に走って分かることもある。
十瓦さんは僕と全く同じ速さなのだろう。
結果はそのフォームなどの違いによって僅かながらの差で十瓦さんの勝利。
そう、僅かながらだ。
違いはフォームや走ることへの躊躇い。
だから、次は勝てる。
地面に座り込み、息を整える。
十瓦さんはさすがなことに少し息を乱しているが、座り込むこともなく、ゆっくりと歩くことで息を整えていた。
5分後、ようやく復活した僕は、
「十瓦さん、もう一度勝負してもらってもいいですか?」
と、再びの挑戦をした。
「あん? ……いいぜ」
訝しんだ様子だが、十瓦さんは頷いてくれた。
じゃあ早速走ろうか、と白線に並ぶ十瓦さんに僕は待ったをかける。
「その前に、靴を交換してもいいですか? ほら、今の全力疾走でこんなになってしまいまして」
僕は自身の靴を見せる。
ボロボロのズタズタ。
見るも無残な靴であり、到底走ることは無理だろうと思わせる程の靴である。
「……そうだな」
少し不思議そうな顔をしながらも十瓦さんは僕が靴を変えるのを待っていてくれる。
「よし、これで大丈夫です」
これで勝てます。
そう言いたくなるのをこらえる。
「……位置について……」
信号が青になった。
十瓦さんが走り出す。そして同時に僕も。
十瓦さんが先ほどと同じ様に綺麗なフォーム、そして躊躇いのない走りをしているのだろう。
雨の日でも練習を止めない。その努力の果てに培われた力は彼を裏切らない。
しかし、僕は今、彼のその努力の果てを見ていない。今のはただの予想である。
「なっ……!?」
彼は今僕の後方で驚いていることだろう。
明らかに速くなった僕に対して。
一歩踏み出す度に地面がそれよりも強く押し返してくれるのを感じる。
グングンと伸びる僕の速さ。
そして、そのままその差を維持したまま……僕はゴールへと辿り着いた。十瓦さんよりも早く、速く。
「ど、どうですか……僕の勝ちです……」
しかしその代償は僕の息切れだ。
先ほどと同じ様に地面に座り込み息を整える。
「……見たとこ、ドーピングをしている様子もねえ。と、いうことはお前、この短時間で自分の限界を超えたのか? ははっ、やるじゃねえか」
先ほどよりも息を切らしたまま十瓦さんは笑う。
「ああ、これで十分だ……自分の限界を超える……俺はこれを見たかったんだ」
満足そうに十瓦さんは笑みを浮かべる。
「長かったなあ……もう30年も経っちまったか」
「100m男……いえ、十瓦さんは死んだことに対して恨みとかはないんですか?」
ふと聞いてみた。
「恨み?」
が、当の本人は何のことだか分からないような顔をする。
「そんなもんあるかよ。だって俺が死んだのは俺のせいだ。俺が勝手に力尽きて、その結果車に跳ねられちまった。むしろあの運転手には悪いことをしてしまったと思っているくらいだ」
野球部のキャプテン……さっぱりとした性格。
そんなことを思い出す。
「あなたがこれで成仏できるんですか?」
「ああ、そうみたいだな。俺に無念があるとしたらそれは俺が壁にぶつかっていたからだ。伸びないタイム。結構きついんだぜこれ」
そう言って苦笑する。
「さて、俺はもう逝くぜ。無理してここに留められたようだが、その無理した無念ももう無え」
「あ、ちょっと、待ってくださいよ」
「あん? どうした?」
またも十瓦さんは不思議そうな顔をするが、そうはいくか。
「願い事ですよ、願い事。あなたに勝ったら聞いてくれるんでしょう?」
「ああ、願い事な……」
十瓦さんはバツの悪い顔をする。
おいおい、まさか……。
「いやほら、願い事は聞いてやったさ。でも叶えるなんて、な。誰も言ってない……というかそもそも願いを叶えるなんて話自体、俺が言い始めたわけじゃないし……」
「は……?」
まさかだよ。
「じゃ、じゃあせめて奪った生気だけでも……この先輩だけにでも返してください……」
「生気? それに関しては俺も分からんぞ」
……こっちもまさか、かよ。
ということは……
「まあいいじゃないか! その調子で限界を超えて行けばきっと願いだって叶うさ! じゃあな」
「あ、ちょ……」
そう言って急ぐように十瓦さんは消えた。……恐らく成仏したのだろう。
やっぱりあの人は野球部のキャプテンみたいだな……あの大雑把さはぴったりだ。
「凄いな君は! 見事に100m男に勝った! 願い事を叶えてもらえなかったのは残念ではあったが……」
「残念なのはこっちですよ……あと先輩たちも、か」
「え……?」
恐らく僕は明日から先輩たちと同じ様に体に、特に足に力が入らなくなるだろう。
これだけ全力で走ったのだ。なるのは当然だろう。
「筋肉痛。先輩は生気を奪われたのではなく、走った結果として筋肉痛になっただけなんですよ」
数日で足は治るさ、と先輩は強がっていたが、本当にその通りだった。
多分だけど、入院した人達だって、倒れるまで連日挑戦していたからに違いない。足に本当に力が入らなくなるまで。
「はあ……」
残念だよ。色んな意味で残念だ。
ここまでやる意味もそこまで無かったのかなと自分の靴を見る。
「しかし凄いな。最初はボロボロの靴で相手を油断させ、次に本来使う予定であった靴を使って本当の力を出す。某有名マンガで主人公が仙人様に弟子入りするときに使ったあの伝説の技ではないか」
違います。それは主人公が素でボロボロの靴を履いていただけであって、技でもなんでもないです。というか先輩、マンガ読むんですね……。
色々言いたいが、これだけで止めておく。
「違います」
「違う……? あれは技ではないというのか?」
「いえ、それではなく……いやそれも違うんですけど、僕が言いたかったのは僕の靴のことです」
そう言って一回目の勝負の時に使っていた靴を見せる。
「これ、ボロボロに見えますが、そこまで走るのに支障はありません。表面的にボロボロにしただけなので」
「ボロボロに……した?」
「ええ。走り終わった時に、しゃがみ込んだじゃないですか。その時にカッターで」
5分も座り込めばかなりボロボロにできる。
見るも無残なシューズへと。
以前に使っていた靴だから問題はない。
「しかし、なら二回目はなんであそこまで……」
先輩は不思議そうにしている。
言っていいのだろうか……ドーピング近い行為を僕はしていた。
……いや、勝てば種明かしをすると誓ったじゃないか。
「それも靴のおかげですよ。二回目の靴はバネ仕込みなんです」
言わばドーピングシューズ。
体にではなく、靴にドーピングを仕込んでいた。
「ネットで買ったんですけどね。100m男が僕の状態を把握して走ることは分かっていました。そして僅差になることも。だけど、僅差にならなかった勝負もあった」
それがハイヒールで走った人……おそらく女性との勝負。
女性は転倒してしまったが、この勝負はそもそもで差がついていたと考える。
「僕の体の状態以外を彼よりも引き上げてしまえば……靴を彼の靴以上のものにしてしまえば勝つ見込みがあると考えました」
靴底にバネを仕込むことで蹴り上げる力、前に出る力は飛躍的に上がる。
大会でも近年、禁止になっているみたいだが、100m男はドーピングシューズの存在自体を知らないだろう。
だって彼が生きていた時代は30年前。
体へのドーピングは疑っても、靴へのドーピングなんて考えつかないはずだ。
「すいません、先輩。先輩の期待を裏切るような真似をして。こんな卑怯な手段でしか勝てなくて」
最後に僕はそう謝った。
元から謝るつもりであった。
有耶無耶にするつもりなんか無かった。
「いいや、それはいいさ。だって私のために走ってくれだのだろう? 願い事も、生気を返すように言ったのも全て私のためだ。そのためにやってくれたのを怒れるはずがない」
「先輩……」
「ほら、肩を貸してあげよう。疲れただろう? どこか喫茶店にも寄っていこう。私からの勝利祝いだ」
先輩に寄り添って僕は歩く。
昨日までの、先輩を心配して歩いていた僕らよりも、今日の僕らの距離は格段に近い。
その調子で限界を超えて行けばきっと願いだって叶うさ!
100m男の言葉は確かに合っていた。
そして、僕の願いも叶っていた。
翌日以降、街のあちこちで100m男は成仏したという噂が広まっていた。
そして同時に、生気も本来の持ち主へと返っていったという噂も流れた。
流したのは僕と先輩。
「筋肉痛や疲労を生気を奪われたと勘違いしている者は多い。そして原因が消えても生気を奪われているという心理的要因で彼らは未だに少しだけ元気がないのだろう」
だから、生気が戻ったという噂が広まれば元気になるはず。
その効果はすぐにあった。
入院していた者はすぐさま退院し、学生も社会人も100m男に挑戦し負けて生気を奪われたと思い込んでいた人たちはそれまでの落ち込みが無かったかのように動き出す。
その一方で僕は……筋肉痛に悩まされていたけどね。
「痛つ……」
普段の運動不足がたたり、歩くのが困難である。
何とか自宅に着き(先輩と途中まで一緒に帰った)、玄関を開けると、そこには父がいた。
「なんだか父さん、今日は調子が良いから仕事も早く終わって帰れたぞー!」
喜ぶ父母をよそに僕は空笑をするのが精いっぱいであった。
父よ……あなたも挑戦者であったか……。
よし眠い!
とりあえず書き終わった!