100m男 中編
あんまり話は進みませんが……
しかし、どうしたものか……。
放課後の空もオレンジから段々と黒くなり、夕方は夜になる。
今日の部活はお終いとなり、僕と先輩は部室を後にした。
先輩が忘れ物を取りに行くということで僕は1人校門で考え事にふけっていた。
100m男。その正体が実はその辺の暇なおじさんでないなら……本物の幽霊とでも言うのなら、僕は警察を呼ぶのではなく……真っ当に走って勝たなければならない。
……幽霊……100m……僅差の敗北……雨の日……快晴……代償……生気……願い事……競馬……怪奇談……
先ほど先輩に聞かされたこと、話したことが頭の中を駆け巡る。
勝つために必要なこと、全く関係ない言葉が次から次へと湧き出る。
「それで? 勝算はあるのかい?」
「うわっ!?」
考え事というものは時間の流れから外れるものだ。
いつの間にか先輩が戻ってきており、時間も校門についてから30分は経過していた。
「後輩、勝つためにどうするんだい? 何か私に手伝えることはあるのかい?」
すっかりギャンブラーと同様に、勝つための勝負を楽しむ目になってしまった先輩は僕に尋ねる。
今まで先輩はこんな目をしたことはなかった。……怪奇談を語る時もワクワクしたような目はしていたが、それでもこんな欲望に満ちた目ではなかった。
僕が勝って絶対に元に戻してみせますからね!
「勝算はもちろんありますよ……絶対とは言えませんが。先輩に手伝ってもらうことは……今のとこはなさそうですね」
「ほほう……なら勝てなかったときはまた私が挑戦するとしようかな」
ええ、存分に挑戦してください。僕が勝てなかったらね。
まだどう勝つのかビジョンすら浮かんでいないけど。
勝つためには情報が必要だ。
先ほどの感覚だと、まだ情報が足りていない、考えが足りていない。そんな気がした。
「まずは情報を整理しましょう」
「ほほう、いいだろう。君はこの怪奇談を全く知らなったようだしね。まだ話していないこともあるかもしれない」
先輩は快く承諾してくれる。
僕が乗り気であることが嬉しいのだろう。
「100m男……彼は雨の日に交通事故で死んでいるんですよね」
「そうだ。所謂、幽霊というやつだね。雨の日に車に轢かれて亡くなったときいている」
「その直前まで学校の校庭で1人走り続けていた。帰り道も1人」
「ついでに言うと、その日は創立記念日で生徒はおろか教師もいなかったらしい。事務員が数名だけいたとか」
雨の日に1人で練習をし、1人での帰り道で死んだ……その悲しさと虚しさは計り知れないだろう。
「彼は将来を期待されるほど足が速かったんですか?」
「そのあたりはよく分かっていないんだ。無名ではなかった。しかし、大会に出場してはいないから記録は残っていない。体育の記録も当時のはもうないしね」
「それなのに1人で練習を……。相当な努力家だったんですね」
そして幽霊になってなお、走り続ける。相当な執念を持っていたのだろう。
「快晴の日に現れるのは、雨の日に死んだから。十分にコンデションが整った状態で、万全な相手と走りたいからだと思うんですよ」
「なるほどね。そういえば走る前に少し話したけど、そこまで粘着質な者には思えなかった。そうだな、野球部のキャプテンでもやっていそうな性格の持ち主だったよ」
……なんだそりゃ。
さっぱりとした性格ということかな?
そういえば先輩は100m男と対決したんだった。100m男を知るならその時のことを聞くのが一番だった。
「勝負の前はどんな話を?」
「お、嫉妬かい? 男の嫉妬は見苦しいというがね」
先輩はニヤニヤと笑う。
「……違いますよ。100m男のことを聞きたいんです」
「ふふっ。100m男との会話か……これ以上そこまで話すべきことはないけどね。出会って開口一番に勝負をするか否か聞かれた。それで受けると次に願いを。それから勝負が始める。私の時は100m男が指さした標識のところまでの勝負だった。ゴール寸前で負けてしまったけどね」
「と、いうことは直前まで先輩がリードを?」
「ああ。私もこのまま勝てるんじゃないかと思ったよ。けど、飛ばし過ぎたんだろう。最後のところで私のスピードは落ちた。彼は変わらない速さで走った。それが勝敗の分かれ目だった」
さすがは将来を期待されていた男、とでも言おうか。
ペース配分は完璧らしい。
先輩の運動神経は分からないけど、勝負を焦って負けたんだろう。
「他の人も……他の挑戦者も似たような感じなのでしょうか」
「それは人それぞれらしい。最初から少しだけ遅れて走った者、中盤から逆転された者、途中で転倒した者もいるらしい。共通点はあと一歩で負けた。これだけだ」
最後のはハイヒールで走ったから転倒したらしいけどね。と、先輩は付け足した。
転倒したおかげで僅差の敗北どころか大敗だったらしい。
ふむ。100m男は機械的に走っているわけではないみたいだ。
「挑戦者の共通点はありますか? 男が圧倒的に多いとか、若者が多いとか」
「それはないね」
先輩は即座に否定した。
「老若男女……とは言わないまでもそこまで偏ってはいない。確かに若い男性が多いが、女性も、年配の方も走るみたいだ」
「そして全員あと一歩で負けた……それが彼の……100m男のルールなんでしょう」
ルールというか能力というか。
あるいは性質だろうか。幽霊としての、100m男としての。
先輩と話すうちに気づいた。
「今までに、ドーピングをして挑んだ人っているんでしょうか」
この問いの答え次第で100m男の性質を見極められる。
勿論、僕の思っているものと全く見当違いならお手上げだけど。
「いたらしいね。尤も、すぐにバレてしまったらしいけど」
ああ、これは思っていた通りの、理想通りの答えだ。
「恐らく、100m男の性質は、相手の状態を知れることでしょう。スポーツ選手なら相手のコンディションは気になる。特にコンディションが原因で死んだような100m男なら特に相手の体調が悪かったりしたらそれこそ勝負が成立しなくなる」
「ふむ。それは見ただけで分かるのかな」
「ええ、多分ですけど。ドーピングをしていたことが分かったのもそのおかげなんでしょう。第六感なのか、視診によるものなのか、ステータスでも分かっているのか、それとも他の何かしらの天啓みたいなものを授かっているのかは分かりませんが、相手の状態把握。これが100m男の性質です」
それともう一つ。
「そして、相手よりも僅かに速く走る。それが100m男なんです」
「僅か……なるほど。僅差の勝利か」
「ええ。老若男女が挑んで全員が全員僅差で負けたなんて本来ならおかしいことなんですよ――100m男の走力が変動していない限りは」
そしてそこに、僕が勝てる見込みがあるとしたら100m男が僕よりも僅かに速い程度ということだろう。
「つまり、私が挑んだ時と、君がこれから挑む時では100m男の走る速さは違うということか」
「僕の仮説が正しければ、ですけどね」
しかし間違ってはいないだろう。
100m男の性質は状態把握と僅差の走力変動。この2つだ。
この2つをどうにかすれば勝てる。
「しかしそんな怪奇談、急に出てきましたね」
僕とてこの街に16年住んでいるのだ。
何時からそんなのあったのだろう。半年くらい前か?
「うん? 急にではないよ。そうだね……30年くらい前からはあったはずだ」
「……え? 30年前?」
信号が赤になり止まる。僕の思考も止まる。
そんな昔からあったのかよ。よく今まで誰も僕に言わなかったな。
知る人ぞ知る怪奇談にも程がある。
……いや、あと少しで勝てるからこそ、誰も他の人に言わなかったのかもしれないな。
それにしても30年前か……。
あと少しで先輩との帰り道も分かれ道になる。
だからここで先輩に言っておかなければならない。
勝つための策を考えついたということを。
「一週間後、僕は100m男に挑もうかと思います」
「ふむ、随分と時間がかかるんだね。何か準備でもするのかい?」
「ええ、ちょっと……」
言葉を濁すが、取り寄せなければいけないものがあるのだ。
いくらかかるか分からないけど、バイトすれば何とかなるだろう。
「特訓でもするのかい? いいだろう」
先輩には詳細を今は言わない。言えない。
もしかしたらその作戦は失敗するかもしれない。普通に走る以上にみっともない負け方になるかもしれない。
真っ当な闘いを望む幽霊にとって脇から横やりを入れるような闘い方だ。
先輩も真っ当な闘いをして、負けた。真っ当な闘いを僕に望んでいるかもしれない。
だから勝てた時にネタ晴らしをしよう。
信号が青になった。僕が先に歩き出し、車が来ていないことを確認する。
先輩は歩き出――そうとして躓いた。
幸い、膝をついたことで顔から地面に激突することは防げたようだ。
膝からの出血はなし。少しストッキングが擦れてしまっているだけのようだ。
「だ、大丈夫ですか!?」
「あ、ああ大丈夫だ」
先輩は驚いたような顔をして自分の足を見ている。
その足は僅かにだが震えている。
「まさか……」
「なに、ちょっと足に力が入らなかっただけだよ。こんなの数日もしたら治るさ」
治る? それは生気を取られたからふらついたんじゃないですか?
数日で治るのか?
「予定変更です。2日後に挑戦します」
仕方ない。少し金がかかるが、先輩の体と比べたらこんなの何でもない。
速達便を使おう。
「先輩はそれまで登下校は1人でしないように! 僕が迎えに行きますので!」
「あ、ああ……」
先輩は僕の勢いにコクリと頷いた。
やった! 先輩と一緒に登下校できるぞ。
仕方ない仕方ない。
先輩が倒れないように僕が見ていなければ。
先輩が転ばないように僕が手を引いてあげなければ。
これは仕方のないことなんだ。
少しだけ挑戦をやっぱり1週間後でもいいですかと言いたくなってしまった。