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ティアドロップ -せんせいと少女たち-  作者: かつらうみひと
それぞれのいきさつ
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ガトー・アンヴィジブル1

 君が笑えば、世界は君とともに笑う。君が泣けば、君は一人きりで泣くのだ。

                 ―エラ・ウィーラー・ウィルコックス―


 ***


 フライパンに薄く張られた湯の中で、一本136円のウィンナー達が気持ち良さそうに半身浴をしている。

 俺はそれを菜ばしで突きながら、とりとめのない思考の中を漂っていた。


 料理は愛情であるという。

 これは別に食べてくれる相手のことを愛していれば料理が勝手に美味しくなるわけじゃない。


 美味しいものを食べて貰いたいという気持ちが、調理法を勉強する為の時間や、より良い食材を買う為の資金に変換されているのだ。


 ちなみにウィンナーはこのまま水気が無くなるまで強火にかけ、焼き目がつくまで焼いてから大きめに切ってソースと和える。

 そうすると、袋から出してそのまま加熱しただけのものとはひと味違う美味さになる。

 この一手間はちょっとした勉学の結果による知識であり、一本136円のウィンナーは一般的に高い。


 つまりこれを逆変換すると、そこには愛が生まれるという事になるのか?


 ……。


 これから料理を運ぶ場所では、男たちが舌論を繰り広げながら缶ビールの中身を胃に流し込んでいる。

 胴長短足、ややメタボ。

 一般的に中年オヤジと呼称される生き物たちである。


 ……生まれんだろうなぁ、愛。


「俺はおっさんじゃなくて美少女にご飯作ってあげたいんですよ!!」


 と、突然激昂したいのをグッと堪え、茹で上がったパスタの麺を作り終えたばかりのケチャップソースに絡める。


「ナポリタンできましたよー!」


 大皿に盛ったそれをローテーブルの中央にどんと置くと、わらわらと箸が伸びる。それを尻目に俺は次の料理の準備を始めた。


 マンションの一室のやや手狭なキッチンで賄いを用意したり、日々のスケジュール管理をするのが俺の仕事だ。

 いわゆる使いっ走り。


 俺含め、ここにいる全員がこの部屋の主、水無月巌みなづきいわおがこれから成す事を支える為の集団である。

 何を成すかって?

 玄関にはこう書かれたプレートが掲げられている。


「水無月巌議員事務所」


 ***


 集会がお開きになった後、ベランダで一服をしながら今後のことを考えていた。赤く灯った蛍のような一点を黙って見つめる。


 古い表現であるが、選挙において「三バン」と呼ばれる三つの要素がある。

 その人の声掛けにより、どの程度の支援者が集まるのか、その指針である「地盤」

 その人自身が世間に対してどのくらいの知名度があるかの「看板」

 選挙期間中に行う活動に費用を潤沢につぎ込めるかどうかの「鞄」


 これらを揃えているかどうかが選挙戦での勝敗を分けるのだが、その点、この選挙事務所には追い風が吹いていた。それは絵に描いたようなサクセスストーリーの過程をなぞる。


 先の貧困層への排斥運動と、頻発する武力衝突。持たぬものが持つものに抱く嫉妬の炎は戦火を広げ、彼の妻はそれに巻き込まれて帰らぬ人となった。


 彼はそれでも歩みを止めず、憂国の志士となってこの国を平和に導く事を諦めない。それは見る人の心を打ち、やがて大きな時代のうねりとなるだろう。


 と言うのが今までとこれからの大まかな筋書きである。それは既に功を奏し、多くの支援者が集い始めていた。

 図らずも巨大な「看板」が用意された事になる。


 これに従い、彼は所属する政党の支持が薄い地域から選挙戦に挑む事になる。他の安泰である地域と合わせて勢力をより盤石なものとしようというのだ。本日はその決起集会でもある。


 感嘆するほど合理的だ。


 多くの人は知らないだろう。四十九日を過ぎて間もないというのに、戦局を読む彼の横顔は悲しみに暮れた事など一度も無いと言わんばかりで、まるでマシーンか何かなのではないかと疑ってしまうのだ。


 ……随分と醒めた目で見ているとお思いだろう?

 それもそのはず。俺は純粋な支持者と言うわけではない。


 そう言うと少し語弊があるかもしれないが、そもそもここには純粋な支持者など居ないかもしれない。

 誰もが、「正しい怒り」の炎に身を焦がされるのを渇望しているだけなのだ。


 俺は「ある人物」の指示でそんな彼らを監視しているだけだった。


 ……。


 必要に応じて支援者の数を減らせと言われてはいたが、その手札をいつ切るのか、俺はまだ考えあぐねていた。


――いつも他人行儀なんだね。あなたはそれで良いの? 自分の心に聞いた?――


 かつて言われた言葉を反芻する。うるさいやい。


「俺には政治はわからぬのだ、セリヌンティウス」


 そう呟いてみたが、今はまだそこには誰もいない。


 …………。


 寒くなってきた。

 未練がましくフィルター付近まで消費したタバコを灰皿にねじり込み、室内へと戻る。と、先ほどまでとは少しリビングの様相が変わっているような気がした。


 水無月氏は自室で休んでいるはずだ。

 そこに誰かがいるのはおかしい。


 ……彼と、彼らはその思想故に敵を作ることが避けられない。

 妨害工作の為に何者かが侵入してくる危険性は常にあった。


 だとしても、こんな懐深くまで察知されずに入り込むなどあり得るだろうか? 俺も全く察知出来なかった。よっぽどの相手でなくてはこうはいかない。


 俺の目が節穴かもしれない。

 なので気のせいかもしれない。

 ……ともかく確認しなくては。


 俺は壁を背にしてゆっくりとリビングを移動する。丸腰なのがもどかしい。

 もし何者かが居れば応戦か。


 武器になりそうな物はキッチンの引き戸の中の包丁。

 そこまで何秒かかる? 引き出しを開いて包丁を取り出して……真っ暗だとどれがどれが分からない。

 間違えてオタマでも手にしてしまった日にはそれで戦わなくてはいけない。

 あぁ、せめてフライ返しであって欲しい。


 それ以前に、相手が拳銃でも所持していたらそこで終わりではある。


 キッチンが見える位置まで来たところで冷蔵庫の扉が半開きになっているのが判った。そこから漏れる僅かな明かりが違和感の正体だ。閉め忘れか。


 幽霊の正体見たり枯れ尾花。というやつだ。

 すっかり安心して次の一歩を踏み出した俺は、あまりにも無防備に「それ」を目にしてしまった。


 少女であった。


 幸いにして反対勢力とか、刺客とか、そういうのではない。

 水無月氏には娘が1人居たはずだ。名前は確か……しずく、といったか。

 妻の死後、施設に預けられたと言うことは聞いていないから当然今までもここの家の何処かには居たのだろう。


 それでも、あまりに気配を察知させない為存在を認知していなかった。

 それだけを聞くと、幽霊のように存在感の希薄な姿を思い浮かべるかもしれないが、実際はそうではない。


 雲が途切れ、ベランダから射す月明かりが冷気のベールをきらきらと反射させる。


 それを纏った少女は、この瞬間の時間を凍て付かせる程に完成されていた。


 手足は骨灰磁器ボーンチャイナのように真っ白で透明感があり、触れるだけで傷が入ってしまうような繊細さを感じさせる。

 白金プラチナの頭髪は、老人のような渇いた白ではない。絹糸ですら自らのくすみを恥じる程に艶やかで、それを象徴するエンジェルリングがはっきりと浮かび上がっていた。


 立ち止まって息を呑み込む。


 健常ではない、と言う話はそれとなく聞いていた。だがこれは、それとは別種のものに感じられた。

 少女もこちらに気が付き、視線が交わる。


 ベネチアの名を冠する色がある。

 古くはガラス製品の色のひとつとして生まれ、深みのある鮮やかな赤色は当時の技術では安定した製造が困難なものだった。

 製法は先祖代々の職人に受け継がれた、いわば焼成技術の賜物であり、美しい発色が生み出されたならば非常に高価で取引がされていたと言う。


 その赤色が少女の両のまなこに嵌め込まれ、じっとこちらを凝視している。


 そのあまりにも無垢な瞳は、俺が丸裸にされてしまったかのように錯覚させ、気恥ずかしさから目を逸らしたくなってしまう。


 だがしかし、そうピュアっぽく振る舞うには俺はいささか泥に浸かりすぎていたし、「先に目を逸らしたら負け」というチンパンナイズされたオス社会に汚染されたチンパン脳みそは頑なに動く事を拒んだ。

 暫くの沈黙の後、少女はバツが悪そうにうつむくと「ごめんなさい」と消え入りそうな声で言った。

 霜柱が出来る冬の朝のような澄んだ声色。


 それは僅かな勝利の高揚を俺にもたらしたが、それとは別に、新たな疑問を呈する。

 子供は寝る時間であること。

 手にした残飯をどうするのかということ。

 茹でる前の乾麺はそのまま食べるものではないということ。


 ……。


 色々と合点がいく。

 少女から乾麺の袋を取り上げると、俺は彼女のために夜食の準備を始めた。

 これが俺と、この白子症の少女、しずくとの出会いの一部始終である。


 **少女の視点**


 物音がしなくなったので、少女はごそごそと布団から這い出した。

 父親の癪に触るような行為は即制裁を意味する彼女にとって、ようやく自由な行動ができる時間帯だった。

 それでも物音を立てることは控えないといけなかったし、火を使ってはいけないと言われているのでお湯を沸かしてインスタント食品を食べるのも憚られる。


 それでもまいにちお腹はすくし、お風呂にも入りたい。

 ころころと鳴るお腹を抑えて、リビングへ抜き足差し足やってきた。


 最近、新しい人が来た。若い男性だ。

 彼が来て以来、ゴミ箱に山と積まれていたお弁当の空き箱がめっきり減った。

 どうやらキッチンの利用頻度が高いらしく、この家にも久し振りの日常風景が戻って来たと言えるかもしれなかった。


 何より彼女にとって重要なのは、調味料とお酒しか入っていなかった冷蔵庫に食材が収められるということだ。

 今この家にとって、少女は「どうでもいい」存在なので、わざわざ食事が用意されたりはしない。

 毎朝リビングのテーブルに積まれるお弁当が夜まで余っていれば食事にありつくこともできるが、あぶれる事もしょっちゅうだった。


 学校での給食が生命線というのは、育ち盛りの子供にはいささか過酷である。さらに言えば、学校は安住の地ではない。決して。


 なので、自宅に食べ物があるというのはとても大事なのだ。


 流し台には洗う前の食器が重ねてある。

 お風呂からバスチェアを持ち出し、その上に乗って物色をして、幾つかのお皿を手に取って床に置いた。パスタソースだ。


 麺は残っていないが心配はいらない。戸棚の中に仕舞われているのを彼女は知っていた。

 電気は付けられないので、冷蔵庫の扉を少し開け、その薄っすらとした灯りの中でもそもそと動くのだ。

 見つけた乾麺の袋から中身を一握り引っ張り出し、そこからさらに一本を引き出して齧る。


 ぽきん、と中程で折れた麺はスナック菓子のようで悪くない。適度な長さで口に含み、ばりばりと噛み砕き、時折お皿を舐める。


 食事の時は箸か、ナイフとフォークを上手く使わないといけなかった。そうしないと食べる資格がないから。でも、誰も見て居なければ所詮この程度で良いのだ。


「おてんとさまが見ている」なんて言葉もあるが、今はおてんとさまも見ていない。少女は開き直っていた。


 パスタソースは美味しい。給食のナポリタンよりもお金を取って出しているお店のごはんに近いので夢中になって舐める。


 その時、ベランダの扉が開閉される音がして少女は硬直する。

 この状況は良くなかった。すぐに手にした食器と乾麺を隠して素知らぬ顔をするという手もあるだろうに、不憫な少女は死んだフリをする狸のように固まる。

 染み付いた行動を取らざるを得ないのだ。


 証拠隠滅の動作の代わりに、お父さんじゃありませんようにお父さんじゃありませんようにと、目をギュッとつぶって心の中でそう唱えてみたりする。


 しばらくギュッとしていたが、怒声も鉄拳も飛んでこなかったので恐る恐るベランダのある方に視線をやると、そこには父親とは違うシルエットの人影があった。


 ふっと、まだ家庭にあたたかみがあった頃の記憶が浮かぶ。

 それは家族で食事をしようとした時のこと。

 父親の仕事が終わるまでの時間つぶしに、母親と近くの美術館に入ったのだ。


 そこは小さな建物だったが、教会の聖堂を模したホールにステンドグラスがあって荘厳な雰囲気を醸し出していた。

 中央には聖人の姿があり、それは背後から溢れんばかりの光を受けて、ひときわ輝いていたのだ。


 それは光背やヘイローと呼ばれるもので、宗教画ではよく見られる描写である。仏教やキリスト教など、別々の宗教でも同じ描写がされるという興味深い傾向がある。


 ともかく、少女はそれに釘付けになった。

 どうしてかわからないが、母親に促されるまで、生まれて初めて火を目にした未開の地の住人のように、ずっとステンドグラスを見続けていた。


 今この瞬間にその光景が浮かんだのは、目の前の光景がそれに相似しているからに他ならない。


 曇空の合間から綺麗な満月が覗いた。

 そのまあるい形がすべて露わになる時と、ちょうど人影の頭部に位置するのが重なる。


 光の放射が室内を照らし、暗黒だったそこは見知った自宅になった。


 ステンドグラスの前に立ち尽くしたあの時と同じ状況に、少女は再び釘付けになる。


 静寂が訪れる。完全な世界がそこにあると思った。

 ただ、幼い少女にはそれが本物であるか、勘違いであるか、妄想であるかの区別は付かないのだが。


 それに、あんまりにも無遠慮にじっと見てしまっているからか、相手の困惑する気配を感じ取った。

 途端に現実の世界に引き戻される。


 まるで面識のない相手にどうしてこんな……。

 バツが悪くなり、少女は俯いて謝罪の言葉を口にする。


 男はやれやれといった感じで頭を掻くと、すっと歩み寄ってきて少女から乾麺を取り上げた。


「あ……」

「腹壊すぞ、すこし待ってろ」


 そうぶっきらぼうに言うと、何かを作ってくれるようで、キッチンに入れ替わり作業を始める。

 その姿を眺めながら、かつてあった幸せな日々が再びやって来てくれるのではないかと、そんな希望を抱かずにはいられなかった。


 ***


 目を覚ますと、そこは見知った天井だった。

 マンジュウヒトデみたいなシミになった雨漏りの跡を眺めて少女は暫しぼんやりする。


 ここは……施設だ。


 懐かしい夢を見た。まだ完全に覚醒したわけではないので、もう一度布団に潜り込めば夢の続きを追えるだろう。うとうとタオルケットを掛け直そうとして今日の予定を思い出す。


 外出の約束があった。しかも2人きりだ。先生はデートではないと言った。しかしデートだと思う。デートである。


 あわてて時計を見ると、掛けていた目覚ましの時間より幾分か早い。まだゆっくり身だしなみを整える余裕があった。


 懐かしい夢の続きを惜しむ気持ちもあるが、あれは辛い記憶とセット販売なので、すっぱりと諦めて布団を畳む。

 今日は楽しいことだけを考えて良いはずだ。


 この時間なら、まだあの人は朝のランニングに出る前だろう。なるべく多くの時間を一緒に居たい少女は、取り敢えず顔を洗う為に洗面所へ向かうのだった。


 うつろいやすい秋晴れの空だが、幸いにして今日の天気はずっと晴れになるようだ。

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