アップルシナモンカスタードホイップ1
少女は自分のことを知らない。
どんな親から産まれたのか、何歳まで暖かい家庭で育ったのかとか、そもそも本当は自分がどんな名前なのかとか。
あんまりにもわからないことだらけで、もしかしたらコウノトリが運ぶ最中に落としてしまった赤ん坊が自分なのではないかと考えたりもした。
だからいつか、本当のお父さんとお母さんが迎えにきてくれるのではないか……と。
そんなことをいつまでもウジウジと考えているほど、らいかと言う少女は夢見がちではなかった。
今日も鬼婆は一列に並ばせた子供達から、物乞いをして集めた1日の報酬をむしり取る。
らいかの隣に立たされた少女、(仮にハナコちゃんと呼ぼう)彼女は足元のぼろ切れに数枚の硬貨を並べた。枚数の少なさと、口元を不自然に噤む様子から鬼婆はすぐに見抜いた。
乱暴にハナコの顔を掴み、口をこじ開けると中から唾液にまみれた硬貨が数枚零れ落ち、チャリンという音を鳴らした。
その後はご想像通り。
ネコババを咎める叱咤の声としたたかに肌を打つ革ベルトの音、泣き叫ぶ少女の声があばら家に響く。
次にらいかの番が来た時、彼女は沢山の硬貨をじゃらじゃらと音を鳴らして置き、それからそっと足元に紙幣を広げた。
紙のお金が得られるのは珍しい。鬼婆の目が細まる。
利口な彼女は稼いだお金を全部出してしまうような事はなく、いつも一部をくすねていたが、それがバレない程度の稼ぎはあった。
くすねる時、口の中に隠すのはダメだ。すぐに見つかってしまう。
秘密基地のような場所を決めておいて、そこの地中に埋めてしまうのが1番安全である。
だが、鬼婆の目を盗んで毎日隠しに行く事は出来ないので、普段は体のどこかに隠さねばいけない。
らいかが紙幣を得た時は、それをビニール袋に入れて細長く巻き、自分のお尻の中に隠していた。
鬼婆もここまでは確認しないので、これで今のところバレた事はない。
本当は価値の大きな500円硬貨もネコババしたかったが、幸か不幸か彼女の尻の穴はそこまで広がらなかった。
ともかく、物乞いとしてらいかは優秀だった。……そんな才能あっても嬉しくなんてなかったが。
それは彼女の目立つ容姿に依るところもあったかもしれない。
自意識過剰でも何でもなく子供達の中で1番可愛いと自負していたし、記憶にある限り一度も切ったことのない長い赤毛も自慢だった。
稼いでいるうちは毎日身体を洗う事も出来るので、髪の毛がべたべたになる事もなく、わりと満足出来る生活とも言えなくもないが、それももうすぐ終わってしまう。
路上に座って小銭をせびるのは小さいうちだけで、ある程度の年頃になると、今度は別の場所で男性客を取らねばならないのだ。
最近、バラック小屋に知らない奴が出入りしていて、鬼婆がそろばんを弾く音がかちかちと鳴っている事を知っている。
これはそう遠くないうちに自分が売り払われることになるんだと察していた。
らいかが今よりもっと小さい頃に面倒を見てくれた姉貴分のような少女たちはもう一人も残っていない。
つまりはそういうことだ。
それを受け入れたくない。
彼女には、彼女の求める幸せの形があるのだ。
その実現の為には与えられた環境に抗わなくてはいけない、その為にらいかはお金を貯めているのだ。
夜、鞭で打たれたハナコは身体を丸めてすすり泣いていた。
らいかはその痛みとは無縁だったが、だからと言って「うるさい」と責めるような気にはならない。
自然と慰めるような形になる。
将来を憂いて泣き止まないハナコに、らいかはついつい秘密の共有を持ちかけた。
持ちかけてしまった。
逃げ出して、新しい街で新しい生活をしようと思っている事も、そのために必要だと思われる額のお金がもうすぐ貯まることも。
逃げ出す際の基本として、抱える物は少ない方が良い。
物ですらそうなのだから、力の無い共犯者を抱えるのはとてもリスクが高い。
だけど放って置けなかったのだから仕方がない。らいかはそう思っていた。
結果から見ると、それは致命的な失敗だった。
翌日、ハナコは大量のお金を得たと勇んで言った。
訝しんでいた鬼婆だったが、実際に現金を目にすると態度をいい意味で豹変させて、ハナコを労った。
……そのお金に、らいかは見覚えがある。
一枚一枚の通し番号を覚えているわけでは無い。紙幣の量に覚えがあるのだ。
心臓の鼓動が早まる。
目の奥で神経がちかちかと瞬く感じがした。
今すぐ飛び掛かって紙幣を奪い、逃げ出してしまうべきかもとも考えたが、まだ確証は無い。
なんで? なんで? なんで?
ハナコはこちらを見ないようにしていた。
怒りで身体がわなわなと震える。だがここで事を起こすのは悪手だ。
画策が鬼婆にバレると、恐らく売り飛ばされるまで外に出してもらえない。
それに、まだハナコが裏切ったと決まったわけでは無いじゃない。
「涙とともにパンを食べたものでなければうんちゃらかんちゃら」と言う言葉もある。よくは知らない。
だが、共に苦しんだ仲間なのだからきっと。
その日の夜中にこっそりあばら家を抜け出したらいかは、自分が完膚無きまでに裏切られた事を知った。
希望のためにコツコツと貯めたモノを全て失い、失意の中帰宅したが、布団に包まって寝るハナコを見ると、一瞬にして怒りが噴き上がってくる。
どうして!
どうして全てお金を出してしまったのか? 今日だけ褒められたって明日はどうするんだ? またすぐに「使えない奴」に逆戻りじゃないか。
一度に全て使い切ってしまうのではなく、小分けにしていく程度の知能も無かったのか!
正直である事と善良であること、そこに低脳であることが加わると邪悪な生き物が誕生してしまうのだ!
いや、こいつは人のものを盗んだのだからそもそも善良ではないではないか!
らいかは壁に掛けてあったホウキを掴むと、ハナコの布団に力の限り振り下ろした。
天日干しなんてされたことの無い羊毛ふとんは「どしん」とホウキの衝撃を受け止める。手応えは中に人がいる感触では無い。その中には、丸めた布団が入っているだけだった。
背後からくすくすと笑う声が聞こえ、後ろを振り返ると、そこにはハナコを含め数人が隠れていた。
らいかも今度は自分を抑えることが出来ない。怒りの声を上げ飛び掛かるが多勢に無勢。
あっさりと羽交い締めにされてしまう。
どうやら買収されているようだ。馬鹿正直に鬼婆に全てのお金を出したわけでも無いらしい。
だが、執拗にらいかの顔に攻撃を加える少女たちからは、金銭以上に別の理由があるようにも思われた。
らいかにとって、正直なところ下に見ていた少女たちにこんな事をされるのは屈辱だった。
目先のこと、手の届くほんの狭い範囲の物事しか見えておらず、自分の未来を想像するどころか明日の身の振り方すら考えていないくせに!
ぎゃんぎゃんと泣き叫び、らいかは抵抗する。
融けた鉄みたいな熱いものが喉を流れ落ちるのを感じる。暗闇の中ではそれが涙なのか鼻血なのか分からない。
――馬乗りになって殴り付ける
――引き剥がされる
――その腕に噛み付いて振り解く
――髪を掴まれて引きずり回される
――皮膚が裂けるほど爪を突き立てる
――ホウキの柄で顔を殴る
――吹き出す血を拭う
おおよそ少女たちが行うには相応しくない凄惨な現場がそこにはあった。
折れた前歯を口の中で転がしながら、らいかはもう勘弁して欲しいとも思ったし、何もかもどうでもいいとも思った。
それでも、一度燃え広がってしまったからには、辺りを焼き尽くすまで消えそうも無かった。