ガトー・アンヴィジブル6●
***
気がつくと、少女は海辺に佇んでいた。
ついさっきまで自分が何をしていたか曖昧で思い出せない。
ただ不安は無かった。
背中の芯の辺りにじんわりと熱を感じるせいかもしれない。
寒いのはそれだけで辛さを感じるのだ。
まずは自分の置かれた状況を整理しよう。と少女は考える。
足元の砂浜は雪のように白く、しゃがんでひと掬いして見ると一粒一粒が個性的な形をしていた。
星の砂だ。
「願いを叶え終えた流れ星がたどり着く場所なんだよ」
という声と、
「有孔虫の死骸だよ。きみは無数の屍の上に立ってるんだ」
という声が重複して聴こえた。
顔を上げると、眼前には広大な海がみえる。
エメラルドグリーンの透き通った海ではなく、現実感のある黒く澱んだ北の海が広がっていた。
星の砂で満たされた美しい砂浜とは対照的だ。
?
現実感ってなんでしょう?
少女にとっては「ここ」が唯一無二の世界であり、比較できるものなど無いはずである。
振り返ると鬱蒼とした密林と、島には不釣り合いなほど高い独立峰が少女を見下ろしていた。
島?
島である。
そう断じるには広大な土地であるようにも思えるが、大陸と呼ぶほどでもない。おそらく外周の浜辺を一周するのに数日あれば事足りる程度の広さだろう。
段々と意識がハッキリしてきた。
浜辺に来たのも、ここで星の砂を集めるためだった。
盲目の海の入り江と呼ばれるこの場所は、断崖や岩場がないため裸足のまま波打ち際まで降りることが出来る。
だが盲目の海は恐ろしい場所だ。決して腰まで浸かってはいけないよ。と少女はキツく言い含められていた。
誰に言われたんでしたっけ?
よく覚えてはいないが、それは頑なに守っていた。
言いつけにはどんなに馬鹿げているようにみえても理由がある。
それを反故にするのは理由を知った後でなければならない。
「教え」とは「知識」が形骸化したものであるからだ。
なので波打ち際には近付かず、両手で舟のかたちを作るとそれで星の砂をすくった。
あとはそれを落とさないよう慎重に戻るのだ。
木々のささやきがそこかしこから聞こえてくる。
優しげな声と、少女を叱咤するような恐ろしい声、言葉ともつかないようなうめき声。
それらが一緒くたになってざわざわと鼓膜を震わせる。
けもの道に星の砂をぽろぽろ撒きながら少女は帰路を急ぐ。
その手から全てが零れ落ちてしまう前に辿り着かなくてはいけない。
沢を跨ぎ、丘を越え、山の麓にある拓けた場所までやってきた。
そこには古ぼけた石積みの井戸がある。
目的地はここだ。
ここの秘密はきっと、彼女しか知らない。
……ここは無人島でほかの人にも会ったことなんて無いはずだが、それでも他人というものを認識していた。
それはきっと……。
少女は井戸の縁に置かれた縄付きの桶におもむろに砂を注ぐと、それが零れてしまわないように優しく井戸の底に垂らしていった。
「このあいだお話していた小瓶の中身ってこれではないかなって思ったのですが、いかがですか?」
独り言のように誰かに話しかける。返事は、とくにない。
だが引き上げた桶からは砂が無くなっており、代わりに紫がかった小さな花弁がひとつ入れられていた。
少女は誰かとこんな話を初めてする気もしていたが、過去に同じようなやり取りを何度かした気もする。
井戸の底には、自分ではない誰かが存在している。
***
同僚の運転する車で施設に戻ってから、念のためしずくには診断を受けさせた。
突然設備を使わせろといった申し出に研究員には煙たがられはしたが、特に問題もなく一安心。今は自室で早めの睡眠をとらせてある。
俺が談話室でコーヒーを飲んでいると、そこに上司が立ち寄った。
相馬みゆり。
俺をこの施設「ジャコウエンドウの温室」に手引きした人物で、過去には主に金銭面での支援をしてもらったことがある。
割と辛らつな物言いの人物だが、恩人でもある手前あまり悪くはいえない。美人だしな。
ウェーブがかった栗色の髪を左肩に垂らして、その根元を子供達に貰ったであろう水玉模様のシュシュで纏めている。ノリの効いた白衣の下に、白いステッチの入った襟が覗く。
化粧っ気の無い研究員だらけのこの施設では、主に広報主任として働く彼女の存在は異質である。つまり派手。
そんな彼女がソファの背もたれ越しにぬっと顔を出してきた。
「お疲れ様です。いま帰りですか?」
「そ。そっちも休日にご苦労さん」
「いえいえ、自主的にやってることですから」
「ほーう、そうかそうか。ところで、研究室使ってたみたいだけど、なんかあったの?」
みゆりさんが何気ない疑問をなげかける。あくまで雑談の体を成しているが、回答次第では火傷をしそうな雰囲気を俺は察した。
だが大丈夫だ。口先だけは達者なのが俺の長所でもある。
「あ、えーとですね。それは、そう! 今日あの子を連れて出掛けたんですけどね、途中でちょっと具合悪くなってしまったようで、念のため検査」
「は?」
地雷を踏んだぞ!
「いえ、大丈夫だったんです、なので」
「なにが大丈夫なの?」
「申し訳ございません」
だらしなくソファに腰掛けた体勢から正座になる。
背筋を正して申し訳なさそうな表情を顔面に投影すると、みゆりさんはそれを待っていたように話し始めた。
「あのね、出掛けたのは申請書見たからわかるんだけど、過度に疲労を溜めるような事は控えて欲しいの」
「はい」
「それにあの子は女の子なんだからね? いつも変な遊びさせて……あなたが楽しいだけなんじゃないの?」
「はい」
「もう少し女の子らしい事させてあげたらどうなの?」
「はい……」
「前は水鉄砲持たせて走り回ったり、かと思ったら車のおもちゃであそんだり……」
「申し訳ございません」
「私に謝ってどうすんのよ……」
彼女はテーブルの上から飲みかけのマグカップをひっ掴んで煽るが、中身は入っていない。
無言で差し出されたそれに新しくコーヒーを淹れ直す。
知らない仲では無い。彼女も本気で怒っているわけでは無いし、俺も本当に萎縮しているわけではない。ただ、言葉は刺さる。
あなたは何のつもりであの子に接しているの? そんなイントネーションが含まれているのを感じるのだ。
しずくが自立するまでの支えとなる事が出来れば……というのが出会った頃の考えではあった。あったが、既にそのスタート地点もゴール地点もズレてきてしまっていると薄々気づいてはいる。
ただ、まだ道を外れてはいないと思いたい。
しばらく言いたい放題していたみゆりさんだが、流石に言うこともなくなったかトーンを落としてこちらの返答を待つような感じになった。
「あの、みゆりさん」
「何?」
「反省しましたので、なにか慰めの言葉を」
「事実じゃん」
「ぐぅ」