ガトー・アンヴィジブル5
陽が傾く前には下山して帰路につきたい。
途中で温泉にでも寄れると良いのだろうが、しずくを一人で女湯に入れるのはまだ早いと思う。
やはり施設まで戻ってゆっくり休むべきだろう。
山頂に長居しすぎても体を冷やしてしまうしな。
食後にぼんやりしすぎて光合成をしてしまいそうだったが、根をはる前に下山の準備に取り掛かることにした。
ウェットティッシュで食器類を拭い、ゴミ袋とポーチに分別してしまい、畳んだアウトドアマットをバックパックの外側に括り付ける。
ついでにサイドポケットからサポーターを抜き取り、しずくに手渡した。
「膝サポーター。服の上からで良いから一応巻いておいて」
「ありがとうございます」
しずくもふにゃふにゃと返事をして身支度をしていくが、疲労が理由なのか、普段より注意力が散漫になっている気がした。
「大丈夫?何かあった?」
「いえ、特に何も無いですよ」
そう言いつつまぶたの上から目をごしごしと擦る。
「霞んで見える?」
「かすむと言いますか、固形のものが見える感じです」
飛蚊症かな?
飛蚊症は眼内の硝子体にある浮遊物が視認できる症状である。
これ自体はほぼ全ての人間にあるもので、別段気にしなくても良い。
だが憂慮すべきケースがある。
その浮遊物が極端に大きく、なおかつ激しい運動や衝撃を受けた後に突然発生する場合だ。
この場合、網膜剥離の可能性が考えられる。
その場合は緊急の対処が必要だが、幸いここは山頂まで車で上がり降りも出来る。
もしもの場合はそうするとして、慎重に症状を特定していく。
「大丈夫、心配ないよ。ただちょっと確認させてね」
「影みたいになって見えるのかな?」
「いえ、なんというか、雲みたいなものが光って見える感じですね」
「なるほど……きらきらして眩しい感じの?」
「そうですそうです。すごい!よくわかりますね」
「……となると閃輝暗点か」
その可能性は高いと思われる。
「せんきあんてん?」
「子供の頃に出やすい症状でね。脳と目を結ぶ神経が緊張したりリラックスしたことで起きるんだ」
「30分もすれば治るし、なんてこと無いものだよ」
「やっぱり先生はなんでも知ってますね」
「先生だからな」
あえて言わなかった事がある。
閃輝暗点は、確かにすぐに治る症状ではあるが、その後に吐き気を伴う強い偏頭痛を発症する事がある。
若年層、とりわけ10代の少女が多くこの症状に悩まされると言うが、解明されていない点は非常に多い。
そもそも、頭痛のメカニズムそのものが不可解なものが多いのだ。脳や神経の真理には、いまだ未踏の領域がある。
人類以外の生き物には頭痛という疾患が存在しないとも言われるが、犬や猫に直接聞いたわけではないので定かではない。
……それはそれとして、しずくを背負って下まで降りるのは得策ではないな。
俺の体力を鑑みると可能ではあるが、もしこの後しずくが頭痛を訴えたとしたら安静な状態にしておきたい。
施設に連絡をして、迎えの車を出してもらうことにしよう。
サボりぐせのある同僚を私用の電話で呼び出すと、外出の大義名分を得た彼はすぐに来てくれることになった。
一度仕舞ったアウトドアマットをでこぼこの少ない木陰の斜面に再び敷いて、しずくを横にさせる。
枕が無いな。
こういう時は腕枕! と行きたいところだが、待ち人がある以上上体は起こしておきたい。
しかし膝枕では位置が高過ぎる。
悩んだ末、まっすぐに伸ばした太腿を枕代わりにできるように体を横にして寝かせた。
側から見ると「何をさせているんだ!」と誤解されそうなやや危険な体勢だが、他に人も居ないので平気だろう。
迎えが来るまでの間ぽつぽつと会話をしていたが、疲れていた事もあってか、しずくは頭痛を訴える前に静かな寝息を立て始めていた。