白昼夢
いつもの帰り道に小さな人だかりが出来ていた。
小学生ぐらいの女の子たちが何かを覗き込むような形で円状になっている。
「かわいいね!」「ねぇねぇ名前付けようよ!」「あ、アタシ明日から給食のパン持ってくる~」という言葉からその理由は直ぐに分かった。
漫画やテレビドラマでありがちな、みかんの文字が入ったダンボールに入れられている猫が、そこに捨てられていた。
女の子たちが一頻り騒ぎ立てたあと、一人の少女はダンボールに近寄った。
そこには、弱弱しくみぃみぃと鳴く茶色の三毛猫がいた。
既に他の誰かが与えたであろう、紙皿に入ったミルクがダンボールの中に入っていた。
際川美鈴は、なんて残酷なことをするんだろうと思った。
それは、猫を捨てた人に対してではなく、さっきの小学生や、こうやって食べ物を与えた人に対してだ。
もちろん、猫を捨てた人も残酷で、最低なことをしていると思うが、だけど、こうやって捨てられた命に対して、自分たちが飼ってあげられるわけでも救ってあげられるわけでもないのに、餌を与えて生かそうとするその無意識の悪意の方が残酷で最低だと美鈴は思った。思うだけだが。
ダンボールの中の猫はまだ小さく、この雨の中、身を震わせながらこちらを見ていた。美鈴には猫の気持ちなんてわかるわけがないが、でもきっと、捨てた人間を怨んだり憎んだりするほど余裕はないのだろうと勝手に考えていた。
人間もコレと同じような感じで、世界を回しているんだと思った。
生易しい優しさは時としては暴力になる。
思いやりや気遣いは、実は誰かを傷付けているかもしれない。
実は誰かに良く見られたいだけなのかもしれない。
人間はそういう醜い部分があることは誰でも知っているけど、自分がそういうことをしているとは誰一人として思ってはいない。
美鈴は、差していた赤い傘を、ダンボールを覆うように被せる。
予備の傘があるわけでもなかったので、当然、みるみるうちにずぶ濡れになってしまった。
弱弱しく鳴き続ける猫が可哀相だとは思っても、それを人事に出来てしまう自分の心の黒い部分が美鈴は気持ち悪くて仕方がなかった。
「ごめんね。私は酷いから、これぐらいのことしかしてあげられなくて」
残酷な生き物は残酷にしか生きられない。
所詮は性。
猫にそう言い残して残酷なその場を立ち去った。
◆◆
先日、傘を取りに行ったとき、まだそこに猫はいた。
(何故か傘はなかった)
しかし、ここ二日ほどは、猫を囲んでいた小学生は来ていなかったようだった。
もしかしたらもう猫がここで捨てられているということも忘れてどこかで遊んでいるのかもしれないと、これもまた勝手に考えた。
勝手に考えて、勝手に自分の中に在る残酷さが増した。
三日経っても猫は置いてあったミルクには口をつけていない様子で、ますます弱まっているように見えた。
普段ミルクを口にしない猫だったのならこのミルクもありがた迷惑で、本当はネコ缶やツナ缶が欲しかったんじゃないだろうかと勝手に憶測した。勝手に憶測しただけで買ってくるわけでもない自分がいっとき、嫌いになった。
きっと、猫自身も分かっているのかもしれない。
人間は生ぬるい救いしか与えてはくれないのだと。
猫も犬も人間も等しく命だというくせに、人間は猫や犬をペットショップのガラスケースで売って、それをカワイイカワイイと言っているのだ。
しかし、美鈴は命がどうのと語れるほど、自分の命が立派なものではないのを弁えていた。
それに猫の気持ちが分かるわけでもないのに勝手に推測させて考えを忍ばせて、さも自分が分かっているかのように思うのは人類史上最低の人間だ、と、これも勝手に思った。
早く誰か拾ってあげて欲しいと思いながらも自分から何か行動を起こすことはしなかった。
じんわりと何か気持ち悪いものに心が浸食されていくような感覚に見舞われるが、その気持ち悪さに少しずつ慣れていく自分も確かにいた。
五日目を過ぎたあたりから、猫の鳴き声が聞こえなくなった。
それどころか誰もダンボールの存在を見ようとしなくなった。
きっと通り過ぎていく人たちはあのダンボールに猫が捨てられていることすら知らないのかもしれない。
しかも、ダンボールが誰かの手によりガムテープで蓋をされてしまっていた。
次の日には近所の小学生が、どこからか取ってきたであろう植物と砂で「ココ墓な!」と遊んでいるのを見かけた。きっと初日の子ども達が噂を広めたのだろう。
本当に小さい子は容赦ない、と思いながら、それを見ているだけの美鈴も《容赦ない人間》の一人になっていた。
そして、猫を見つけてから一週間の今日、美鈴はダンボールの前に立っていた。
相変わらず猫の鳴き声は聞こえない。
もしかしたら本当に死んでしまっているかもしれない。
六月とはいえ、雨が降れば気温は下がる。
人間からすれば肌寒い程度だが、弱っている小さな猫には生死を分けるような気温だ。
きっと生きている。
そんな根拠も立証も出来ない可能性の低いことを卑しくも願っていた。
ずっと見ていただけなのに、そんな偽善者のようなことを思っていた。
それこそ、残酷だというのに。
「開けてみないのかい?そこに猫が生きているか死んでいるか知りたいとは思わないのかい?」
「生きてる、きっと寝てるだけ。……え?」
突然声がして、美鈴は驚いた様子で振り返ると後ろには、いつの間にか女の子が立っていた。
カッターシャツにカーディガン、ロングスカート。
容姿から、高校生ぐらいに見えた。
こんなにも雨が降っているというのに、傘を差していなかった彼女は美鈴がダンボールを開けないことに対し、ずぶ濡れになりながら不思議そうに首を傾げる。
「キミはこの箱を開けてみたのかい?もう二日以上蓋が閉まったままだ。どうして生きていると思うんだい?まぁ、可能性がないわけではないけど」
「あなたも猫を見ていたの?」
「まあね。ついでに猫を見ているキミも見ていた。残酷なことをするなぁ、と思って。キミが飼って猫を救ってあげられるわけじゃないんだろう?」
「それは自分でもわかってる。残酷なことをしてるってことぐらい」
自分のことを知りもしない、初対面の人間にさも分かっているかのように痛いことを言われた美鈴は少しだけムキになる。
「確かにキミがいなかったらもっと早くに猫は死んでいただろうね。道路沿いで交通量は多い割りに人通りは少ないこの場所は危ないから」
「ねぇ、どうして死んでる、だなんて言うの?まだ中を見たわけじゃないんでしょ?」
「死んでいると言った覚えはないよ。死んでいる可能性を示唆しただけさ。じゃあ聞くけど、キミはなんで生きていると思うんだい?大衆的に言わせてもらえば、ここ二、三日雨が降っている中で外に捨てられた猫がいれば、間違いなく死ぬと思うんだけど」
「そんなの、わからないわ。私は、まだ猫が死んでるのを見ていないもの。……ところで、あなたは誰なの?」
唐突に表れた彼女に対し、遅すぎる質問を投げかけると、彼女は美鈴の顔を覗き込むように見て、正面に立った。
「あぁ、そういえば自己紹介がまだだったね」
と、笑ったその顔はどこか神妙で、あたかも本当にそこに神が存在しているかのような顔だった。
「然様なら初めまして。ボクの名前は後世つかさ。そこにいた猫と、キミが猫に対して残酷なことをしているのに興味があって話しかけた次第さ」
先程と似たようなことを言われて美鈴の眉は無意識にピクリと動く。突然見知らぬ人に自分のしてきた行いや、葛藤を一蹴され、口調を荒げる。
「なら止めてくれればよかったのに。あなたもわりと残酷よ?見ていただけなんて」
「そうだね。残酷さ。人間は大きくて綺麗な花束を抱えて笑いながら地面のタンポポを踏みながら歩いているんだ。その大きくて綺麗な花束だって、切られて死んでしまう運命の花なのを人間は知っているくせにね。人間はそういう生き物さ」
つかさは全てを知っているような物言いでそう寂しそうに呟いた。
そう。
人間はいつだって残酷だ。
この猫だって、そんな人間の残酷さに振り回されて生きている。
人間の気まぐれで生かされて、
人間の気まぐれで拾われて、
人間の気まぐれで捨てられて、
人間の気まぐれで殺される。
小学生の与えた食パンを食べて生かされ、小学生が来なくなったから殺される。なにも難しくはない、小学生でも知っている食物連鎖、弱肉強食の世界だ。
美鈴はそう思いながらも、人間、すなわち自分がその全ての頂点にいる形態であることは自覚していた。この猫をそんな風にしたのは紛れもなく人間なのだ。
「ホント、最低」
吐き捨てるように呟けば、人気の少ない路地を言葉が反響した。
その自分の声に少しだけ、怖くなって小さく肩を揺らす。
「その最低な人間であるキミは、この猫が生きていると信じたいんだね?生きていると、そう願い、そう思い、そう望む。そういうことかい?」
「私は……」
言葉に詰まらせて視線を落とせばそこにはダンボールがあった。
美鈴はなんとなく怖くなり、目を懸命に背けようとするも、そこに何か大きな力を感じて目が離せず見入る。
ダンボールはこの雨に濡れてぐっしょりとしている。
きっと、中にも染み込んでいるに違いない。
あの小さな猫のことだ、動くことも出来ないでいるだろう。
用水路近くの街灯の下。
今にも溢れそうな用水路の水がいつこのダンボールに流れてくるかもわからない。
状況も、
場所も、
気温も、
他人からの目線でさえも最悪だ。
だけど、
だからと言って、
「猫が死んでいる、とは限らない」
美鈴は自分で確認するかのように小さく頷いた。
その頷きに対し、つかさは同調するようにやはり、神妙な笑顔で頷いた。
「そうか。ならキミはまさしくシュレーディンガーの猫状態になっているというわけだ。うんうん、まさしくその通りだね」
「何、それ?」
「ん?聞いたことないかい?物理学者エルヴィン・シュレーディンガーの量子論に関する思考実験の名称さ。本当は放射線物質とか青酸ガスなんかを用いて立証するんだけど、今の現代じゃ、その内容がさまざまな事柄の時に使われているんだ」
つかさは自分の今日あった一日の出来事を母親に話す子供のようにそれはそれは楽しそうに目を輝かせた。
その顔に一瞬だけびっくりした美鈴ではあったが、直ぐに言葉の意味が理解できず
「?」
と、頭の上に疑問符を浮かべて再び首を傾げる。
つかさは楽しそうに両手を広げて美鈴を見据えた。
その顔に街灯の光が当たり、影を作り、まるでそこに世界があるかのように彼女は言う。
「 シュレーディンガーの猫箱。
目の前にある箱の中の猫は、
生きているのか死んでいるのか、
開けてみなければ分からない。
箱を開けるまでは生きているか、
死んでいるかどちらの真実も同時に存在する。
開けるまではその真実も、
完全には否定できない。
だから開けるまではどれも真実 」
真実は一体どこにあるのだろうか、なんて考えたところでそれは霧を掴むような話。
薄暗い街灯の下、神妙な笑顔から一転、ニヤリと不気味につかさが笑ったような気配を美鈴は感じ取った。
そこにはダンボールが存在する。
それは紛れもないただ一つの真実。
問題なのは、その中身の解答が現時点で既に二つ存在してしまっているということだ。つかさの説明は美鈴でも十分に分かるほど、簡単な説明だった。
「開けずに真実を決めてしまうのはよくない。だからこそボクはシュレーディンガーの定理で生も死も真実だと知って欲しかったんだ。だけど、開けないほうがいいんじゃないかな?開けてもキミの特になるようなことは一個もないよ」
さっきまであんなに開けることを勧めていたつかさの口から「開けるな」と言われると美鈴は思っていなかったため、反射的に首を傾げてしまう。
「どうして?」
「大切なのは真実を知ることではない。どれだって真実だと思うこと、とボクは思う。真実なんて、それが真実だと思うようにしかならない。言ってる意味がわかるかい?真実なんて所詮、信じたいようにしかならないってことさ」
つかさはここで少しだけ美鈴から離れた。
その距離靴一足分。
たったそれだけしか離れていないというのに美鈴は彼女がかなりの距離を離れたのではないかと錯覚してしまうほど、一瞬にして引いたのだ。
そんなつかさの態度に少し気圧されるが、美鈴はダンボールの前にしゃがみ込んだ。
つかさの忠告にも似た言葉を聴く事無く美鈴は笑う。
シュレーディンガーの猫のように笑う。
「信じたいことと真実が違っても、この曖昧な真実を明確にしない理由にはならない。」
しっとりと雨風が肌を舐める。
ゆっくり手を伸ばしダンボールに触れる。
のりの弱まったガムテープは簡単に外せる。
蓋の縁に指を掛ける。
じゅくりと水を吸ったダンボールが唸る。
そこに存在する解答は生か死か。
ごくりと息を飲む音が耳を刺して、
「あ……?」
空。
蓋を開けたソコには、猫はいなかった。
生きているでも、死んでいるでもなく、いなかった。
あたかも――いや、最初からそこに猫などいなかったかのように。
飲まれなかったミルクの入った器さえもその小さな空間の中には存在していなかった。
まるで、
「どういうこと?」
まるで。
まるで、この状況が存在しなかったかのような。
まるで、別の状況に置き換えられているかのような。
「箱の中に猫は、寝子はいない。誰も眠っていやいない。真実は此処にはない。だから此処ではお別れだ、際川美鈴さん。そして、おやすみ世界」
その意味を聞き返そうと口を開いた次の瞬間、美鈴の身体に激痛が走った。脳漿が痛みを感知するのに時間を要する人間であるが故に、自分自身一体何をされたか、何があったのかなど、分かるわけがなかった。
ぐにゃり。
そんな不愉快で歪な音が脳髄で響いた。視界が段々ぐにゃぐにゃと混ざり合うように歪んでいく。
キモチワルイ。
こんなの、こんな、全部あたかも夢だったかのような、全部あたかも現実だったかのような。猫がいなかった夢、痛みを感じる現実。ここは一体どこなんだ?この世界は一体なんだんだ?
殺伐として錯覚として無智のような有能のような全部が全部存在しない何か別の、何か。
何か?
一体何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何が、何何、何が、何が、何ががが何が何何が何が何が何が何が何が何が何が何が何が何がなにがが何が何が何がに
なにが?
ごぽり。
自分の身体が沈んでいく音がする。
「―――――――――――」
その淵底へ誘う彼女は悪魔と呼ぶにはあまりにも美しい。
水面に立って沈みゆく自分の四肢を微笑んで見つめている彼女を、まさに神のようだと思った。その唇から紡がれた言葉は、高らかに賛美歌でも歌っているかのようだった。
◆◆
人の意識は一体どこにあるのかと聞かれた場合、大きく二つに分かれるだろう。
一つは脳。
一つは心。
「心は脳が活動した結果」と表した小説家がいたが、彼女にとってそんなことはどうでもいいのだろう。
たとえ、心がない鉄の女だと称されてもまったく問題ではない。
彼女にとって人間に心があってもなくても、どちらでも構わないのだ。
重要なのは、人間が何を望み、何を願うかが彼女にとって自分の意識を、存在を、認めさせる唯一のものだということ。存在理由さえあれば、その理由が何処に宿るかなど、差異たる問題ではないのだ。
夢と現実を分ける境は一体どうやって見分けるのだろうか。
自身の身体が実はシェルターの中で、薬物を栄養を管を通して送られ肉体を保ち、意識は誰かが作り上げたバーチャルな世界で生きていると、何故言えないのだろうか。
今、こうして息を吸ったり、勉学に励んだり、痛みを受けたり、そんな当たり前でごく平凡でだけど理不尽で不条理な世界が、実は誰かが用意した世界にしか過ぎないと何故言えないのだろうか。
後世つかさはそんなくだらない考え事を、らしくもないと思いながら長い廊下を歩いていた。
「いや、らしくないというのも可笑しいのか。ボクはそもそもそういう存在として生きているのだから。思考し学ぶことこそボクの存在理由」
つかさは肉体と魂は分離していると考えているが、そもそもつかさにとって、人間の意識が心にあろうが脳にあろうが、そんなことは本当に大した話ではないのだ。だってそれはきっと、どちらも真実で、どちらも嘘なのだから。
「まるで箱のようだ。ま、建物自体は本当に箱型をしているから、箱で間違ってはいないんだけど……ああ、ここか」
そんな独り言を言いながら、彼女は応急患者病棟の805号室と書かれた表札を見て、すりぬけるかのように部屋に入った。
一人部屋のカラス一枚隔てたベッドを見るとそこには女の子が眠っていた。体つきから推測するに14歳程度の女の子だ。
つかさはベッドの上に眠っている女の子の名前や年齢を知っている。こちらの部屋には三つの千羽鶴があることから、この少女が三年前からこの状態だということをつかさは理解した。
ガラスの向こう側の酷く綺麗な身体の少女は死んでいるのかと錯覚するほど白く蒼く暗い。管に繋がれてこの世界に留まっている少女は、既に自力で生きてはいない。
まるでこの病院をそのまま生き映したかのようだな、つかさはそう思いながら見舞い客用のパイプ椅子に腰掛ける。
もっとも、見舞いに来たわけではないのだけど。
「シュレーディンガーの猫箱は、何も猫に限った話じゃない。もちろん箱もダンボールに限った話じゃない。どういう意味かわかるかい?聡いキミならもうボクが言いたいことが分かっているはずだよ。つまりは、そういうことなんだ」
部屋に人間は誰もいない。
しかし彼女は話を続ける。
「人間は一体どこに存在すると考えるかは人間によって違うけれど、ココに存在するキミは本当に《キミ》だと言えるのだろうか?そしてそれは一体誰が証明してくれると言うのだろうか?少なくとも、人間が解を出せるような問題ではないのだけどね」
存在の証明を。
あの日、あの場所の猫の様に。
彼女は話を続ける。
「人間だって人間に飼われているんだよ?人間に生かされ、人間に救われ、人間に見捨てられ、人間に殺される。この軸が人間である以上、報われない連鎖だよね。それでも、いや、だからこそ、人間は夢をみる。夢を描く。夢に抱かれて夢に溺れる」
クスリ、と彼女は笑う。
「キミに一番必要なのは夢と現実の区別なんだろうけど、ボクから言わせてもらえばそんなもの必要ないよ。シュレーディンガーの猫が生きていても死んでいてもどちらでもいいってくらい、どうでもいいよ」
リアルを分ける境目はない。
何が本当で何が嘘かは本当にどうでもいい。
大切なのは、どちらも真実だということなのだから。
本当のことも、嘘のこともこの世界には溢れている。
だから、ガラス一枚向こう側の少女が数多の管に繋がれて、世界を強制的に繋いで、既に自力で生きていないことだって、本当で嘘である。
意思がないと、
心がないと、
脳が機能していないと、
人間は生きていないと果たして言えるのだろうか。
そんなこと、
「どうでもいいんだけどね」
吐き捨てて、つかさは立ち上がる。
例えるならそれは猫。捨てられた可哀相な猫。
例えるならそれは箱。猫の唯一居られる場所。
先程からつかさの横で口を開かず、ずっと立っていた彼女は、つかさのどうでもいいというセリフに少しだけむっとする。そんな彼女の感情を他所に、つかさは不意に話しかけた。
「キミはさあ、箱から出たら何をしたい?」
急に話しかけられた彼女はびっくりしつつも、腕を胸の前で組み、少しだけ悩んで
「猫を飼うわ」
と、答えた。
「そうね、茶色の三毛猫がいいわね。名前はみかんって言うの。みかんのご飯は贅沢にネコ缶を買ってあげるのよ。みかんは雨が嫌いだと思うから雨の日は一緒に家で過ごすわ」
それを聞いてつかさは小さく笑って、世界を隔てているガラスに手のひらを添わせた。
空っぽの肉体を見つめたまま、もう何度も質問した問いを再び彼女に問いかける。
「ねえ、キミは箱の中の猫が生きていると思う?死んでいると思う?ボクは死んでいると思うんだけど」
猫は箱の中に存在している。
けれど、生きているか死んでいるかはわからない。
箱を開けてみるまではわからない。
際川美鈴は、さも、それが当然であるかのように
「生きているわ。決まっているじゃない」
と、可笑しそうに笑った。