その9
理闘が部室へノートパソコンを取りに戻る間に、迅晴が儷を背負って移動する。噴水の前で落ち合うことにし、フェクト・レスは数分後にふたたび顔を合わせた。
噴水を囲むコンクリの縁に儷を立てかけておくと、通り過ぎる生徒たちがくすくすと笑声をこぼしていった。まるで役目を終えた腹話術の人形だ。力の抜けた背中を丸めているのに不思議と両腕が水平に上がった姿勢のまま、飽きもせず眠り続けている。
「なんで儷は寝てんだ?」
「ほっときなさいよ」
理闘はパソコンを膝上に置き、素早い動きでキイを弾いた。
迅晴はしゃがみ込んで儷の顔を覗き込み、暇を潰すように頬を指でつついている。儷の容姿は寝ていても人目を惹くらしく、数人の女生徒たちが駆け寄ってきては俊敏に写真を撮ってゆく。何に使うのかは知らないが、理闘はしっかりと撮影料を要求して小銭を稼いだ。迅晴も呑気にピースサインなどしながら一緒に写り込んでいる。
迅晴も外見だけならば、常人よりも整った顔をしているだろう。
輪郭はシャープで、特に顎のラインが少し鋭く尖り気味だ。上唇は極端にうすい。濃い眉の下にやや切れ上がった細い目があり、鼻筋の通った男前である。立てたオレンジ色の髪を柳のように垂らしているが、全体的に和の風情を感じさせる顔だった。
「あったわよ」
画面を注視しながら、迅晴の服を手で引き寄せる。
先ほど迅晴が撮影した写真をパソコンに取り込み、学園内データで検索してみると少年の名前が判明した。田辺銀閣。彼は学園に通う三年生で、バレー部に所属していたが夏休み前に引退している。入部して以来ずっと補欠の地位を守り続け、最後までベンチにも入れない応援要員に甘んじてきたらしい。
これまで銀閣自身に素行不良の烙印を押された記述は見あたらない。実家は六代も続く酒屋で、経営状態は良好だとある。銀閣は一人っ子で両親と祖父母と同居しているが、家庭不和が起きた様子はなかった。
理闘はふむと頷いた。
「この人、ずいぶんとめでたい名前よね。日本酒みたいじゃない。ところで……どうして田辺銀閣が刃物を振りかざすなんて凶行に走ったのか、あんた原因知ってる?」
「俺が知るかよ」
迅晴は不愉快そうに口唇を尖らせた。
「部室に行こうとしたら、女の悲鳴が聞こえたからチロっと行ってみたんだ。そしたら、あいつがE門の辺りで生徒に絡んでてさ。しかも女の子にだぜ? 助けないわけにゃいかんだろ、やっぱし。男として」
「あの人、いつも刃物を持ってるのかしら」
「さあな。持ってるんじゃねえの」
「簡単に言わないでよね。あんたは持ってるかもしれないけど、普通の人間は刃物なんて持ち歩かないわよ。あれ新品だったし」
「だったら、拾ったんだろ」
迅晴は垂れた前髪の束をいじりながら、上の空で話を聞き流している。
「……あんたも事件の当事者になら、少しは真剣に考えたら?」
理闘は侮蔑を含む視線を送りながら、迅晴の二の腕を思いきり抓りあげる。内側の皮だけをつまんだので、迅晴は弾かれるように飛び退いて転げ回った。
「ったく、どいつもこいつも役立たずばっかりで嫌になるわ。いい加減に起きなさいよ。データ収集は、あんたの仕事なんだからね!」
八つ当たりのように儷の頭を叩くと、儷の首がゆっくりと持ち上がった。やっと起きたらしい。正規の持ち主にパソコンを押しつけると、理闘は噴水の縁に座り込んで足を組んだ。
儷は両腕を降ろした後に辺りに目を巡らせると、戸惑うように理闘を見上げながら小動物めいた仕草で小首を傾げる。
「ここはどこですか」
「外よ」
儷は腹の前に押し込まれたパソコンに目を落とした。
「部長。これはなんですか」
「仕事よ。さっさと次のページを開きなさい」
有無を言わせぬ命令口調で指令を下す。
儷はもう一度周囲を見渡してから、やはり首を傾げた。
「違います部長。ここは東のE門近くの噴水脇で、これは僕のパソコンです」
「わかったわ。わかったから、何も言わず仕事してよ。お願いだから」
「わかりました」
理闘が重い溜息を吐くと、儷はやけに素直に頷いた。理闘は真摯な顔で腕を組みながら、先ほど起こったばかりの不可解な現実を回想した。
理闘の拳は節が潰れるほど鍛え込まれている。まさしく鉄拳だ。素人を相手にあれだけ殴ったのは久しぶりだったが、逆にあれだけ殴っても倒れない素人ははじめてだった。
誰かに操られているみたいに意志の欠落した瞳で理闘を見つめていた。思い出しても寒気がする。彼は何をしたかったのだろう。
「受験ノイローゼ、か」
口にしてから、よけいに真顔になる。ノイローゼになるほど受験が心配ならば、明峰学園にある付属大学に通えばいいのだ。私立大学だが、幸い銀閣の家は裕福だから問題はない。最終学歴が明峰大学でも充分胸を張れる学歴だといえる。しかも、実家の酒屋を継ぐ人間は銀閣しかいないし、先祖の手前、ひどい不興の煽りを喰らわない限りは六代も続いた店を簡単には潰さないだろう。もし銀閣が孝行息子ならば、実家を継ぐ。就職先が決まっているなら、さほど高学歴が必要だとも思えない。
銀閣が発作的な衝動に駆られて人に危害を加えるような要素が他に見あたらなかった。
学園内での危険人物は生徒会データで登録されているが、銀閣の顔に見覚えはない。不本意ながら理闘や迅晴も登録されているので、他の要注意人物の顔はすべて記憶している。きっと彼は、昨日までごく一般的な生徒にすぎなかったはずだ。
銀閣の行動に隠れた真意は何なのか。頭であれこれ考えても結局は想像に過ぎず、明確な回答は得られなかった。明らかなデータ不足だ。
「部長」
理闘が思い耽っていると、儷の抑揚ない声が届いた。面倒臭そうに目を向けると、今度は前に伸ばした儷の両腕がぷるぷると震えている。
「腕が動きません。僕の腕に何が起きたのでしょうか。骨肉腫でしょうか。美人薄命でしょうか。明日死ぬんでしょうか」
「大袈裟すぎ」
長い間ずっと重力に逆らって腕をあげていたのだから、痺れて動かないのも当然だ。理闘は呆れ気味につぶやくとパソコンを取り戻して、自分の膝に乗せた。
得意科目や趣味が記載された銀閣の紹介欄に目を通したが、めぼしい収穫はない。次のページに進んだ時、迅晴が液晶画面を覗き込んで、拡大された銀閣の証明写真を指差した。
「こいつさ、さっきと顔が違わねえ? なんか雰囲気っていうか、表情っていうか」
「確かに……別人みたいね」
これまではページの隅に印鑑のような小さい写真が載っているだけだったので、あまり気に留めていなかった。髪型が変わったというだけでは説明できない変貌ぶりである。
写真の中の銀閣は大きな目を力強く見開き、口許をきっちり閉めていた。陰鬱な空気はどこにもなく、むしろ優等生と形容した方がその印象に合致するほど誠実な顔をしている。
理闘は眉根を寄せながら、納得できずに唸った。
「あれが世に言う、キレるって現象なのかしら。知ってる? キレる人って、前頭葉が未熟らしいわね。よくわかんないけど、そういう人はあっち向いてホイをすればいいんだって」
「豆知識はどうでもいいじゃん」
迅晴は地面に座り込むと、黄色いリュックから中身をポイポイと取り出し始めた。
「あいつがどんな人間でも、どんな理由でキレても関係ねえよ。俺は復讐するだけ。闇討ちしようぜ、闇討ち。ほら、マスクもあるし鉄製ヌンチャクもあるぜ。準備万端だろ」
「ま、関係はないけどね……」
「深く考えることねえよ。住所さえわかれば、それでいいじゃん」
「あんたはそれでいいだろうけど、私のプライドはずたずたよ」
自慢の蹴りは出さなかったものの、拳がまったく通用しなかった。理闘の攻撃に怯む様子もなかった。修行不足だろうか。銀閣に圧勝できなかった自分が軟弱に思えるし、過去の鍛錬を全面的に否定された気分になる。理闘はとつぜん老け込んだようにがくりと肩を落とした。
「私、何やってんのかしら。迅晴なんかを助けに行って落ち込んでるなんて、よく考えたらすごく馬鹿みたいじゃない。素人に手をあげて、挙げ句、あんなの相手にして倒せなかったなんて過去最大の汚点だわ。腕が落ちたのかしら。ああ、なんか不安になってきた」
迅晴からの電話など無視すれば良かった。己の醜態を無理矢理迅晴へと責任転嫁しながら、日頃の不摂生と怠慢をひたすら悔いる。いっそ迅晴など一思いに刺されてしまえば良かったのだ。そうすれば膿むような後悔に苛まれなくても済んだのに。つい五千円に目が眩んで――。
その時、理闘の思考はぴたりと停止した。
「そういえば今日の罰金、まだ貰ってないわよ」
「あ!」
手を差し出したと同時に、迅晴が踵を返して走り出す。理闘は慌てて追随すると、愚かな逃走犯を捕まえてその脇腹に膝蹴りの制裁を加えた。
「逃げてんじゃないわよ、男らしくないわね」
「違うって。今、高橋夏実がいたんだって。マジで。あっちの道路に向かう車ん中にいた。夏休みに行方不明になった高橋夏実。絶対に夏実ちゃんだった」
「夏実って誰よ。下手な言い訳すんな、この残飯野郎!」
「間違いなく後部座席にいたぜ。俺が女の顔を見間違えるかよ。おら、四千円」
迅晴は脇腹を手で押さえて咳き込みながら、財布を取りだして千円札を四枚ばらまいた。理闘はそれを拾い集めながら、迅晴の話を頭の中で要約してから改めて組み合わせる。
夏休みに失踪した高橋夏実。弓道部に所属する一年生で、同じ弓道部の細川伊織と共に行方不明になっている。父母から提示された高額懸賞金は、確か百万円だった。
迅晴の逃走しかけた方向には東のF門がある。その門は人間と車輪が併用するもので、放課後になると裕福な生徒を迎えに来る車輌が多い。女子生徒を後部座席に乗せた車など、無限に通るだろう。だが――女の子が絡む時に発揮する迅晴の視力は驚異の五・○だ。
理闘は四千円を数えてからポケットに突っ込むと、毅然と立ち上がって迅晴に目を向けた。
「とうぜん車種は覚えてるでしょうね?」
「当たり前じゃん。黒のベンツ!」
「でかした」
理闘はパチンと指を鳴らすと、パソコンを閉じて儷の腹に押し込んだ。
「ベンツがこっちに曲がったかどうか、ちゃんと見た? 確かめたのね? 自信あるのね?」
「おう、E門で待ち構えてた方が早いぜ」
「……渋滞してるだろうから、急いだら先回りできるわね」
理闘は腕時計で時刻を確かめてから、E門までの最短経路に目を馳せた。
かなり時間が経っているので、警備隊は解散しただろう。そう願いたい。あれから救急車の到着する報せはなかった。田辺銀閣は目を醒まして一人で帰宅したのだろうか。それとも警備隊が学園の付属病院に担ぎ込んだのだろうか。――考えている暇はない。ふたたび猛進するために爪先に力を込めると、儷がまだ地面に座り込んでいることに気づいた。
「ちょっと儷、何やってんのよ。早く立ちなさい。遊んでる時間なんてないわよ」
「部長」
儷はパソコンを左脇に抱えながら、感覚の戻った右手で挙手した。
「背中が痛くて立てません。僕の背中に何が起きたのでしょうか。骨肉腫でしょうか。美人薄命でしょうか。明日死ぬんでしょうか」
「ああ、うるさい!」
儷の背中の痛みは、理闘が放り投げた時の後遺症に違いない。
理闘は手早く儷の脇に腕を差し込んで強引に立ち上がらせた。足に力を加えてないらしく、体重に任せて長い肢体がぶらりと地面に垂れている。
「そっち持って、迅晴。足の方」
「面倒くせえな」
迅晴は唾を吐いてから、渋々と儷の両足首を鷲掴みにした。儷の長い身体が、空中ブランコの下方に敷かれた網のようにゆるく撓る。
「行くわよ」
理闘の号令を合図に、儷の身体を担架そのものの形にして運ぶ。傍から見れば、気絶させた儷をふたりが誘拐している現行犯だろう。
「えっほえっほ」
儷のせいで無駄な時間が消費されているというのに、呑気に掛け声などかけている。腹に溜まった怒りを一喝に変えて、その頬を張り飛ばしてやりたかったが必死に我慢した。