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その8 幕間


 今日こそ彼女に告白する。ずっと言えなかった想いを伝えるのだ。

 掃除されたばかりのきれいな黒板を見つめ、自分の他には誰も座っていない整然と並んだ机たちを見渡し、教室前方に埋め込まれた壁時計に目を戻す。

 彼女には「放課後、教室で待つ」とだけ伝えてあるので、約束の時間は指定していない。

 かちかちという機械的な秒針が無情な音をたてる。その速度は世界の法則を無視してどんどん加速してゆくようだ。世界が一秒を終える間に、あの時計は三秒を刻んでいる気がする。

 ――落ちつかない。

 松本すばるは、五時をすぎても下校せずに教室に留まっていた。私物も机の中に残したまま片づけていない。緊張のために普段よりも多くトイレに通った他は、ただ黙って地蔵のように椅子に座っているだけだ。こんなに長い時間、誰かを待ったことがあるだろうか。ただひたすら待つという行為が、これほど苦痛だとは思わなかった。

 ほとんどの級友たちは、HRが終了してからすぐに教室を出ていった。帰宅する者、バイト先へ向かう者、部室へ向かう者、それぞれの目的を持って去っていった。普段ならすばるが一番に教室を出る。なのに、おそらく今日はすばるが一番最後に出ることになるだろう。

 すばるは、踵の半分を踏みつぶした足を落ち着きなく揺すりだした。緊張を紛らわすために無意識に行動しているのだと思うと、自分で自分が情けなくなって苦笑する。

 頭の後ろで腕を組むと椅子の脚を支点にして前後に身体を揺らした。床と摩擦した椅子の脚がきいきいと軋む。ちょうど三〇分前にエアコンが切れたので暑くて仕方ない。黄昏時になっても熱を吸収する窓を恨めしく見やると、彼は改めて意志を固めた。

 今日こそ、彼女に別れを告げる――。

 すばるは半年前から交際している徳子の顔を脳裏に思い浮かべた。

 目を惹くほど色は白くないが、きめ細かい滑らかな肌が清潔そうに見えた。だから、徳子に対しての第一印象はゆで卵だった。眉が細く目は一重で、頬が少し下膨れている。口唇にはいつも蛍光塗料のようなピンク色のリップを塗っていた。顔の輪郭に沿ってシャギーが入った茶色の髪は、出会った頃はまだ肩までしかなかったのに、今はもう肩胛骨が隠れるほど伸びきっている。それがふたりの間に流れた時間ということだ。

 きっかけは徳子からの告白だった。

 すばるは友人とバンド活動をしており、ベースを担当している。学園内の軽音部にも所属しているが、学園外での活動が主で定期的にライヴハウスで演奏できるほどそこそこ人気もあった。高校生の割にはしっかりした演奏だと、ライヴハウス経営者からも誉められるほどの実力を持っている。加えて、すばるの所属するバンドには容姿の良い人間が揃っていた。もちろんすばる自身も自分の顔が水準以上だと自負している。それ故、すばるの元には女の子がたくさん寄ってきた。

 顔も好きよ。けど顔だけじゃなく、あなたの奏でる音楽が好き。そんな遠回しな言い方をする女が多かった。手紙も貰ったし、ライヴ後に会場の外で待ちぶせされた。知らない女たちから、意味のない話を何かと投げかけられた。名前と顔が一致しない女ばかりだが、顔を合わせているうちに自然と仲良くなるものだ。彼女たちを位置づけするなら、ファン以上友達以下。徳子もはじめはその中のひとりだったらしい。

 同じ学園だという情報をどこから仕入れてきたのか、徳子はすばるのクラスをつきとめて教室に乗り込んできた。記憶が確かならば、昼休みだったと思う。食堂から帰ってきて級友と談笑していると、徳子が歩いてきて机をバンと叩いた。顔を真っ赤にして、教室中に響く大声ですばるに告白してきた。あまりにも突然の出来事だったので、すばるは呆気に取られた。だが徳子の全身が恥ずかしさのためにわなないている姿を見て正気に戻った。ゆで卵と認識していた女がトマトになった。それが妙に面白かった。

 すばるは考える余地もなく、あっさりと彼女の好意を受け止めた。徳子の外見は嫌いなタイプではないし、特定の恋人はいないし、心に秘めた想い人もいない。それに――他の女が言わなかった台詞を、徳子は直接ぶつけてきた。つき合って。他の女は、手紙に書くことはあっても口に出してその言葉を言うことはなかった。それが半年前のことだ。すばるの気持ちが曖昧なまま、ふたりの交際は始まった。

 特にふたりで出かけることもなく、思い起こしてもデートらしいデートをした記憶がない。すばるの自由時間はバンド活動や練習に当てられていたし、女とふたりで映画館や遊園地に行く自分など想像したくもなかった。徳子は一緒に登下校したいと要求してきたが、家が遠いので面倒くさいと断った。ふたりは同じ学園だが校舎ひとつを挟むほどクラスが遠い。それでも徳子は毎日昼休みにはすばるのクラスまで走ってきた。すばるが食堂に赴き、擦れ違って逢えなかった日など携帯電話でさんざん怒られた。泣かれたこともある。

 すばるは数ヶ月前を思い出して、思わず苦笑いを浮かべた。

 徳子の存在を鬱陶しく思えてきたのは、つきあい始めてから二ヶ月過ぎた頃からだろう。徳子は独占欲が強い訳でもなく、特別に嫉妬深い訳でもなかった。なのに何気ない行動が目についてきて、隣りにいるだけで目障りだと感じ始めた。次第に話しかけられるだけで気が重くなり、いつしかかかってきた電話に出ないことが増えた。

 自分でも、徳子を煙たがる理由がわからない。

 徳子を嫌いになったのかと聞かれれば違うと答えるし、好きな女ができたのかと聞かれれば違うと答える。今でも徳子が彼女なのかと聞かれたなら、そうだと答えるだろう。恋人と呼べる彼女は徳子だけだ。まだ今は。

 すばるは、肺の空気を全て吐き出すような溜息をついた。

 どの歯車が外れて噛み合わなくなってしまったのだろう。今となっては思い出せない。

 そもそも自分は徳子を恋人として扱っていただろうか。自分たちが並んで歩いて、他人の目には恋人同士に映っていただろうか。

 恋人としてつき合うという定義は何なのか、そのあやふやな境界線が怪しい。

 すばるが告白を了承した時点で、ふたりの恋人関係は成立した。なのにすばるは、少しも恋人らしい行動を取っていない。徳子の写真を愛おしい目で眺めたこともないし、大切すぎて手も握れないほど純粋な恋心を抱いているわけでもない。徳子を想って寝つけず、切ない思いに悩まされたことは一度だってない。

 徳子と手を繋いで胸が高鳴るかと聞かれれば、否と答えざるを得なかった。徳子の誕生日を祝ってやりたいかと聞かれても、答えは否。仮に祝いの席を用意したとしても、自分は心から彼女の生誕を祝っていないだろう。笑顔の仮面を被って、義理で祝ったふりをするだけだ。

 今誰かに徳子を好きかと問われれば、否と答える。では、つきあい始めたは好きだったのかと問われても否だ。嫌いではないと好きは、大きく意味が異なっている。

 自分は徳子に惚れていない。

 改めてそれに気づいたすばるは、彼女の好意が本物だとわかればわかるほど、苦手な授業を受けるように徳子と顔を合わせることが辛くなった。何度となく気まずい空気を味わった。

 恋人だと胸を張って言えないほど低次元な恋愛だったにせよ、発動してしまったものは終結させなければならない。言わなくて済むならどんなに楽だろう。ふたりの交際の起点は言葉による告白だったのだから、別れだって告白するべきだ。充分わかっている。いつまでも問題を先延ばしにして逃げ回っているのは性に合わない。

 嫌いじゃないけど別れたい。我ながら辻褄の合わない話だとは思う。嫌いではないのは、交際が始まった当時から同じではないか。

 これまでに何度か別れを切り出そうと試みたが、いつも機を逃してきた。何となく言い出せなかった。徳子が傷ついて泣くことは容易に想像できたからだ。

 だが心が悲鳴をあげている。もう限界だった。いい加減な気持ちのまま徳子を受け入れた罪悪感で、今にも心が押し潰されそうだ。

 机に突っ伏してしばらく目を瞑っていると、徳子の笑った顔が思い出された。

 きっと徳子は、呼び出された理由を察している。空回りするほど健康的な徳子の笑顔は、もう少しで泣き顔に変わるだろう。すばるから告げられる一方的な別れによって、心をずたずたに引き裂かれるだろう。その苦しみを思うと胸が痛む。きっとすばるは、徳子を慰める言葉を持たない。婉曲に別れを告げた方がいいのか、冷淡な態度で素っ気なく別れを告げればいいのか。どちらにしても、できるだけ徳子を傷つけない方法を選ぶべきだ。それだけが、すばるにとって唯一できる誠意の示し方だった。

 そんな時――野性的に鋭くなっている聴覚がこちらに近づく跫音を捉え、すばるは慌てて顔をあげた。徳子だろうか。早まる鼓動を抑えながら教室の前後にある扉を確かめてみたが、誰の姿もない。ほうと息をつく。

 自分が残念がっているのか、安堵しているのか、どちらとも言えない複雑な気持ちだった。

 時計を見上げると、すでに五時半を回っていた。窓の外はまだ明るい陽射しに晒され、部活動に精を出す生徒たちの活気に満ちた声で溢れている。

 徳子は部活をしていないのに、まだ姿を現さない。

 すばるからはっきりとした別離の言葉を聞きたくないのか、決別を先読みして泣き暮れているのか、とにかく心の準備に手間取っていることは確かだろう。それがわかるからこそ、すばるも忍耐強くじっと教室で待ち続けてきたのだ。

 しかし、この時間になると不安が募ってきた。徳子はすでに帰宅したかもしれない。とはい

え、携帯電話に連絡を入れることはさすがに躊躇われた。顔を見ずに別れを告げることは礼儀に反するし、通話の途中で徳子の方からはぐらかされてしまう恐れがある。しかし、それから数十分が経過しても徳子は姿を見せない。

 業を煮やしたすばるは鞄に荷物を詰めはじめ、乱暴に席を立った。今日は無理だ。諦めるように教室を出たが、その足取りは軽かった。死刑宣告を一日延ばされた気分だった。

 廊下に出るなり、肩幅の広い人影がまるで待ち伏せていたかのようなタイミングで現れる。

「松本すばる君だね?」

「そう、だけど……」

 驚きで引きつった顔を元に戻すと、すばるは冷静に答えた。彼を知覚した瞬間、咄嗟に徳子が現れたのだと思って焦心してしまった。

「松本すばる君。君は今、ある人に告白しようと思っているのに、それがうまくできずにいて悩んでいる。恋人に別れを告げたいんだね。違うかい?」

 すばるが大袈裟に狼狽すると、彼は上品に笑った。

「是非とも僕に協力させてくれないかな。君に協力したいんだ。きっと傷つかない方法で全てを終えることができるよ。そう。君に勇気をあげよう」

 彼は丁寧な言葉遣いをしているにも関わらず、すばるの耳には多重音声な上に不快な雑音が混じっているように聞こえた。言葉の他にもなにか別のものが含まれているような気がする。それが何であるかはわからない。彼はまだ語りかけてきたが、さっきまで日本語と認識していた彼の言葉が次第に理解できなくなっていった。

 彼はすばるの肩をポンと叩いた。

「彼女は自分の教室で待っているよ。なぜなら、君は一度も彼女の教室に出向いたことがないだろう? だから彼女は、君が自分の元を訪ねてくることを祈っているんだよ。別れを告げられることは彼女もとうに気づいているのさ。ただ一度でいい。一度だけでも、君の方から出向いてくれれば悔いはないそうだ。そうすれば諦めがつく。一方的に追いかけるばかりの恋じゃなかったと彼女は吹っ切れるんだよ。そう、君は彼女に別れを告げていいんだ。言いたいことは言うべきだし、言うべき言葉は言わなくてはいけない。わかるかい?」

「……ボコール」

 すばるはそうつぶやくと、授業中に居眠りを我慢する生徒のように半分だけ瞼を閉じた。口を開けたまま呼吸するので、咽喉がひゅうひゅうと鳴っている。すばるはがっくりと肩を落として、無人の廊下をふらふらと蛇行しながら徳子の教室を目指して歩いていった。


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