表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/45

その7


 男子生徒は無造作に走ってくると、振り上げたナイフを斜めに薙いだ。同時に観客席から女の子の悲鳴がほとばしる。理闘は距離を測って一歩退き、彼の手首めがけて的確に手刀を落とした。折れそうなほど細い手首だった。

 舗装されたアスファルトにナイフが転がり、理闘はそれを靴底で踏みつける。

「観念するのね」

 理闘が悠然と腕を組んで勝利宣言したにも関わらず、男子生徒は右腕を振りかぶって襲いかかってきた。理闘はチと舌打ちする。往生際の悪い人間ほど始末に負えない。

 伸ばされた少年の袖を掴み、腕を堅めながら、無防備に空いた少年の胴に入り込む。理闘は彼の勢いを使ってきれいに一本背追いを決めた。受け身を取らなかったので、彼は一回転してから硬い地面に背中を激しく打ちつける。おそらくまともに呼吸できないだろう。気絶してしまったかもしれない。

 そう確信した理闘だが、直後、起こり得ない現実を突きつけられる。驚愕した。少年が幽鬼のごとく立ち上がったのだ。彼は猫背をさらに丸め、足許が頼りなくふらついている。武器を失った上、立っているのが精一杯のはずなのに、それでも彼は立ち上がった。

 闘志も殺意も感じられないふたつの眼が、ぼんやりと理闘を見つめている。暗闇で何かを探るように両手を伸ばし、理闘に向かってとぼとぼと歩いてくる。

「何よこれ……」

 力の差は歴然としている。戦わずとも予めわかっていたことだ。なのに、どうして彼は挑んでくるのだろう。彼が理闘に勝てる見込みはゼロに等しい。それが理解できないのか。

 少年の拳は何度も大きく空をきった。理闘の顔面ばかりを狙い、無意味な攻撃を執拗に繰り出してくる。反撃を恐れないのか、彼は少しも防御姿勢を取らない。

 隙だらけの脇腹に拳を叩き込むと、彼は尻餅をついて倒れ込んだ。だがすぐに立ち上がって理闘へと拳を振り上げる。すでに手もあがらないのだろう、真横から飛び出る拳は紙飛行機のように下降線を辿るばかりだ。正気に戻すことが先決だろう考え、平手で応戦するが、一歩二歩後ろに退がるだけで効果はなかった。

 薄気味悪い。理由のない畏怖に駆られ、理闘は怯懦するように少し後退した。

それでも彼が向かってくるので、二度ほど彼の左頬に拳を叩き込む。普通の人間ならば、痛みを発する箇所を無意識に手で押さえるものだ。だが彼はそれをしない。彼の左頬は瘤のように腫れあがり、口の端からは惜しげもなく血が垂れていた。

 全身が説明のつかない汗にまみれる。

 どれだけ殴れば終わるのだろう。寄ってくる少年を思いきり手で突き飛ばすと、気功名人に気を操られた人間のように容易くよろめき倒れた。時間稼ぎだ。その先どうすれば良いか、理闘は頭の中で早急に策を練った。

 そんな時、周囲の人垣から杖をついたひとりの老人が近づいてくる。観衆がどよめいた。ナイフは奪ったので危険性は薄れているが、老人が割り込んでくる雰囲気ではない。騒ぎに気づいて足を止めたものの、理闘と少年の間に実力差がありすぎて目に余ったのだろうか。

 しかし、大声で一喝して場を収拾させるほど元気のありあまった老人には見えない。老人は杖で身体を支えながら、右足を引きずるようにして歩いてくる。一見して、左右の肩の高さが違っていた。骨格の歪みが原因なのか異様に背が低く、古ぼけて色落ちした水色の作業服を身にまとっている。その風貌は定年後に学園に就職した用務員を思わせた。

 理闘の前に辿り着くと、老人は歯が抜けたせいでたるんだ口許を緩めて笑う。

「それくらいで勘弁してやったらどうじゃ。ほれ、あの小僧はもう戦えまい。嬢ちゃんの方が強いのは、誰の目にも明らかじゃろう?」

「いえ、さっさと帰りたいのは山々なんですけど。というか、むしろ帰りたいです」

 切実な願いだ。

 老人は含み笑いを見せると、短い首を傾げる。

「嬢ちゃんの方が強いのに、なぜ決着がつかないんじゃ?」

「それは――」

 彼が不気味なほど不用意に向かってくるからだ。倒しても倒しても、無気力な顔で立ち上がるからだ。彼がナイフを失ってからの方がずっと、数倍も理闘の恐怖心を煽り立てる。

 彼がふらふらと近づいてきたので、理闘は老人を観客席に押し退けた。

「危ないから退がってください。詳しい事情は話せませんけど、ただの内輪もめなので先生たちには秘密にしといてくださいね。もともと私が悪い訳じゃないし」

 理闘は慌てて付け加えた。

 基本的に、彼が正気を失った事情どころか迅晴と対峙するまでの経緯さえ知らない。老人は老獪な皺を揺らしてホホホと優雅に笑いながら去ってゆく。一応は、若者の暴走を食い止めたのだという満足感に浸っているみたいだ。

 少年に目を戻すと、彼の顔面の腫れはいっそうひどくなっていた。蜂に刺された部分のように真っ赤に変色し、頬骨は皮膚を突き破るほどに膨らんでいる。転倒の際に破れた衣服の隙間から擦り傷が見え隠れしており、アスファルトとの摩擦でさらに出血していた。

「まだ続けるの……?」

 ぞっとした。

 彼に戦いをやめる意志はない。殴っても殴っても、意識がある限り立ち向かってくる。

 彼と理闘の間に面識は一切なかった。私怨もないし、本当ならば戦う理由もない。どうすればいいのだろう。困惑する理闘の耳に、およそこの空気に不似合いなシャッタ音が届いた。

 そちらに目をやると、迅晴がしきりに写真を撮っているではないか。迅晴の手には、夏休み前に紛失した部のデジカメがあった。理闘が運んできた黄色いリュックは、迅晴に背負われたまま豪快にチャックが開いている。

 理闘の視線に気づいた迅晴は軽薄そうなウインクをみせた。

「証拠おさえとけば、後から復讐できるだろ」

「身内に窃盗犯がいたとは盲点だったわ。後でカメラは回収するわよ。それに罰金も倍ね」

「盗んだわけじゃねえよ。夏休み中、借りてただけ……」

「言い訳はやめて。ついでに、あんた減給だから」

「……ひでえ」

 迅晴は舞台役者のように大きな動作で泣くふりをした。

 少年は緩慢な動きながら、ゆっくりと着実に距離を縮めている。その虚ろな顔に感情は伴っておらず、無気力な姿が惜しみなく寒気を誘った。理闘が幾ら殴ろうとも、彼は死ぬまで立ちあがってくるような気がした。――死ぬまで? 過剰防衛の過失致死なんて冗談じゃない。

 理闘は苛立たしげに地団駄を踏んだ。

「いいから、早くあれを何とかしなさいよ」

「今さらだぜ。俺が言っても手伝わなかったくせに」

「馬鹿ね、これは正当防衛でしょ。私はお金が何より大事だけど、戦いにお金は持ち込まないの。私の名前わかってんの? 私はいつでも理に倣って闘うんだから!」

「へいへい」

 迅晴は黄色いリュックを降ろし、カメラを押し込むかわりに何かを取り出そうとしている。

 喧嘩見物を気取って周囲に集まった通行人たちは、いつのまにか三倍以上に増えていた。中にはただの喧嘩ではないことに気づき、騒ぎ出す者もいる。

 早く決着をつけなければ面倒な警備隊がやってくる。いっそ思いきり鳩尾に当て身をして気絶させてしまおうか。理闘は眉を歪めて、少年を食い入るように見つめた。

 一瞬で腹に正拳をつけば、痛みも少ないはずだ。加減を間違えれば肋骨を折ってしまうかもしれないし、意識が回復した時はひどい激痛に襲われるだろう。だが他に方法がない。

 そう決心したと同時に硬く拳を握ると、とつぜん背後から迅晴の声があがった。

「理闘、そいつを押さえつけろ!」

「何でよ!」

 反問しつつ、理闘の俊敏な反射神経は考えるよりも先に迅晴の指示に従っていた。

 少年の背後に回り込んで羽交い締めにしたが、それでも少年は鈍い動きで戒めを解こうと懸命にもがく。少年は溺れる人間のように策もなく手足をばたつかせて抵抗した。肩の間接をがっちり押さえ込んでいるので、簡単に抜け出すことはできないはずだ。しかし闇雲に頭を振り回してくるので、後頭部がぶつかってきて顎に鈍痛が走る。計算外だった。

 少年は掠れた低い声で、まだ何かをつぶやいていた。ボコール。そう聞こえる。意味はわからないが、彼はただひたすらにその単語を繰り返していた。

 嬉しそうな顔をした迅晴が、小型の缶スプレを手にして颯爽と駆け込んでくる。逆の手に白い布を握り、それを口許に当てていた。直感が騒ぐ。きっとあれは吸うと人体に影響がある危険物に違いない。そう察知した理闘は口を固く閉じて肺呼吸を停止させる。

 予想通り、迅晴は彼の顔面めがけて霧状の液体を容赦なくふきかけた。しばらく抵抗していた彼も、数秒後には完全に沈黙して体重を預けてくる。

 理闘が丁寧に彼を降ろした直後、警備隊の到着を報せる甲高い笛の音色が近くに聞こえた。

 まずい。理闘は迅晴を引き連れ、野次馬の群れに混じりながらその場から速やかに立ち退いた。警備隊から距離をあけて擦れ違い、わざとらしい裏声で「救急車を呼んでくださーい」と何度か叫んでおく。少年の意識がないことに疑念を抱いて、警備隊が独自に捜査を始めることはフェクト・レスにとって喜ばしい出来事ではない。

 理闘は錯綜する人混みの中に儷の姿を探しながら、迅晴の持つ缶に目をくれる。

「それ、何のスプレよ?」

「クロロホルム」

「なんで、そんなもん持ってるのよ!」

 迅晴はにたりと笑った。

「そら、夜道を歩く女の子のために決まってんじゃん」

「……あんた最低ね」

 理闘はがくりと首を垂れ、苦悩するように頭を振った。変態の領域を越えて、もはや犯罪者だ。どうしてフェクト・レスには、こうもおかしな部員ばかりが集まるのだろう。

 嘆く理闘とは正反対の表情で、迅晴はいそいそとリュックに缶スプレと折りたたみナイフを押し込んでいる。少年が持っていた刃物だ。騒ぎに便乗して勝手に盗んできたのだろう。

 現場から離れ、下校途中の無関係な生徒に紛れ込んで胸を撫で下ろす。

 それにしても儷はうまく逃げ切っただろうか。不自然ではない程度に辺りを見渡してみたがそれらしい姿が見あたらない。

 校舎から門に出るまでの途中に大きな噴水が埋め込まれている。噴水の脇に腰を据えて五分ほど儷の姿を探したが、超人的な理闘の視力を以てしても捉えることができなかった。面倒をかける男だ。仕方なく理闘は腰をあげ、素知らぬ顔を装い現場の方向まで逆戻りした。

 現場付近に到着するなり、理闘はお化け屋敷の仕掛けに驚くように身を竦ませる。儷は警備隊に囲まれていた。しかも両腕を肩と水平にあげたまま、首を横に垂らして眠っている。

「信じらんない神経してるわね」

 理闘は呆れを通り越して怒りを覚えた。

 逃げるどころか、儷はあの場で起こった全てに気づいていないだろう。恐らく、自分が門前に立ち、好奇の目に晒されていることすら自覚していないに違いない。数人の警備隊は儷の周囲をぐるぐると回りながら、不審そうに目を細めて儷の身体を揺らしている。

 そこで理闘は、儷の真横にサンハクが寄り添っていることに気づいた。サンハクは片眉を吊り上げてから皮肉げに笑う。背の高いシルクハットを脱帽して、華麗に一礼してみせた。

 サンハクが目立つ行動をしたためか、自然と警備隊の目がこちらに流れる。慌てて理闘は儷を捜しに来た友人を即興で演じた。あら鮎川くん、こんなところにいたの。大丈夫? 具合が悪いんじゃないの。ああ貧血かしら。だから保健室で休めばって言ったのに。

 大袈裟な言い回しをしながら警備隊を押し退けて、強引に儷を奪還する。ちらりと地面を一瞥すると、刃物を持っていた少年はまだ地面に倒れ込んでいた。

 不思議なことに、サンハクの姿はどこにもない。

 先ほど見たものは錯覚だったのだろうか。混乱する頭を整理しながら、とにかく安全な場所を求めて足を急がせた。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ